2026年9月19日土曜日

1931(昭和6)年9月15日 参謀本部第1部長建川美次少将、東京発満洲に向かう。南陸相から本庄関東軍司令官に宛てた親書持参。但し、建川は、本庄司令官に会う前に板垣と会うことになっている(事変当日の18日夜)。16日、石原が、三谷・今田・川島に対して18日夜決行を指示。17日、 石原・板垣の役割確認。  

 


1931(昭和6)年9月4日 河本大作(予備役大佐)、参謀本部第5課長重藤千秋大佐の要請により、奉天で特務機関花谷正少佐に開戦謀略資金5万円を渡す。高級参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐(関東軍作戦参謀)と会談 より続く

1931(昭和6)年

9月10日

張学良、中村事件で穏便解決意向表明。

9月10日

旅順要塞の28センチ砲を北大営の支那兵舎砲撃用に分解して運び込み、奉天駐屯軍兵舎に据え付け。

9月10日

国民政府行政院副院長兼財政部長宋子文重光葵駐華公使会談。日中懸案の平和的解決につい張学良の排日政策の転換説得など。20日に宋・重光は上海を出発、10月の吉林将軍張作相の母の葬儀参列名目で満州に赴き、途中北平で張学良に会い説得、大連で満鉄総裁内田康哉と3者会談する計画。

実際は、満州事変が先に勃発。勃発後も、2人は局地解決のため満州入りし事態収拾しようと、重光は幣原に意見具申、回答を督促するが、承認の返電はようやく21日に到着。宋子文に会うが、中国側はその日既に国際連盟へ提訴した後であった。

9月10日

奉天特務機関長土肥原大佐、上京。

11日、幣原外相・谷アジア局長と会談。幣原、軍部の自重要請。

同日、土肥原大佐は、二宮参謀次長・杉山陸軍次官・永田軍務課長と実力行使打合せ。続いて、土肥原は、金谷参謀総長の諮問に応答。

9月10日

原脩次郎、鉄道大臣に就任。若槻禮次郎、拓務大臣に就任(兼任)。

9月10日

満蒙問題各派連合大会

9月10日

スコットランド北部のインバーゴードン港で、イギリス大西洋艦隊水兵の暴動発生。

9月10日

イギリス、軍縮財政法案成立。失業手当削減に反対してロンドン・グラスゴーで暴動発生。

9月11日

奉天軍栄臻参謀長、朝日新聞記者に中村大尉事件は事実との公表。

同日、林久治郎奉天総領事と湯爾和との間で奉天交渉開始。

9月11日

天皇、「軍紀粛正」につき南陸相に下問。南は、下問内容を予め奈良武官長より知らされており、よどみなく答える。

9月11日

帝大航空研が開発した飛行船の水素ガス爆発防止法に対して、フランス政府が権利買収を正式に申込む。

9月11日

夜、料亭「竹葉」で、3省2部(外務、陸、海、参本、軍令部)の満蒙関係課長から成る少壮派「十日会」会合。出席者20名。永田鉄山軍事課長が陸軍側の方針を説明、中村事件を機として鉄道問題など懸案一切を解決する、という事に意見一致。永田は、十年来抱懐してきた大経略の片鱗を初めてのぞかせる。

9月12日

国民党中央緊急会議、国際連盟への提訴、国内団結、広州国民政府との敵対中止の基本方針決定。

9月12日

南陸相、御殿場の西園寺公望に軍制改革の経過報告。西園寺は軍紀について厳しく注意。

「元来、満州の土地に無頼の徒、所謂ごろつきとか浮浪人とか、或は右傾の暴力団のような者を送っておくことが、頗る面白くない。殊に軍部でかくの如き者を利用するというに至っては、国家の面目上、また日本軍の威信の上からいっても頗るよくないことである。もし彼等を軍部が使嗾したとするならば、外国から、日本の軍隊を、彼等と同等の価値のものと認められても仕方がない。これは陛下の軍隊の面目を庇つけるものである・・・」

殊に満蒙の土地と雖も支那の領土である以上、事外交に関しては、すべて外務大臣に一任すべきものであって、軍が先走ってとやかく言うことは甚だけしからん話である。閣下の如きは、輔帝の兼任上、また軍の首長として、充分慎重な態度を以てこれを取締るべきである」。

西園寺は、南を全く信用せず、15日、御殿場~京都の車中で、「(南は)べらべらと一人でしゃべっていた」と吐き捨てる様な言い方で会見の模様を原田に伝える。

「まるで暖簾に腕押しのようで、どうもあゝいう大臣では困るな。唯今甘酒を飲んで参りました、というような顔をしてしきりに述べ立てていたが、どうも実に頼りのないこと夥しい」。

