1931(昭和6)年
9月23日
国民政府、「国民に告ぐる書」発表。「不抵抗」を説く。
9月23日
重光駐華公使、満州における軍の行動を外相宛上申で攻撃
9月23日
南陸相、首相らにハルビン以外に出兵せずと言明
9月23日
外相幣原喜重郎、駐日公使蔣作賓と会談。幣原は、事件は日本の責任と述べたという。
「十月三日付北京天津タイムス紙は九月二十三日付南京ロイテル通信として左の如き奇妙な報道を発表して居る。・・・発表者が外交部だけに問題であると思ふ」
「外交部長は昨日東京に着任した新駐日公使蔣作賓氏からの長文の電報を本日受取つた。それによれば蔣公使は昨日幣原外相を訪問し約一時間半に亘つて会談したが、その際外相は満州に起つた今回の事件の責は日本関東軍当局にある事を繰返し言明した」
(東亜経済調査局「東亜翻訳通信」10月21日)。「編集・発行兼印刷人」は大川周明。
9月23日
この日付け大阪朝日の記事。
「私は未熟な見習い看護婦ですが、どうぞ満州の曠野に戦ふ人々の看護のために満州へやつて下さい」と大阪府知事に願い出る若い女性。飛田遊郭の娼妓たちが満州の兵士を慰めるための慰問袋を作り始める。前夜の朝日新聞社主催の満州事変映画会には大観衆が集まり繰り返し4度映写。
9月23日
社説「満州事変の本質」(「東京日日」同日付)、政府の不拡大方針に疑問を呈し、「日本はまさに支那のために、国威と利益を蹂躙された被害者」であると抗議。
9月23日
国際連盟、満州事変のため緊急理事会を招集。満州事変に関してレルー議長より日中国外相に第1次勧告。
9月24日
上海、日本埠頭労働者3万5千、満州侵略抗議スト。大中小学生10万も抗議。
9月24日
重光葵駐中国公使、満州における軍の行動を外相宛の上申で攻撃。
9月24日
奉天に袁金鎧・干沖漢等により地方維持委員会、成立。
9月24日
参謀本部第1部長建川少将、帰任。
9月24日
政府、満州事変に関し第1次不拡大方針声明。
9月24日
三井と広東国民政府間の武器供給契約、解約。
9月24日
陸軍中央部、関東軍にハルビンと間島には出兵してはならないと指示
9月24日
黒龍会内田良平が、旧知の「大阪朝日」調査部長井上藤三郎を通じ、幹部への面会の申入れがあり、この日夜、大阪の料亭で井上は内田と会う。
井上は「大阪朝日」入社前、黒龍会の機関誌編集に携わっており、同社内の右翼との折衝窓口。この時の会談の内容は不明だが、翌25日の重役会で事変についての方針が協議され、高齢の為それまでほとんど顔をみせない村山龍平社長が出席し、重大な方針が決定されたことを窺がわせる。
「内田が井上を通じて、『大阪朝日』の姿勢を憫喝、脅迫した」と思われる(後藤孝夫「辛亥革命から満州事変へ-大阪朝日新聞と近代中国」1987年)。その結果、高原は満蒙放棄諭への釈明書を書くが、これは謝罪広告に近いもので、美土路昌一東京朝日編集局総務が「こんなものを出すと軍部に降伏したと物笑いになる」と掲載に強く反対し中止。美土路は抗議していた参謀本部次長二宮治重中将にかけあう。二宮と美土路とは激しくやり合い、2時間ほどの押問答の末、今後納得のゆくまで話し合おうということで結着、「謝罪広告」は出さずに済む。しかし、内田の直接行動をにおわせる個喝に、高原も大阪朝日編集幹部も屈伏。
9月24日
アメリカ、満州事変に関して同文覚書を日中両国代表に手交し、武力に依らない解決を希望。
9月24日
イタリア、外国為替管理を実施(中小国の為替管理が相次ぐ)。
9月25日
井上蔵相、金輸出再禁止の意思のない旨を言明。
9月25日
朝日新聞社大阪本社で役員会。「時局ニ対スル方針」。
「一、貴賓室にて村山社長より全役員と会し、時局問題に付社論の統一の事、及不景気急に回復せず、用紙の値下りもなきため、今後緊縮方針の話杯出づ。 一、・・・、昨夜内田良平氏井上藤三郎氏とつるやにて会したる節の内田氏の注意の報告を受け、高原君の満蒙放棄論の流説に関しては新聞紙上公告する事とし、案を決定し散会せり」(辰井梅吉の日記)。
