1908(明治41)年
5月下旬
〈二葉亭四迷と漱石〉
「五月下旬から六月初めまでの間、二葉亭四迷が、ロシアの首都ペテルブルグ (レニングラード)に赴くことが内定した頃(「長谷川君と余」)、鳥居赫雄(嘉川)は大阪から出張上京し、神田連雀町の常宿で、二葉亭四迷と漱石を昼食に招待する。旅館でおち合い、鰻屋神田川 (神田茂七経営。神田区台所町一番地、現・千代田区外神田二丁目五番十一号) に行く。神田川で、二葉亭四迷は満洲に旅行したことやロシア人に捕えられ監獄に入れられたこと、ロシアの文学界の詳しい事情を話し、ロシアに行ったら日本の短篇小説をロシア語に訳してみたいと云う。ヴァシーリ・イヴァノヴィッチ・ネミロヴィチ=ダンチェンコの宴会に出て欲しいこと、弟子の物集和子を託したいと頼まれる。三人で三時間寝そべって話す。
二葉亭四迷は、五月(日不詳) ロシア行きが決定していたと思われる。五月下旬(日不詳) に漱石に会ったかとも想像される。神田川は、江戸前の鰻屋として名高かった。漱石たちが会合したのは、二階の六畳間である。鳥居赫雄(素川) は、大正十一年に同じ部屋を訪れ、後輩の新妻莞に次のように述懐している。
「この室でねえ、長谷川(二葉亭四迷)君が外遊するといふので、夏目君と三人、水いらずの送別会をやつたのです。それが長谷川君が歸りの船中で亡くなったので、生涯の別れの會にもなってしまつた。三人とも酒はダメの方だつたが、話はハズんで今もきのうのやうに、忘れられない思ひ出をのこしました・・・・・。」(新妻莞『新聞人・鳥居素川』)」(荒正人、前掲書)
〈関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』より〉
二葉亭は最初、必ずしも朝日の特派員としてロシアに行くつもりはなく、ダンチェンコとの知遇を活かして、なんとかルスコエ・スローボ紙の客員記者になれないものかと考えていた。せっかく得た朝日の職と百円の月給を捨てる覚悟だった。
「一つやって見よう、という心持で、幾多の活動上の方面に接触していると、自然に、人生問題なぞは苦にせずに済む。で、この方面の活動だと、ピタリと人生にはまって了って、苦痛は苦痛だが、それに堪えられんことは無い。一層奮闘する事が出来るようになるので、私は奮闘さえすれば何となく生き甲斐があるような心持がするんだ(「子が半生の懺悔」、「文章世界」明治41年6月)
少しの紆余曲折があったものの、気に染まぬ小説をふたつも書かせた池辺三山は、その罪滅ぼしの意もこめて二葉亭の計画を熱心に後援したし、村山龍平もすんなりと承諾したから、短時間のうちに二葉亭が正式に朝日の通信員となってぺテルブルグに赴くことが決まった。
露都行は二葉亭30年来の希望である。それが叶えられるとわかったとき、中年期の彼を苦しめていた神経衰弱的傾向はたちまち失せた。
「恰も籠の禽が俄に放されて九天に飛ばんとして羽叩きするような大元気」になり、露都行が確定した「其当座は丸で嫁入り咄が定った少女のように浮き浮きと躁いでいた」と内田魯庵は書いているし、「其時分の君の嬉しそうな風たらなかった」と池辺三山も回想している。この明治41年の5月から6月にかけてが、憂悶と懐疑の人・二葉亭四迷45年の生涯で、短くとももっとも高揚した時期だった。
旅券を申請する。留守宅の始末をつける。朝日の会計と交渉して旅費・滞在費・当座の通信費1,850円をうけとる。ロシア関係の名士を訪問してロシアの現状を取材する。友人・知己と惜別し後事を託す。
多忙に多忙を重ねるそんな5月下旬、二葉亭は漱石と神田台所町の鰻屋「神田川」で会った。
上京した鳥居素川が、二葉亭送別のための小宴を設けた。二葉亭と漱石の出会いは前年9月、西片町の銭湯以来で、これで五度め。
三人は素川の常宿の神田台所町の旅館でおちあい、それから行くべき料理屋を考えた。店を選んだのは三人の内ではいちばん美食趣味のあった二葉亭だった。
