1908(明治41)年
7月24日
長崎県端島炭坑暴動。
7月24日
青年トルコ党革命。トルコ第2次立憲制。青年トルコ党、統一と進歩委員会とアルバニアの支持を取り付ける。スルタン(オスマン朝第34代君主)のアブドゥル・ハミト2世(66)、1876年憲法(ミドハト憲法)復活を承認。
革命の雰囲気に触発されストライキ頻発。
10月、オスマン帝国内自治公国のブルガリアが完全独立を宣言。オーストリアも、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を通告。
12月、議会で帝国内のキリスト教諸民族が各々の利益を主張。逆に、青年トルコ党に反発する保守的イスラム教徒が「イスラム連合」を結成して下層市民や神学生の支持を集める。青年トルコ党はストライキ弾圧側にまわり、軍人事でも革命前に重要とされてきた人々を冷遇、その不満を増幅させる。
欧州諸国は革命の混乱に乗じてオスマン領土を奪う策謀を始める。イタリアはリビア侵略を準備。
1906年、青年トルコ党は軍隊に浸透しハミト専制に反抗する運動を始める。この月サロニカで軍隊を掌握し反乱、アブデュル・ハミトを退位させ、彼の専制政治を打倒、1876年憲法を復活させる。青年トルコ党の民族主義はやがてオスマン帝国主義ともいうべき汎トルコ主義となってトルコ帝国内の諸問題を解決するには至らず、党そのものも分裂。トルコの革命はバルカンに錯綜した利害を持つ列強を動揺させ、トルコの反革命勢力側に結集させる。
オーストリア・ハンガリー帝国のボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合は、青年トルコ党の革命による国際的混乱に便乗したものだが、このオーストリア勢力侵入を怖れるバルカン諸国は、青年トルコ党の革命がオスマン帝国主義イデオロギーを高唱したとき、トルコに対抗する姿勢を固めつつあった。しかもバルカン諸国結束の背後に動くロシアは、それぞれ排外主義的民族主義の色の濃いバルカン諸国を統制できず、バルカン諸国は「共喰い」ともいうべき第1次バルカン戦争に突入した。
「ロシア革命のこだまは国境を遠く離れたところまで反響した。西ヨーロッパではプロレタリア運動を激化させ、同時にアジアでは、諸国民を政治活動に目覚めさせた。カフカースに隣接したペルシャではカフカース事件の直接的な影響から革命運動が開始され、帰趨がはっきりしないまますでに2年以上も続いている。中国でもインドでも、至る所で人民大衆は自国の独裁者やヨーロッパの略奪者(資本家、宣教師など)に反対して立ち上がっている。略奪者たちがヨーロッパのプロレタリアートを搾取するばかりか、アジアの諸国民を零落させているからである。ロシア革命の最も新しい影響は今年の夏に起きたトルコ革命である。……
ロシアでは革命の闘士は主にプロレタリアートであった。しかしトルコでは、すでに述べたように、産業はまだ生まれたばかりで、プロレタリアの数は少なく脆弱であった。トルコのインテリゲンツィアとして最も教養があった者たち(教師、技師など)は、学校や工場でほとんど自分たちの力を発揮することができず、将校になった。彼らの多くは西ヨーロッパの国々に留学し、その地でもろもろの制度を学んだが、祖国で出会うのはトルコ兵士の無教養と貧困、国家からの侮辱であった。彼らは傷ついた。かくして将校層は不満と怒りの温床となった。
今年(1908年)の7月に蜂起が起こると、たちまちスルタンには軍隊がいないありさまになった。軍団が次から次へと革命の側に寝返ったのだ。……将校たちは決然と憲法を要求し、与えられないならスルタンを退位させると脅した。アヴデュル・ハミトは妥協するより仕方がなかった。憲法を『下賜』し……、自由主義的な内閣を権力の座に就け、国会議員選挙を命じた。
国はただちに息を吹き返した。ひっきりなしに集会が開かれ、新しい新聞が数多く発刊された。生まれたばかりのトルコのプロレタリアートは、雷に打たれたように即座に目覚めた。ストライキが始まり、労働組織が生まれた。」(トロツキー「トルコ革命とプロレタリアートの任務」、『バルカン戦争』より)
「青年トルコ派の驚くべき勝利――ほとんど努力と犠牲なしの勝利――は何によって説明されるのか。
革命とは、その客観的な意味においては、国家権力を求める闘争である。国家権力は直接的に軍に依存している。それゆえ、歴史上あらゆる革命は何よりもまず、軍がどちらの側につくのかという問題を立て、その問題を解決しようとした。トルコ革命では軍そのものが解放思想の担い手として登場し、そのことがトルコ革命独自の特徴となった。新しい社会階級は旧体制の軍事的抵抗を押しつぶす必要がなかったばかりか、兵を引き連れてスルタン政府と対抗した革命将校のもとで、共感をこめて合唱すればそれでよかったのである。
その出自、その歴史的な伝統からしてトルコは軍事国家である。現在もトルコは軍の相対的な兵員数ではヨーロッパのすべての列強諸国の先頭に立っている。大所帯の軍は多くの将校を必要とした。その一部は下士官から昇進の形で補充された。ユルドゥズ[スルタンの住んでいる宮殿]は歴史的発展の必要に対し絶えず野蛮な方法で抵抗しながらも、ある程度は軍を西欧化し、知的な人材を軍に登用しなければならなかった。彼らは躊躇することなく軍に入ってきた。トルコエ業の零細さや都市文化の未熟さは、トルコのインテリゲンツィアに将校か官吏になる以外に活躍の場をほとんど与えなかった。かくしてトルコ国家は、自らの土台の内部に既存のブルジョア国家にあるような戦闘的な前衛、つまり思考し、批判し、不満を持つインテリゲンツィアを組織してしまったのである。近年、トルコ軍の内部では給与の未払いや昇進の停滞のために絶えず騒ぎが起こっていた。軍隊が電報局を占拠したり、ユルドゥズと直接的な交渉におよんだりしたこともあった。スルタンの官房は仕方なく譲歩した。かくして連隊が次々に反乱の学校になっていったのである。
