2026年3月28日土曜日

大杉栄とその時代年表(792) 1908(明治41)年7月10日~16日 二葉亭四迷、ペテルブルク到着。「最初の予定と違い、大連やハルビンに逗留し、モスコウにも三日居たから、旅費が非常に嵩(かさ)んでしまった。未だ細かな勘定はしていないが、残りの高より推すと余り掛り過ぎたようだから、いくら約束で実際に掛っただけを社で出す筈とはいえ、ちょっといいにくい感があって、当惑している。しかし今更いかんともしがたい。有の儘に事情をいってやるつもりだ」(二葉亭の7月17日付妻・柳子宛手紙)

 


大杉栄とその時代年表(791) 1908(明治41)年7月4日~9日 「金田一君と語つた。明治新思潮の流れといふ事に就いて、矢張時代の自覚の根源は高山樗牛の自覚にあつたと語つた。先覚者、その先覚者は然しまだ確たるものを攫まなかつた。……自分自身の心的閲歴に徴しても明らかである。樗牛に目をさまして、戦つて、敗れて、考へて、泣いて、結果は今の自然主義(広い意味に於ける)!」(啄木日記) より続く

1908(明治41)年

7月10日

与謝野晶子(30)歌集「常夏」(大倉書店)刊行

7月10日

ヘイケ・カメルリング・オネス(オランダの物理学者)、初のヘリウムの液化に成功

7月11日

『読売新聞』、「昨今夜の日比谷公園、堕落男女の野合場と化す。毎夜密行巡査十数人、醜行取締りに出動」と報ずる。

7月11日

慶應義塾大学野球部、ハワイに初遠征

7月12日

スラヴ会議開催。~17日、プラハ。

7月13日

第4回五輪、ロンドン、初の水泳競技。

7月14日

第2次桂太郎内閣成立。反動官僚軍閥内閣。桂蔵相兼任。

外相寺内正毅(臨時兼任)、内相平田東助(男爵、枢密院書記官長・法制局長官を歴任)、蔵相桂太郎(兼任)、陸相寺内正毅、海相齋藤實、法相岡部長職(子爵、実権は民刑局長兼大審院次席検事平沼騏一郎が掌握)、文相小松原英太郎、農商務相大浦兼武、逓信相後藤新平、内閣書記官長柴田家門、法制局長官安廣伴一郎。

政権授受において、天皇は桂で良いか、と元老たちの了解を取るが、元老会議は開かれず。元老の力は衰えていた。第2次桂内閣では、山県系官僚閥内で山県に準じる権力を持つようになった桂が独自性をかなり発揮するようになる。

復帰した内務省警保局長有松英義(内相平田東助の右腕)、個人的意見を発表。労働者にたいする社会政策と、学校教育による社会主義排斥と在郷軍人団の利用による国家思想の注入。社会主義は研究のみ認め、雑誌、新聞、演説は許可せず、ストライキは行政警察権で取締る。

7月14日

横浜市の糞尿汲取運搬人102人、請負人に対し賃上げを要求し同盟罷業(不貫徹)。

7月14日

午前10時、大審院で電車賃値上反対騒擾事件の上告審公判が開かれる。

17日、判決。上告棄却。西川光二郎が重禁錮2年。大杉栄、岡千代彦、山口孤剣、吉川守圀、樋口伝、松永敏太郎、増山伝吉は重禁錮1年6ヶ月。

7月中旬

幸徳秋水、クロポトキン「パンの略取」翻訳完成。中村

7月15日

「高原文学」創刊。編集兼発行人新村忠雄(21)。善光寺僧侶など同人。

7月15日

大蔵省、専売局現業員共済組合規則公布。

7月15日

尼港にて三重丸船員、ロシア護送兵と争闘、軍事裁判にて6名死刑を宣告。

7月15日

(露暦7月2日)二葉亭四迷、ペテルブルク到着。東京朝日新聞特派員。滞在中に結核を患い、明治42年9月、帰国途上で没。

二葉亭は、イギリス・ホテル(オテル・ダングルテール)に投宿。

ぺテルブルグの街区はほとんど3層~5層の高層建築で、ところどころに彼の目には「雲に入る程」と映る塔がそびえ、東京とはまるで違った面貌を呈している。

7月17日付、妻柳子への出発以来15通めの手紙に、「これから思うと銀座通りなどは見られたものにあらず、西洋人が日本をみくびるのも仕方なし」と書いた。7月16日、娘のせつ子にはじめて出した絵葉書には、「将来一家の主婦たる者は、或はかかる處に来る事もあるべし。よくこの絵葉書を見てよく考えて見るべし」と書いた。

しかし、彼は、「先進国」たるヨーロッパ・ロシア、なかんずくぺテルブルグの物価高には苦しんだ。イギリス・ホテルは1泊日本円にして5円、そのほかに食事代として1日5円くらいはかかる、と二葉亭は柳子にぼやいているが、7月17日にチェックアウトするとき計82ルーブリ30コペイカ支払ったから、その経費は1日あたり日本円で40円余におよんだ。

この日、持金をチェックしてみると、英ポンド建ての巡廻手形にした千円分を除けば、現金の残りは79ルーブリしかなかった。二葉亭が朝日の会計から受け取った1,850円(これは啄木が踏み倒した生涯の借金の総額と偶然一致する)のうち、100ポンドの小切手にした985円を差引いて、865円をルーブリに直したのだから、その額は828ルーブリである。ということは、二葉亭は東京での出発準備金と東京、神戸、大連、ハルビン、モスクワを経てぺテルブルグに達する旅費として、だいたい749ルーブリ、1円は0.96ルーブリなので、彼の月給の8ヵ月分、780円をこのひと月で消費した計算になる。