神田川では、酒が駄目な三人なのに話ははずんで、みな寝そべって2、3時間も話した。二葉亭は、ハルビンで打殺されそうになった野良犬をかばってロシアの警官に牢へ入れられたことや、漱石には不案内なロシア文壇について語って飽かなかった。ロシアへ行ったら、日本人の短篇をロシア語に訳してみたい、そのことが永い目で見れば露日平民の相互理解を増して日本の安全保障につながる、ともいった。最後に、自分のところに小説の弟子といった趣きで出入りしている「物集(もづめ)の御嬢さん」を漱石に託した。物集高見の娘で、芳子・和子姉妹のことである。
出発が数日後に迫った6月上旬、魯庵や逍遥が音頭をとり、二葉亭の旧友たる川上眉山も参席した上野精養軒での壮行会も済んだあと、二葉亭は暇乞いに漱石宅を訪れた。これが六度めで最後の邂逅となった。
この頃漱石は気分の下降期にあった。5月中旬、妻の鏡子との間が険悪になり、その時期から6月下旬まで記した「断片」には、新聞記事から抜き書きした殺人、入水心中、自殺、「川上眉山自刃ス。頸動脈切断」などの項目が並んでいた。
しかし、漱石は書斎で二葉亭と平静に対座して、なんの変調も感じさせなかった。二葉亭は「神田川」でも口にした物集姉妹の名前を再び出し、それからもうひとり「北国の人」のことを繰り返し頼んで去った。
2日後、淑石が答礼に西片町に出向いたが、不在で食えなかった。漱石は新橋ステーションへ見送りには行かなかったから、漱石宅がさりげない永訣の場所になった。
物集姉妹の父物集高見は『日本大辞林』を編纂した国文学者である。高見の父・物集高世は『歌学新論』を著した幕末・維新期の歌人であり国学者である。
物集芳子・和子は、「新時代の女」で、不機嫌で知られた二葉亭も育ちのいい彼女たちには懇切に心くつろげて接した。平塚らいてうら若い知識女性の流行にのって吉原見物に行ってきた二人が 「奇麗でございますね」というと、なぜあがってみなかったのか、日頃の言動にも似合わない、とからかったりした。
物集姉妹は、二葉亭の出発から2ヵ月ほどたった盛夏、漱石宅に習作原稿を持参した。二人が二本ずつ書き、芳子が一本及第、自然主義の影響を受けた和子の習作は二本とも落第点をつけられた。
物集芳子はその後結婚して渡米し、帰国後、平塚らいてうと 「青鞜」(森鴎外が命名)を創刊した。駒込林町の大倉(物集)芳子の家の裏口に「青鞜社」の看板が掲げられ、明治44年9月の創刊号から第2巻8号まではここから発行された。
「つまり東洋の儒教的感化と、露文学やら西洋哲学やらの感化とが結合(つなが)って、それに社会主義の影響もあって、ここに私の道徳的の中心観念、即ち俯仰天地に愧(は)じざる『正直』が形づくられた」(「予が半生の懺悔」)と、青年期に社会主義者だったことを出発直前のインタビューで告白した二葉亭は、神川松子、福田英子ら女性社会主義者たちとのつきあいがあった。
福田英子は、明治40年に幸徳秋水、木下尚江、石川三四郎らの寄稿を得て雑誌「世界婦人」を創刊した。寄稿家のひとりである二葉亭には福田英子の方から積極的に近づき、「精神的な情夫になってくれ」と迫ったりした。二葉亭はむしろ逃げ腰だった。彼女は明治41年6月12日、池辺三山らと新橋ステーションに二葉亭を見送った。
「露都在留中ただ一枚の端書(はがき)をくれた事がある。それには、弱い話だが此方(こつち)の寒さには敵(かな)わないとあつた。余はその端書を見て気の毒のうちにも一種の可笑味(おかしみ)を覚えた。まさか死ぬほど寒いとは思わなかったからである。しかし死ぬほど寒かったものと見える。長谷川君はとうとう死んでしまった。長谷川君は余を了解せず、余は長谷川君を了解しないで死んでしまつた。生きていても、あれぎりの交際であったかも知れないが、あるいは、もつと親密になる機会が来たかも分らない。余は以上の長谷川君を、長谷川君として記憶するより外に仕方のない遠い朋友である。君(くん)の托されて行つた物集の御嬢さんは時々見える。北国の人に至つては音信さえない」(漱石「長谷川君と予」明治42年8月)
つづく

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