1908(明治41)年
7月16日
(漱石)
「七月十六日(木)、松根東洋城・小宮豊隆来る。小宮豊隆泊る。洋服できたので、小宮豊隆に着せてみる。
七月十七日(金)、小宮豊隆泊る。中村蓊(古峡)宛手紙に、『東京朝日新聞』に掲載を希望している『回想』について心配りをする。
七月十八日(土)、小宮豊隆に第一銀行へ行って貰い、三千六百五十円を犬塚に渡す。第一銀行本店(推定) (京橋区兜町一番地、現・中央区日本橋兜町一丁目一番) の株を五十株貰って貰いたいとのことである。(「小宮豊隆覚え書」)午後、鏡は小宮豊隆に大学病院に連れていって貰う。夜、鏡とエイは小宮豊隆に、本郷座(本郷区春木町一丁目九番地)の活動写真に連れていって貰う。
七月十九日(日)、朝、小宮豊隆来る。「リウセイ」(不詳)を買って来る。」(荒正人、前掲書)
7月16日
「七月十六日――十七日
今日は千駄ヶ谷の歌会。十二時、綿入を着て出かけた。宿の傘は破れてゐる。雨が盛んに降る。
近所の空屋で催した。与謝野氏夫妻に平野、茅野、江南、中島、山城、松原、渡邊、藤條、間島、並木に予。並木君は僕が誘つて行つたのだ。其家にゐる青梅の女といふ人は、美しい快活な人であつた。アトで生田長江も来た。
(略)
晶子さんの歌に、“白刃もて我に迫れるけはしさの消えゆく人をあはれと思ふ”といふのがあつて与謝野氏は頭を掻いた。
九時少し過ぎて大方帰つた。残れるもの夫妻と平野と予と渡邊間島松原。与謝野氏の宅に移つて、予の発議で徹夜会を開いた。題三十五。一時少し過ぎて晶子さんと予と相ついでよみ上げた。アトの人は四時迄かかつた。清書して夜が明けた。(十七日)選んで飯を食つて公表。予の歌は一番よかつた。
十時頃湯に行つて、帰ると、眠い。・・・・・
(略)
障子を明けたまま、蚊やり香を焚いて枕についた。何となく頭の中に秋風の吹く心地だ。母が妻が恋しくなつた。独歩集を読んだ。ああ“牛肉と馬鈴薯”!
読んでは目を瞑り、目をつぶつては読みした。何とも云へず悲しかつた。明治の文人で一番予に似た人は独歩だ!
死にたいといふ考が湧いた。!
いつの間にか眠つたが、ふと目をさましてみると電車の音もきこえぬ。水の如き夜風が開け放した窓から吹き込んで、燈火の影がゆらめいてゐた。いかなる言葉を以ても、この自分の心の深いところをば言ひ表はす事が出来ぬ。だから死んだ方がよいと云ふ事を、半醒半眠のうちに念を押して二三度考へた。死ぬと考へながら、些とも其手段をとらぬ事を自分で疑つてもみた。老いたる母の顔が目に浮んだ。若し自分が死んだら! と思ふと、涙が流れた。泣いてるうちにまた眠つてしまつたらしい。………」(啄木日記)
7月18日
奉天巡撫唐紹儀、満州借款と清米独同盟交渉の訪米使節となる。
11月30日、訪米、12月2日、大統領と会見。
7月18日
若山牧水『海の声』。
7月19日
「社会新聞」社内の万国社会党支部の看板、治安警察法違反で掲出禁止。
7月19日
「七月十九日
(略)
死場所を見つけねばならぬといふ考が、親孝行をしたいといふ哀しい希望と共に、今の自分の頭を石の如く重く圧してゐる。静かに考へうる境遇、そして親を養ふことの出来る境遇、今望む所はただそれだ。
何事も自分の満心の興をひくものがない! ああ、生命に倦むといふのがこれかしら。何事も深い興がなく、極端な破壊――自殺――の考がチラチラと心を唆のかす。重い重い、冷たい圧迫が頭から去らぬ。
かなしい、痛ましい夜であつた。二時半頃まで眠れなかつた。」(啄木日記)
7月20日
「熊本評論」、赤旗事件被告(菅野須賀子・大須賀里子・神川松子・小暮れい子)に面会したところ、「着物や金子の差入はどうでも好い。入監以来受けし圧虐に対して、何とか復仇して戴きたい」と訴え。
同号に、竹内善作(赤旗事件に不参加で助かった)が、電車事件の逆転有罪に関して、「弁護士の都合にて、いかに延期を請願せるも、聴許せず。横田(大審院長)は、社会党を刑罰ぜめにすべし、と豪語しいたりと伝う」と書く。
7月21日
幸徳秋水、上京の途へ。
この日、幡多郡の下田港発、高知港で乗り換えのため泊。
22日、高知港発、大阪・天保山桟橋で紀州航路の汽船に乗り継ぎ、24日夕方、勝浦港着。大石誠之助ら出迎え。この日は勝浦温泉泊。