「最初の予定と違い、大連やハルビンに逗留し、モスコウにも三日居たから、旅費が非常に嵩(かさ)んでしまった。未だ細かな勘定はしていないが、残りの高より推すと余り掛り過ぎたようだから、いくら約束で実際に掛っただけを社で出す筈とはいえ、ちょっといいにくい感があって、当惑している。しかし今更いかんともしがたい。有の儘に事情をいってやるつもりだ」(7月17日付柳子宛書簡)


さんざん苦労して探した末、7月17日、シベリア・スタブリヤルイニ街の下宿に移る。月40ルーブリ、食事は夕食1回につき60コペイカという約束。食事の量が多いから朝はパンと茶と缶詰くらいで簡単に済ませ、夕食だけを頼んで1日2食にすれば食費は月にせいぜい20ルーブリ余、他にこの国では避けがたい下宿の門番、メイド、給仕、ボーイへの心づけが10ルーブリくらい、あわせて70ルーブリほどで暮らせるだろうと二葉亭は踏んだ。これは基本的生活費で、噂好品は含まれず交際費や活動費も勘定外である。

下宿は2方向に窓がある10畳くらいの広さのひと間で、片隅に屏風でかこった寝台があり、その屏風の陰に洗面台もあった。机、椅子、長椅子、大きな姿見が備えつけであった。東京でこの広さ、1日2食つきの下宿でせいぜい20円くらいだろうから、ぺテルブルグの物価は東京の3倍はゆうにあり、「それほど倹約せねばとてもやりきれ申さず」と二葉亭が嘆くのも当然だった。

二葉亭は、下宿に移ってからは、旅疲れと、慣れぬ外国暮らしのせいで、不眠症に悩まされはじめた。ひと晩中起きていて朝になってようやく床につく。午後2時から4時のあいだに起き出して、朝食として柳子に送ってもらい、税を払って受け取ったお茶を飲む。お茶に飽きるとココアにかえ、やがてコーヒーをたしなむようになった。晩の6時頃が昼食である。二葉亭は肉を嫌い、野菜を好んだ。ことに大根おろしをかけたタマゴ焼きとなまの胡瓜が好物だったという。

体調を徐々に崩しながらも、律義な二葉亭は仕事上の義務を果たそうとしつづけた。打電送稿控を見ると、明治41年10月には13本、計817語、11月には17本、計1,319語を送稿している。

原稿は全て日本文をローマ字に直して電報を打つ。1語11コペイカと推定すると、10月の打電費用は約90ルーブリ、11月は約145ルーブリである。12月には、深夜に500語という長大な電報を打ちに出掛けたこともあった。


「昨夜三時頃、ソリに乗って雪中を中央電信局へ駈けつけ、議会に於ける外務大臣の演説を五百語程打った。余り疲労した為昨夜は熟睡出来なかったが、しかしもう病気は大丈夫だ。今日の日曜は一日遊ぶ」 (12月27日朝8時付書簡、柳子宛)


国際情勢に鋭い観察眼を養った二葉亭だから、5年半後に起こる第一次世界大戦をすでに予見したごとくバルカン半島関係の情報収集に力を入れていて、その面目躍如である。

しかし、トルストイ80歳の祝賀会のようすから政府内部権力闘争の激化を予測した、「ストルイピンが敢て此文豪の寿を祝するを非とせず、唯之に托し政治的示威運動を為すを非とせるは、暗に教務院の措置を非難せる観あり、政府部内に激流の暗闘、刻々と急調を帯び来る如し」という9月10日ハルビン経由で打電した電報は、ようやく9月15日、東京朝日に掲載され、「ハルビン電報として非常の延着」と覚え帖に不満げな注記がある。二葉亭の電報はしばしばロンドン・タイムズ電に先を越され、池辺三山の懐旧によれば記事としてはあまり役に立たなかった。

二葉亭の不眠症はますますひどくなり、眠ろうと思うともう明るくなる。コニャックかウオッカをひっかけて、その勢いで眠るのだが、2時間もして酔いがさめるともう目がひらく。それ以後はいくら飲んでも駄目だ。3、4日こんな夜がつづいたあとのひと晩はぐっすり眠るのだが、つぎの日からまた眠れなくなって、おなじことを繰り返すばかりである。やがて、ネフスキー通りで卒倒しかけること4、5度におよぶほど体力の消耗ぶりが目立ってきた。大使館員たちも医者も帰国を勧める。自分でもいっそ辞職して帰ろうかと思ったが、せっかく「一万露里も踏み出して来て」「オメオメ帰れるものか」と思い直し、「一生懸命養生した」と二葉亭の明治42年1月4日付、渋川玄耳宛の手紙にはある。

7月16日

「七月十六日(木)、松根東洋城・小宮豊隆来る。小宮豊隆泊る。洋服できたので、小宮豊隆に着せてみる。

七月十七日(金)、小宮豊隆泊る。中村蓊(古峡)宛手紙に、『東京朝日新聞』に掲載を希望している『回想』について心配りをする。

七月十八日(土)、小宮豊隆に第一銀行へ行って貰い、三千六百五十円を犬塚に渡す。第一銀行本店(推定) (京橋区兜町一番地、現・中央区日本橋兜町一丁目一番) の株を五十株貰って貰いたいとのことである。(「小宮豊隆覚え書」)午後、鏡は小宮豊隆に大学病院に連れていって貰う。夜、鏡とエイは小宮豊隆に、本郷座(本郷区春木町一丁目九番地)の活動写真に連れていって貰う。

七月十九日(日)、朝、小宮豊隆来る。「リウセイ」(不詳)を買って来る。」(荒正人、前掲書)


つづく


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