1908(明治41)年
7月4日
第1次西園寺内閣総辞職。社会主義取締緩慢との元老山県の批判。寺内陸相辞任強制工作など。
西園寺は、鉄道建設要求などの地方利益誘導に動き始めた政友会に愛着を感じられなくなり、桂や元老らの支持がなくなったこと、病気の問題があり、日露戦争後の一仕事を終えた今が、辞め時と判断。
原は、「西園寺の病気も事実なれども、同人は意思案外強固ならず、且つ注意粗にして往々誤あり」と、西園寺の性格や政治家としての資質を批判。また、この倒閣を、「山県の内奏を始め種々の姦計」、「山県系の陰険手段」等、山県や山県系官僚閥の陰謀によるとみる(「原敬日記」7月2、7日)。
〈倒閣の策謀と内閣総辞職(古屋哲夫『日本内閣史録』より)〉
絶対多数の与党政友会に対して、元老勢力の中の反政府的な動きが露骨になってきた。まず問題となったのは財政問題。明治41年度予算成立後も不況は回復せず、予算の実行にさえ困難となっていた。元老井上馨は「松方と連名で西園寺首相始め閣員を内田山邸に呼集め、寧ろ弾劾に近い詰問を為した」(井上馨侯伝記編纂会編「世外井上公伝」)。
原内相は「井上が財政云々をなすは例の消極論を桂等利用して早く政権に有つかんが為めなり」とし背後の桂の倒閣への動きを感じとっていた。しかし、これは「桂が山県、松方、井上を利用し て財政上の困難によりて内閣を譲り受けんとの野心を生じたるものなれども、少くとも此冬の議会を過ぎざれば内閣を譲り渡すべき理由なし」(「原敬日記」)というのが原の基本的態度であった。
問題が財政のみであれば、まだ原のねばりが奏功する余地があったかもしれないが、そのうえに社会主義取締り問題がもち出されるにいたって、ついに西園寺内閣も退陣を余儀なくされた。
6月23日、徳大寺侍従長より社会主義者取締りについて説明を求められていた原内相は、この日参内して徳大寺からこのことが、山県有朋の上奏に起因していることを知らされた。徳大寺によれば「山県が陛下に社会党取締の不完全なる事を上奏せしに因り、陛下に於せられても御心配あり、何とか特別に厳重なる取締もありたきものなりとの思召もありたり」とのことで、原は「山県の陰険なる事今更驚くにも足らざれども、畢竟現内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し此手段に出たるならん」(「原敬日記」)と評している。
このときの上奏の内容は明らかでないが、山県のこの内閣への不満は在米日本人社会主義者の過激化とともに急速に増大してきていた。
明治39年12月、日本人グループが発刊した雑誌『革命』がサンフランシスコを騒がせ、更にこのグループは40年11月3日の天長節(明治天皇の誕生日)に「暗殺主義第一巻第一号、日本皇帝睦仁君ニ与フ」と題するパンフレットをつくり、サンフランシスコ日本領事館の壁に貼り付けるという挙に出た。彼等はその実行に何の準備も持たなかったが、このパンフレットは「睦仁君足下、憐レナル睦仁君足下、足下ノ命ヤ旦タニ迫マレリ、爆裂弾ハ足下ノ周囲ニアリテ将ニ破裂セソトシツヽアリ」と天皇暗殺を宣言して人びとを驚かせた。
この事件に関連して山県は、渡米中であった東京帝国大学教授高橋作衛から、在米日本人社会主義者に関する詳細な報告を得ていたと推測されている。そして山県は、日本国内の社会主義者にこうした天皇打倒を叫ぶ動きが伝わってくることをおそれた。日本社会党が結社禁止処分に付されたのち、社会主義運動内部における硬軟両派の対立は激化していったが、直接行動派も、金曜講演会を組織するなどして活動を続けており、「暗殺主義」パンフレットも相当数、日本国内に郵送されたといわれる。
また、6月22日の 「赤旗事件」で拘束された者が、厳しい取調べを経て監獄へ送致されたあと留置場の壁に
「一刀両断天王首 落日光寒巴黎城」 (一刀両断す天王の首 落日光寒しパリの城)
という漢詩が発見されて大騒ぎになった。詩は直接にはフランス革命をうたったものであるが、「暗殺主義」に結びつけてみられるようになった。「赤旗事件」は裁判で、大杉栄の重禁錮2年半、罰金25円を筆頭とするこれまでに例のない重刑を課せられた。
そして、6月27日、西園寺首相は大磯の自邸に原内相、松田蔵相の政友会出身両閣僚を招き、「近来多病にて今日まで強て留職せしも到底其任に堪へず」(「原敬日記」)と辞意を告げた。原らは、今辞職するのは時機が悪いし、誰も病気のためやめたと思う者はいない、この冬の議会を終わったのち、内閣が際限なく続くことは国家のためにならないとの趣旨を公然と発表して辞職するのがよいと説得したが、西園寺の辞意を翻えさせることはできず、7月4日、西園寺は閣僚の辞表をまとめ、内閣は総辞職した。