蜂起が成功すると、ヨーロッパの多くの政治家や政治評論家は、青年トルコ派の大組織とは、独創的に考案され、すみずみまで手の入った代物だとひそかに考えた。その素朴な想像には成功への物神崇拝も含まれていた。実際には、将校同士の、とくにコンスタンチノープルとアドリアノープルの守備隊の間では革命に関する連絡はきわめて不十分であった。ニアーズィ・ベイやエンヴェル・ベイ[パシャ]自身が認めたように、青年トルコ派は蜂起の準備を『まったくしていなかった』のに、蜂起は勃発したのである。助けになったのは軍そのものが自動的に組織化されたことであった。飢えて孤立した兵士の自然発生的な不満が、彼らを政治的に反体制化していた将校層の側に追いやり、そして軍の持つ機構的な規律が革命の内的な規律へと自然に転化したのである。」(トロツキー「新しいトルコ」、『バルカン戦争』より)
7月24日
ロシア警備艇に5月29日に拿捕された漁船三重丸の船員、ロシア兵と争い軍事裁判で6人死刑を宣告される。
8月1日、駐ロシア代理大使落合謙太郎抗議。
10月14日、特赦放免。1911年6月23日、損害賠償問題解決。
7月24日
ロンドンオリンピック: 男子マラソンでドランド・ピエトリが係員の助けを借りて最初にゴールに辿り付いたが、失格となり2着のジョニー・ヘイズが金メダル
7月25日
幸徳秋水(36)、新宮に入り、大石誠之助方滞在。~8月8日。高木顕明(浄泉寺住職)・峰尾節堂・成石平四郎・崎久保誠一らが訪問。浄泉寺での談話会で社会主義の講演(聴衆30余)。
8月1日、熊野川船遊び。新宮教会牧師沖野岩三郎、成石平四郎ら9名。幸徳が爆弾製法問い、大石が不明の返答。のち、「虚無党の秘密会議」とされる。
8日、新宮発。9日、鳥羽港上陸。
10日、伊勢神宮参拝。二見港発、熱田港上陸。義兄松本安蔵宅泊(名古屋控訴院判事、妻千代子の姉須賀子の夫)。大逆罪について種々質問したという。
11日夜12時、名古屋発。
12日午前7時、国府津着。箱根の林泉寺住職内山愚堂を訪問、2泊。幸徳は赤旗事件の弔合戦を直接行動でと主張、内山は無政府主義はまだ伝道の時期であると答える。幸徳は、ここから電車事件で入獄中の吉川守国に宛て「自愛を祈る」との手紙を出す。
14日、帰京。
大石誠之助:
慶応3年10月4日、新宮町生まれ。同志社に2年半在学。明治24年、オレゴン大学医学部入学。28年卒業、29年帰国、新宮に開業。32年伝染病研究にインドに渡り、34年帰国。37年10月、太平洋食堂を経営し、自家に「平民クラブ」を設ける。この頃から幸徳・堺・西川らとの交際始まる。ペンネーム「緑亭」で新聞に寄稿。
内山愚堂:
明治7年5月17日新潟県北魚沼郡小千谷町生まれ。長男。小千谷高等小学校卒業し父の菓子器型を習うが身につかず、20歳で上京、井上円了家の家庭教師となる(円了より社会主義について聞く)。24歳で曹洞宗入り、明治37年2月9日~42年7月迄、箱根の林泉寺住職。明治37年頃、矢野文雄「新社会」などで社会主義の勉強始め、38年、加藤時次郎の家で幸徳と知合い、「箱根大平台の小僧」のペンネームで平民社に近づく。
「社会主義の巨頭幸徳秋水の来遊を歓迎して、新宮町の同志大石誠之助の発起によって大石の感化を受けて社会主義を奉ずるようになっていた町内の二、三の人々、たとえば真宗の僧侶や、川奥の山に働く青年やいかだ流しの若者、さては社会主義とは関係なく大石と親交のある町のインテリなど、大石の呼びかけに応じて集まり、季節柄熊野川に自慢の落鮎狩りを催して晩夏一夕の涼をとり、互に杯を交して親睦しつつ幸徳氏の旅情をねぎらい高話を聴こうと川舟を用意した。」(佐藤春夫『大逆事件の思い出』(「新しき抒情」1968年所収)
この年、佐藤春夫らは廃刊になっていた雑誌「はまゆふ」を復刊創刊。
これより前、大石誠之助と沖野岩三郎が新宮の町はずれにある大石誠之助の甥西村伊作所有の空家に新開雑誌閲覧所というのを設け、そこに文学雑誌・新聞・社会主義の著作をおいていたが、佐藤春夫が学校帰りによくこれを利用した。
7月25日
赤羽一「社会党入獄史」(「東京社会新聞」)。新聞紙条例違反、発行人兼編集人松橋源吉軽禁固各2ヶ月、筆者赤羽一軽禁固2ヶ月、発行停止、処分。
7月25日
夏目漱石(41)「夢十夜」(「朝日新聞」)。~8月5日迄。
7月25日
中野武営・岩下清周・片岡直温ら実業派および無所属代議士など会合。戊申倶楽部結成を決定。
7月25日
東大教授池田菊苗、グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法の特許(14805号)を取得。12月、鈴木三郎助、逗子工場でこれにより味の素の製造開始。
つづく

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