2026年3月23日月曜日

大杉栄とその時代年表(787) 1908(明治41)年6月16日~22日 二葉亭四迷が見た大連 「露国の遣方(やりかた)は実際的ではなかったから、こんなに大風呂敷を拡げやがって、尻括(しりくくり)が出来るか如何(どうか)怪しいものだと嘲けりながらも、眼前に大埠頭の海に突出し大厦高楼の巍然(ぎぜん)として広衢(こうく)の左右に聳ゆるのを見ては、竊(ひそか)にスラーブ民族の羽翮(うかく)の力存外強く、一たび搏てば高く天に沖(ちゆう)する勢いあるに驚き、我が日本の前途の為に憂惧せざるを得なかった」 (「入露記」)

 

旧満鉄(南満洲鉄道株式会社)大連本社ビル(1908(明治41)年竣工)

大杉栄とその時代年表(786) 1908(明治41)年6月14日~15日 現実に川上眉山を殺したのは、生活の窮迫であり、将来への悲観であった。そのことは二葉亭の送別会に出席した誰もが知っていた。彼は死に臨んで、武士の末裔であることをしめすかのように、ためらい傷ひとつつくらず、剃刀のただ一閃によってその命を断ち切った。〈関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』より〉 より続く

1908(明治41)年

6月16日

横田大審院長・松室検事総長、司法官会議代表者と共に参内、拝謁。社会主義者取締りに関する上奏と推測される。

6月16日

冷蔵貨車初めて東海道線に運転開始する

6月17日

「六月十七日

曇つたり晴れたり、少し風。そんなに暑くない日だ。金星会の歌を直した。宮崎君へ手紙かいた。吉井君の事。京橋の女の事。

昨日の新聞にあつた、一昨暁剃刀で自殺した川上眉山氏の事について考へた。近来の最も深酷な悲劇である。知らず知らず時代に取残されてゆく創作家の末路、それを自覚した幻滅の悲痛! ああ、その悲痛と生活の迫害と、その二つが此詩人的であつた小説家眉山を殺したのだ。自ら剃刀をとつて喉をきる、何といふいたましい事であらう。創作の事にたづさはつてゐる人には、よそ事とは思へない

(略)

一日も幸福といふ事を知らずに死んだ姉! その姉の事を考へると、一日も早く親孝行をしたいものと考へらるる。悲しい事の多い身を、他から見た様に憐んでもみる。」(啄木日記)


6月18日

第1回ブラジル移民船・笠戸丸、サントス着。日本人移民791人。

6月18日

山口義三、仙台監獄を出獄。

19日午前9時半、上野駅で硬軟両派70人の出迎え。西川光二郎が山口を連れ本郷の西川宅へ人力車でつれて行く。残った出迎え人が赤旗4本を先頭にデモ行進、上野山下で警官の乱闘。荒畑寒村は交番に連行されるが、大杉栄、百瀬晋、村木源次郎が交番に躍り込んで荒畑を奪還。切通坂~春木町を経て西川宅までデモ行進。

山口:「父母を蹴れ」(「日刊平民」)・「貧盲の戦争」(「光」)・大杉「新兵諸君に与ふ」で1年2ヵ月の刑期。

6月18日

「六月十八日(木)、小宮豊隆来て、筆と共に入浴する。夕方雨になる。小宮豊隆泊る。

六月十九日(金)、小宮豊隆、夜遅く帰る。」(荒正人、前掲書)


6月18日

夜半、二葉亭の乗船する神戸丸、門司港に着岸、夜明けを待って荷役がはじる。

二葉亭は船を降り、朝日の支局で何通かの手紙を投函し、そのあと豪雨のなかを人力車で市中を見物しがてら和布刈(めかり)神社を参拝した。市内は建築ブームに沸いていて、大連航路の定期開設とともに門司の全盛期がはじまろうとしていた。

午後2時、出港。二葉亭は出発前の高揚の気分をひきずったままデッキ上を歩きつづけた。

6月18日

フィリピン、官立フィリピン大学設置法案成立。

6月19日

「六月十九日

起きたのが八時、巻煙草がない。十二時迄はその事許り考へて、立つて室の中を歩いたり、腰かけて窓をあけてみたり許りした。昼飯を喰つてから、到頭、羽織と肩かけを持つてつて質に入れ、煙草と、机(七十銭)をかつて来た。