何故、西園寺首相がこの時期に突如として辞職してしまったのかは明らかてはない。原は、西園寺から辞意を告げられた翌々29日、元老井上馨と会い情勢を探っており、「井上の此談話によれば西園寺は四面より辞職を促がされた如く見ゆ」と記しているが、同時に「果して然らば余に内話あらば余は亦相当の処置も取り得たるに、彼何故か余に漏らさず、而して表面的に辞職の決意を告ぐるとは其意を解すべからず」(「原敬日記」)と、西園寺の真意をはかりかねていた。
7月4日
「七月四日
今日は第一土曜日。
九時頃起きて“刑余の叔父”を少し書いた。二時頃吉井君が来た。・・・・・平野君も来た。一緒に四時頃千駄木へ行つた。
今日は森先生の観潮楼歌会である。北原君が来てゐた。やがて伊藤左千夫翁も来た。・・・・・
(略)
雑談があつて十時四十分散会。かへりは少し雨が降り出した。
(略)
七月五日
十二時ですと謂つて、女中に起された。曇つた日。
一時、森川町一番地桜館に正宗白鳥君を訪問した。背のひくい、髯のない人。四年前に一度読売社の応接室で逢つた事があつたが、そのまま些とも老けてゐない。
随分ブツキラ棒であるとは人からも聞いてゐた。入つて行つても、ロクに辞儀もせぬ。茶を汲んでも黙つて出したきり、……それが頗る我が意を得た。何処までもブツキラ棒な話と話。二時半帰る時は、然し、額を畳に推しつける様にして、宛然バツタの如く叩頭をした。玄関まで送つて来た。
(略)」(啄木日記)
7月4日
米、労働党大会。大統領候補マーティン・プレストン選出。プレストンが殺人罪でネバダ州刑務所に服役中であり、憲法上の年齢に達していないことから、ニューヨーク州のオーガスト・ギルハウスが選ばれる。
7月5日
論説「普通選挙を主張す」(「新報」~9月15日連載、主幹植松考昭)。納税資格の完全撤廃による普選を要求。
7月5日
坂本清馬「管野幽月女史を想う」(「熊本評論」)。坂本は東京に向う。
7月6日
「七月六日
十二時に目を覚まして、せつ子と妹からの手紙を見た。かなしみを自ら消した――
恋妻といふ我が一語に喜ぶ妻! “時”の破壊力の怖ろしさ! ああ、予は此朝、我がせつ子を縊り殺す程強く抱いてみたかつた。!!!
あやまれる妹! 許してくれといふ妹!
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曇つた日。誰も来なかつた。此間古本屋から買つて来た Favourite poems を六十銭に売つて、煙草を買つて来た。
金田一君と語つた。明治新思潮の流れといふ事に就いて、矢張時代の自覚の根源は高山樗牛の自覚にあつたと語つた。先覚者、その先覚者は然しまだ確たるものを攫まなかつた。……自分自身の心的閲歴に徴しても明らかである。樗牛に目をさまして、戦つて、敗れて、考へて、泣いて、結果は今の自然主義(広い意味に於ける)!
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七時頃に出て二時間許り赤門の前を徘徊した。何ものかを求めて歩く若い男と女の中に交つて、自分も若い心地になつてると、何となく常にない軽い空気を吸つてる様だ。はかない楽しみではある。
(略)」(啄木日記)
7月8日
東山魁夷、横浜で誕生。3歳の時、神戸に移る。
7月9日
(漱石)
「七月九日(木)、小宮豊隆来て、出入りの洋服屋で洋服を誂える。
(七月十日(金)頃、鈴木三重吉(二十七歳)、東京帝国大学文科大学英文学科卒業する。小宮豊隆(二十五歳)、東京帝国大学文科大学独逸文学科卒業する。大学院に入り、戯曲中心にギリシャ文化を研究する。野上豊一郎(二十六歳)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業する。大学院に入り、『国民新聞』文芸欄を担当していた高浜虚子を手伝う。野上弥生子も高浜虚子と親しく交際するようになる。)
七月十一日(土) (推定)、高浜虚子から手紙で、松根東洋城は鏡の従妹山田房子と結婚したがっていると知らせて来る。高浜虚子宛手紙で、鏡は山田房子の側には異存はなかろうが、その話は、松根東洋城の意志なのか、高浜虚子の世話なのか聞いて欲しいと云っていると伝える。(松根東洋城、鏡の従妹山田房子を好きになるが、縁談は成立しない)
七月十二日(日)、小宮豊隆来る。常盤倶楽部(不詳) へ誘おうとしたが、浅草へ行って留守なので、夕方帰りを待っている。
山田房子は、明治四十年から明治四十四年まで、夏目家で働く。この結婚話は、高浜虚子の世話である。房子は、鏡にむかい、自分は教育もないので、そんな立派な方の奥さまになる資格はないが、もう一年ほど仕事を勉強してからと云う。まんざらでもないので、よく考えなさいと云うと、そうしますと答える。だが、この縁談は成立しない。」(荒正人、前掲書)
つづく
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