大阪朝日編集局長高原操の日記では、「・・・雑誌「自衛」事件につき、小生名前にて広告の要ありとの事にて誤解を釈く用意したり」とある。雑誌「自衛」が、軍縮促進・満蒙放棄を主張しているとして高原を攻撃、内田も朝日に圧力をかける。結局、高原の広告は掲載されず。
9月25日
東京朝日編集局顧問兼論説委員米田実、陸軍調査班員の質問に対し、部隊を元の駐屯地に戻すべきと述べる。米田は、前日の社説で、関東軍の行動について「自衛行為たる以上、必要な限度を超ゆべからざるは、国際法の原則である」と書く。
9月25日
「東京日日」朝刊第二面トップで「満州事変、帝国中外に声明、『正当の権益擁護、軍事占領にあらず』」の見出しで、内閣の声明を伝える。
中国側が国際連盟へ提訴した結果、連盟理事会議長は両国代表に「各自の軍隊を直に撤退し得べき適当な手段」をとるよう申し出たが、日本側は拒否した。
26日、社説「第三者の批判の価値」で、この拒否を「最も適当なる処置」「わが国民全体が満腔の共嶋を持つ」と評価し、第三者は事変の真相がわかっていないと批判。
9月26日
上海全市抗日救国大会。10余万人。中国各地に波及。
10月、上海・北京で抗日救国会、義勇団を組織。
9月26日
「大阪朝日」社説「断じて他の容喙は無用、帝国政府の満州事変声明、正当なる我権益擁護のみ」。事変の正当性を強調。朝鮮派遣軍の越境までも容認する。
「朝鮮より数千名の増援隊を派遣したけれども、これも条約上の規定守備の兵員補充であって、決して必要以上の増兵はやっていない。帝国軍隊の行動は全く『正常なる権利の擁護のため』であって、決して局外者よりかれこれ非難さるべきではない。・・・吾人の見解では連盟がもしこれ以上に容喙するようのことあれば、それこそ必要以上に日本の国論を刺激し、却って実際上益なき結果となるであろう」
9月26日
石橋湛山「内閣の欲せざる事変の拡大。政府の責任すこぶる重大」(「東洋経済新報」同日付)、政府と軍部の不一致ぶりを「内閣が軍部の方針に屈し、其の引き回すままに従ったということだ。内閣は亡びたに等しい」と批判。
石橋湛山「満蒙問題解決の根本方針如何」(「東洋経済新報」同日、10月10日)、満蒙放棄論を展開。
「満蒙を放棄すれば、果してわが国は亡ぶのか」と問う。満蒙特殊権益確立は力で無理押ししても、中国民衆のナショナリズムによって不可能である。満蒙問題の解決方法は中国の統一国家建設要求をどう見るかにかかっている。
①中国の統一国家運動を力で破壊しても、再び悪い形で運動が起らないか。
②力を持ってたたきつぶすと旧ドイツ帝国の二の舞に陥らないか。
③人口増は領土を広げても解決しないし、鉄、石炭の原料供給基地の確保という面も、平和の貿易で目的を達せられるので力ずくの必要はない。
④満蒙は生命線という国防上の主張は、あたかも英国が国防上、対岸の大陸に領土が必要というのに似ており、日本海で十分である。
9月27日
北平、東北民衆抗日救国会結成。知識人・学生中心の統一戦線的団体。張学良も資金などで関わる。
9月27日
張学良、錦州に仮政府樹立
9月27日
政府は9月24日の米の通牒に対して、攻撃されない限り現在以上の敵対行為にはでないと回答。
9月27日
社説「時局は極めて重大だ」(「東京日日」同日付)、慎重な政府の態度を弱腰として叱咤し、強硬論を繰り返す。
「これ、実にわが国民の上にくだされたる日清日露戦争以来の一大試練であって、われらは大声疾呼して国民的大努力の発動を力説しなければならぬ。正義の主張をまぐる如きことあらば、我が帝国は侮りを外にうける」
9月28日
上海抗日救国会、市商会で第2次常務委員会開催。買弁の退去を要求し、応じない場合は売国罪として処分する、と決議。
9月28日