あつい日であつた。

・・・・・四時頃吉井君が来た。

吉井君の歌集出版を勧める。学校の方は退学したさうだ。・・・・・。金田一君も来た。

八時頃、二人で出かけて大学の前の夜店を見てあるく。・・・・・帰つたのは十時。


六月廿一日

日曜日。七時に目をさまして与謝野氏からの手紙をみる。

十時過まで金田一君と語つた・・・・・

並木君が来て一円かしてゆく。夏坐布団二枚かつて来た。

一時頃、平野君来る。共に千駄ヶ谷に行つた。平出君や其他二三の社友がゐた。いろいろの話。夕飯。十時になつて平野君と共に帰つて来た。晶子さんから三円

(略)」(啄木日記)


6月20日

奈良県郡山町立女子小学校高等科一同、訓導への不満から同盟休校。

6月20日

大杉栄「敵は平穏か」(『熊本評論』)

6月21日

「六月二十一日(日)、松山出身の森次太郎(円月)来て、依頼された俳句二つを短冊に書いて贈る。この時か、それ以後、愛媛県の明月上人と蔵沢をお礼に持参する。その機縁で両者三、四点集める。(蔵沢の墨竹珍重し、修善寺大患後、手本にして竹を描く)

六月二十二日(月)、松本文三郎宛手紙で、京都帝国大学随意講義を再び依頼されたが断る。(その後、九月から十月の初めに、また来て依頼されたが、十月六日(火)の手紙で断る)

(錦輝館赤旗事件発生する。)

(六月二十三日(火)、国木田独歩、南郷院(現・神奈川県茅ヶ崎市南潮六丁目)で療養中、肺結核のため死去する。三十八歳。)」(荒正人、前掲書)

6月21日

大杉栄、村木源次郎とともに竹屋に旗竿2本海に行く。荒畑寒村が間借りしている家の主婦に頼んで、赤旗に「無政府共産」「無政府」の白テープの文字をミシンで縫ってもらう。

6月21日

婦人参政権論者、選挙権求めるキャンペーン推進。

21日、ハイド・パークの集会に20万人参加。

6月21日

リムスキー・コルサコフ(64)、ペテルブルクで没。

6月22日

午後3時、二葉亭四迷、大連着。3日滞在。

25日夕方、寛城子着。

27日ハルビン着。5日滞在。シベリア鉄道でペテルブルクに向う。


大連は二葉亭にとって三度目。最初は明治35年夏、二度目は36年夏。当時は「どういうものか」「至る處軍事探偵と誤認せられ」た彼は、ロシア領の大連を「小さくなって目立たぬ様に」見物してまわった。今回は日本の海外領土となっているので堂々と歩け感慨に堪えない。しかし憂国家の二葉亭は、日本領となった大連の街区を眺め、ロシアの力量をあらためて認める。


「露国の遣方(やりかた)は実際的ではなかったから、こんなに大風呂敷を拡げやがって、尻括(しりくくり)が出来るか如何(どうか)怪しいものだと嘲けりながらも、眼前に大埠頭の海に突出し大厦高楼の巍然(ぎぜん)として広衢(こうく)の左右に聳ゆるのを見ては、竊(ひそか)にスラーブ民族の羽翮(うかく)の力存外強く、一たび搏てば高く天に沖(ちゆう)する勢いあるに驚き、我が日本の前途の為に憂惧せざるを得なかった」 (「入露記」)


大連に3日滞在、寛城子には6月25日夕に到着し満鉄倶楽部に泊った。寛城子からはロシア鉄道で、ハルビンまでの料金9ルーブリ、荷物料1ルーブリ。6月27日、ハルビン着、日本公使館内の深い因縁のある杉野鋒太郎宅に5日間投宿。

ハルビン~モスクワ間は約8千km、シベリア鉄道1等切符の料金は236ルーブリ60コペイカ、日貨にして約250円。東京~大連間で、すでに320円使っている。交通費、宿泊費、ロシア人向けの土産など。土産は東海道五十三次、赤穂四十七士、美人画像などの彩色画集計10冊分30円。モーニング、フロックコート、ワイシャツ新調に125円。満洲では鉄道料金以外で90円ほど使った。シベリア鉄道車内での飲食代とサービス料は、1日平均5ルーブリほど。

7月9日、モスクワ到着3日前に残金を計算すると、胴巻の800円が278円になっていた。彼の全消費金は715円なので、土産や衣裳代などは二葉亭の自前の金だったと推定できる。

二葉亭は、7月2日、ハルビンを出発、7月12日モスクワ着、7月15日、ぺテルブルグに到着した。


つづく


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