7月21日
(漱石)
「七月二十一日(火)、春陽堂の編集者来る。『草合』の話かと思われる。鏡、筆を連れて、小宮豊隆の下宿に行く。
七月二十三日(木)、宝生新、旅行に出たので、尾上始太郎(もとたろう)代りに来る。小宮豊隆来て泊る。郷里から小宮豊隆に何時帰るかという電報が来たので、二十五日(土)出発を打電したという。鏡は明日小宮豊隆に松根東洋城の許へ連れて行って貰う約束をする。
七月二十四日(金)、鏡は筆と共に小宮豊隆の下宿に行き、松根東洋城の所へ行くことを断る。小宮豊隆、鏡、筆と共に帰って来る。
(七月二十五日(土)、午前八時、小宮豊隆は新橋停車場から郷里へ出発する。池田菊苗、グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法の特許を得る。)
明治四十一年十一月十七日(火)これまで仮に「精味」と呼んで、試食してきた新調味料を「味の素」として、商標登録し、明治四十二年五月一日(土)に売り出される。池田菊苗は、明治四十年、昆布から「うま味」を取り出す研究を始める。「味の素」は、案外たやすく成功したと云っている。」(荒正人、前掲書)
7月22日
各章諮議局章程、議員選挙章程頒行。
7月22日
「七月二十二日
起きたのが十二時。下宿料の催促をうけた。心が暗くて、頭が少し痛く重い。
芳子の歌をなほした。
切手代用で来た金星会の会費を煙草に代へて来た。
いひ難き不安、いひ難き不快、冷たくも熱くもない様な悲痛の情。そして時々妙な怒りが胸の底から湧いて来る。
夕方から十時頃まで金田一君と語つた。幼い時の思出、新詩社の事、……新詩社は十月に百号を出してやめる事になつてゐる………
過去の思出に生きるとは何たる事であらう。
七月二十三日
(略)
十時頃から一時頃まで金田一君と語つた。・・・・・
自分は、真の真面目になれぬといふ苦痛を語つた。悲哀とか苦痛とか、自分らはそれを詩化し、弄ぶくせがあつて、悲哀の底苦痛の底にある“真面目”といふものに面相接する事が出来ぬ。自分は毎日心暗く、何の張合なく、何もせず悲しんで許りゐるし、身に迫る痛感の為に、死なうと許り考へてゐるが、然しながら、それでもまだ真に真に真面目に触れてゐない様な気がして仕様がない。
人生に倦んだだけなら(正宗の如く)まだよい。自分はすべて、一切、ありとあらゆるものが、苦痛だ。自分自身が苦痛だ。
ホヤが壊れた。三時までも眠れなかつた!!!"
七月二十四日
(略)
枕の上でかなしい思出に耽つた、妻も恋しく、妹も恋しい。何よりも、若かつた日の自分が恋しい。
・・・・・
今日は煙草がない。刻みの粉を五六服吸つたきり。
人間の慾といふものの、如何に強いかを、今日つくづくと知つた。此機を以て煙草をやめやうとも考へた。強いて、強いて煙草を忘れやうと、煙草入を隠して、枕を出して横になつた。そして遂に何事も考へず、何事もなさず、日のくれる迄喫煙慾と戦つた。
遂に敗けたらしい。夕飯を食ふと、すぐ袴を穿いて出懸けた。(単衣の尻の所が黒く汚れてゐるので、)そして弓町の平民書房に阿部君を訪ねた。この男も矢張一文なしであつた。
悄然として帰つて来ると、室の中が妙に味気なく見える。モウ何も売る物も質に入れるものもない。くすんだ顔をして椅子に凭れてゐると、一封の郵書。それは金星会の歌稿。添削料が一割増で三銭切手十一枚入つてゐた。うれしかつた。これを嬉しがる程の自分の境遇かと思ふと悲しかつた。
・・・・・
切手を敷嶋三つに代へて帰つた。ゆるやかな煙が限りなく目をたのしませる。
一寸と思つて金田一君の室に行つて、十時までゐた。・・・・・
眠らうと思つてランプを消した時、程近き寺に太鼓の音が聞え出した。遠くで四時の鐘が鳴つた。何処ともなく、涼しい蜩の声が暫し聞えて、窓の下を牛乳屋の草鞋穿の足音がした。」(啄木日記)
7月22日
インドの政治家ティラク、教唆扇動罪で裁判で6年の投獄。ビルマ・マンダレーに流刑。
23日 ボンベイの労働者、ティラク裁判に抗議して最初の政治スト。
つづく

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