北平、抗日救国大会。20余万人。政府に対日参戦を要求、さらに市民による抗日義勇軍編成が決議。日本商品ボイコット運動も広範囲に広がり、日本の対中国輸出を激減させる。
9月28日
国民政府の「不抵抗」に抗議の南京中央大学学生、「対日宣戦布告」要求、南京外交部包囲、王正廷外交部長を殴打し重傷を負わせる。
30日、王正廷辞任、施肇基代理。
9月28日
吉林省、熙洽を省長として国民政府離脱宣言。ピストル・ポイント(拳銃を突きつけられての)独立。「満州独立」の先駆。
21日、吉林は第2師団(多門師団長)に無血開城。参謀長熙洽と吉林の日本総領事石射猪太郎の努力による。しかし、2日後、多門師団長は、熙洽との会見で、国民政府に対する独立宣言を迫る。居並ぶ参謀連から拳銃を突きつけられての脅迫に、熙洽は屈する。石射総領事は、満鉄付属地外の事であり、日本政府の不拡大方針から逸脱するので、多門師団長に抗議を申入れるが、軍司令官命令であると一蹴される。石射は戦勝に浮かれる日本人居留民からも浮いた存在となり、軍は外務省に召還を要求するが、留まり、事変後8ヶ月で本省に帰朝申請。
9月28日
全国労農大衆党、対中国出兵反対闘争委員会を結成。
9月28日
日商、在中国権益擁護及び排日運動絶滅を声明。
9月28日
日本放送協会、聴取者激増のため70銭値下げを決定。
9月29日
ハルビンで張景恵、東省特別区自治委員会を組織
9月29日
湯玉麟、独立を宣言
9月29日
中国公使、満州における独立政府建設の企図は日本の責任との口上書を交付。これに対して日本政府は、10月1日、局地的治安維持機関の成立は歓迎と回答。
9月29日
「東京朝日」、満州の中国人は「満州独立国」建設を目指すことで意見が一致し、中でも実現性高い独立計画を持つのは奉天の「地方維持委員会」(袁金鎧、関東軍が傀儡国家建設工作で作った組織)だと伝える。
エドガー・スノーは奉天で袁に取材。「ここではすべてが日本人顧問の言いなりになっていることを、世界が知ってほしい」。「日本人将校数人」が「政府のようなものをつくったので、私にその名目上の長官になれ」と要求し、同行を求めた。「私は断った。すると引き受けなければ叛逆者として投獄され、悪くすると処刑されるかもしれないと言われた」「私は満州が中国から分離しないことを心から願っている」(スノー「極東戦線」32年、34年改定)。インタビューは米国の新聞に打電される。
9月29日
「大阪朝日」社説「連盟と満州事件」。
「そもそも今回の事変は支那兵が満鉄を破壊し危害を我に加えたるに端を発し、我軍は己むを得ざる緊急処置として自衛権の行使をなしたるものと解釈する以上、第二の事態拡大防止も、第三の領土的野心のためでは絶対にないとも自ら証明されるのである。この三点が帝国政府の声明中に明記されてあることが国際連盟は勿論、外国の世論をして日本の行動を正当なりと諒解せしめるに至った所以である」
9月30日
中国共産党宣言、国共合作を否認
9月30日
陸軍より帝大に派遣されている池田純久・田中清・四方諒二・鈴木庫三、桜会の国家改造に関する研究会を持つが、この日をもって終える。10月事件との関連?
9月30日
この日付の憲兵報告、「輿論ハ今ヤ軍部ノ主張ヲ強硬ニ支持スヘシト云ふに帰一シタリト言ふも過言ニアラサルヘシ」と誇らかに述べる。
社会民衆党は、「事件報道セラレルヤ態度一変」、軍部の政策に賛成。大阪財界の有力団体も慎重論を転換し軍部の積極的態度を容認。労働大衆党は、「依然戦争反対ノ底意アルモ世論の趨勢斯クナレル以上此際露骨に戦争反対ヲ唱フルハ不利ナリトシ暫ク傍観的態度ニ出ツト語リ居レリ」と、憲法報告は書く。
9月30日
国際連盟理事会、日本軍は自国民の安全・財産の保障が確保されるとともに、鉄道付属地に撤退するとの決議、日本も加わる全会一致で成立。
つづく

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