森鴎外
1908(明治41)年
5月2日
啄木(22)、与謝野鉄幹(35)に連れられて森鴎外宅の「観潮楼歌会」出席。出席者は、伊藤左千夫、北原白秋、佐々木信綱、平野万里、吉井勇等、主客の8名。
「五月二日
与謝野氏は外出した。晶子夫人と色々な事を語る。生活費が月々九十円かかつて、それだけは女史が各新聞や雑誌の歌の選をしたり、原稿を売るので取れるとの事。明星は去年から段々売れなくなつて此頃は毎月九百しか(三年前は千二百であつた。)刷らぬとの事。(昨日本屋の店に塵をあびて、月初めの号が一軒に七部も残つて居た事を思出した。)それで毎月三十円から五十円までの損となるが、その出所が無いので、自分の撰んだ歌などを不本意乍ら出版するとの事。そして今年の十月には満百号になるから、その際廃刊するといふ事。怎せ十月までの事だから私はそれまで喜んで犠牲になりますと語つた。
予は、殆んど答ふる事を知らなかつた。噫、明星は其昔寛氏が杜会に向つて自己を発表し、且つ杜会と戦ふ唯一の城壁であつた。然して今は、明星の編輯は与謝野氏にとつて重荷である、苦痛を与へて居る。新詩社並びに与謝野家は、唯晶子女史の筆一本で支へられて居る。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編輯長に雇はれて居るやうなものだ!
話によれば、昨年の大晦日などは、女史は脳貧血を起して、危うく脈の絶えて行くのを、辛うじて気を熾んにして生き返つたとの事。双児を生んでから身体が弱つたといふ。父は中風であつたが、中風の遺伝ある者は、三十以上になつて本を読んではいけないと医者が云ふが、“怎して貴君、読む所ではない、自分で拵へるんですものねー。(略)
それから又、此頃脱稿したといふ一幕物の戯曲“第三者”の話をした。女主人公(博士夫人)は女史自身で、一緒に自殺する男は森田白楊君、そこへ出て来て女主人公に忠告する大学生は茅野君を書いたのださうな。それから、モ一つ、去年の夏から起稿して半分書いた、万朝報へ約束の、題未定の小説も亦、森田君を書いたのだと話した。
宮崎兄と小嶋君とせつ子へ手紙を書いた。
二時、与謝野氏と共に明星の印刷所へ行つて校正を手伝ふ。お茶の水から俥をとばして、かねて案内をうけて居た森鴎外氏宅の歌会に臨む。客は佐々木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋に予ら二人、主人を合せて八人であつた。平野君を除いては皆初めての人許り。鴎外氏は、色の黒い、立派な体格の、髯の美しい、誰が見ても軍医総監とうなづかれる人であつた。信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。左千夫は所謂根岸派の歌人で、近頃一種の野趣ある小説をかき出したが、風采はマルデ田舎の村長様みたいで、随分ソソツカしい男だ。年は三十七八にもならう。
角、逃ぐ、とる、壁、鳴、の五字を結んで一人五首の運座。御馳走は立派な洋食。八時頃作り上げて採点の結果、鴎外十五点、万里十四点、僕と与謝野氏と吉井君が各々十二点、白秋七点、信綱五点、左千夫四点、親譲りの歌の先生で大学の講師なる信綱君の五点は、実際気の毒であつた。鴎外氏は、“御馳走のキキメが現れたやうだね。”と哄笑せられた。次の題は、赤、切る、塗物の三題。九時半になつて散会。出て来る時、鴎外氏は、“石川君の詩を最も愛読した事があつたもんだ。”」
5月3日
第2次欽廉事件。黄興ら、ベトナムから進攻。
5月3日、撤退。
5月3日
大杉栄、メーデーの行進に参加。参加者約30名(堺利彦、山川均、荒畑寒村、竹内善朔、管野すがら)。コースは、日比谷公園~銀座から上野。
5月4日
啄木(22)、金田一京助の友情で本郷区菊坂町82番の赤心館に同宿。爾後創作に専念する。
鉄幹、生活に困窮した啄木に、新詩社の短歌添削の会である「金星会」を主宰させる。
8日より小説「菊地君」を書き始める。
18日「菊地君」を中断し「病院の窓」を書き始める。
26日「病院の窓」91枚を終え、金田一が「中央公論」の滝田樗陰のもとに送る。
28日「母」を書き始め、30日終了。
31日、金田一は午前と午後に中央公論で出向く。午前中に渡した「母」の原稿戻される。
「五月四日
(略)
二六新聞へ入社する様に主筆に話して来たと与謝野氏が語る。新詩社附属の歌の添刪をやる金星会を、今後予がやる事にきまる。
三時、千駄ヶ谷を辞して、緑の雨の中をこの本郷菊坂町八十二、赤心館に引き越した。・・・・・」
5月4日
帝国帆船海上保険株式会社創立。東京。資本金50万円。
5月5日
「労働者」(「日本平民新聞」附録)の所収の山川均「百姓はなぜ苦しい乎」・堺利彦「貧乏人と金持の喧嘩」により罰金60円。森近運平、「日本平民新聞」を廃刊。
22日、大阪平民社解散式。
7月8日~9月6日、森近運平、大阪監獄に収監。出獄後、上京。
5月5日
政友会本部主催演説会。
鳩山和夫「帝国の国是」。ヨーロッパ人はアジアに入るべからずという「モンロー主義」を主張、「・・・僅かばかり増税にグズ々々言ふのは謂はゆる愛国心が無いのである」。
竹越与三郎、増税反対者は「一種の猶太人の様な人種であるから、支那に移住した方が善からう」と論じる。
5月5日
宮崎県西諸県郡飯野村、仏人経営製材工場、仏人所長の苛酷な態度に反対し職工暴動。工場など破壊。
5月5日
日米仲裁裁判条約調印(ワシントン)。8月24日、批准書交換。
5月6日
新聞紙条例を廃し、新聞紙法公布
5月7日
(漱石)
「五月七日(木)、夜、小宮豊隆来る。(五月十日(日)まで泊る)
五月九日(土)、午前、東京朝日新聞社の会合に行く。会食をして、人力車で帰る。
五月十日(日)、雨。午後、馬場孤蝶来る。寺田寅彦・小宮豊隆も来る。十時、小宮豊隆帰る。「筆はあなたがすきなんだから、筆が大きくならないうちに、お嫁にもらって下さい、さうしないとあの子が可哀想だから、と奥さんが言はれた。」(「小宮豊隆日記」)
五月十日(日)前後、『文鳥』を書く。(推定)
五月十一日(月)または十二日(火)、渋川柳次郎(玄耳)を訪ねる。大塚楠緒の病気について話したらしい。
五月十四日(木)、鈴木三重吉・小宮豊隆来る。鈴木三重吉、『烏物語』を読む。小宮豊隆泊る。」(荒正人、前掲書)
5月7日
森近運平「農民のめざまし」(「日本平民新聞」)により入獄
5月7日
啄木、手紙で上京の決意を森鴎外に伝える。
「謹しみて過ぎし夜の御礼申上侯、
海氷る御国のはてまでも流れあるき侯ふ末、いかにしても今一度、是非に今一度、東京に出て自らの文学的運命を極度まで試験せねばと決しては矢も楯もたまらず、養はねばならぬ家族をも当分函館の友人に頼み置きて、単身緑の都には入り侯。」
5月8日
大杉栄の4月6日のエスペラント講習会で述べた「開講の辞」が『衡報』(2号)に掲載

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