9月13日

広州の反蒋軍、湖南省に侵攻、蒋軍と交戦。

9月13日

オーストリア、右翼軍事団体郷土防衛団、蜂起。警察と軍隊の協力を得られず失敗。

9月14日

関東軍三宅参謀長、建川第1部長に宛てて、現状視察(張学良政権の暴圧侮辱ぶり)を要請。

9月14日

張学良の顧問柴山兼四郎少佐、上京。中村大尉事件で張の遺憾の意を軍首脳に伝える。

9月15日

林久治郎奉天総領事、関東軍の軍事行動の気配(軍の集結、爆薬資材の搬出)を幣原外相宛に打電。幣原は南陸相に厳重に注意

前日の14日、撫順守備隊長川上大尉が、撫順警備会議席上、「撫順守備隊は十八日午後十一時半頃同地出発、牛相屯下車、飛行隊を襲撃する計画あるにつき、満鉄は列車を準備せられたく、なお、守備隊出発後の炭鉱等の警備は在郷軍人等を主とする防衛隊に拠られたし」と訓示。席上これ聞いた満鉄理事伍堂卓雄が、この情報を林総領事に伝えたる。幣原外相は閣議で南陸相に質するが、南は調べなければ信じられぬ、と逃げを打つ。

9月15日

共産党軍、国民政府軍の第3次包囲攻撃戦(7月1日~)を粉砕した、と主張。

9月15日

午後9時45分、参謀本部第1部長建川美次少将、朝鮮経由満州へ向かう為、背広姿で東京発南陸相から本庄関東軍司令官に宛てた親書持参。この20分前、奉天特務機関長土肥原は軍服の正装で列車に乗りこみ西下(建川の私服渡満の陽動作戦)。土肥原は途中下車し、事変勃発時は朝鮮を通過中。

「十一日に、陛下から軍紀に関して御注意があり、殊に満蒙における軍隊の行動については、更に一層慎重なるべきことを言われた」として、「一年間の隠忍自重をさらに説く」手紙。

建川は、出発直前、今村作戦課長には大臣・総長から自重を促すように指示されたと語るが、秘かに大川周明と連絡をとり、本庄関東軍司令官に会う前に、板垣・石原の意向を確かめる方法を大川と相談。大川は部下の中島信一を飛行機で大連に飛ばせ、板垣か石原に先に連絡をとらせる手を打つ。参本からは、関東軍三宅参謀長宛に、建川派遣を打電するが、関東軍参謀大尉片倉衷によれば、「板垣か石原かを途中まで迎えによこせ」とあったという。石原供述(東京裁判)では、「板垣か石原かを奉天に残すように」とあったという。いずれにしても、建川は、本庄司令官に会う前に、板垣・石原のどちらかには会えることになっている

9月15日

深夜~未明、奉天特務機関に関係者が集る。決行説の今田と中止説の花谷が対立板垣・石原は決行を決意しながら、士官らの肚を確かめる。

建川来訪を橋本欣五郎の電報(「計画露見、第一部長そちらにいく」)で知り、関係者が最後の協議

板垣、石原、三谷(憲兵隊長)、今田大尉(張学良顧問柴山兼四郎補佐官)、川島正大尉(独立守備隊第2大隊第3中隊長)、小野大尉(第1中隊長)、花谷少佐、児島少佐(独立守備隊第2大隊付)ら。議論は果てしなく、午前2時頃、鉛筆を立ててクジをやり、結果、中止と出て、今田は憤然として、「俺一人でもやる」と、席を蹴って退出。橋本欣五郎から板垣宛ての電報には、建川来満の任務が不明のため議論は続く。板垣・石原は決行と決めている。建川の来着を待つ必要はあるが、建川が来着しても勃発には間に合わないようにする必要がある。

9月16日

朝、奉天の瀋陽館に宿泊の石原が、三谷・今田・川島を呼び、17日迄の決行を求める。しかし、24糎流弾砲の駐退機の故障の為、1日遅れ18日夜と決定

9月16日

王外交部長、中村事件で妥協の線提出

9月16日

初度巡視中の本庄繁関東軍司令官、板垣・石原を従え奉天から遼陽に行く。板垣は、司令官が旅順に戻った後、奉天に戻る手筈。

9月16日

撫順炭坑襲撃事件。

9月16日

奉天、蔵式毅が省内各知事に排日運動取締令を出し、中村事件の責任者関玉衡を留置、17日軍法会議開廷を決定。

9月16日

軍事参事官会議臨時召集。白川・菱刈参事官(双方とも元関東軍司令官)は一挙解決を主張。現職出席者の南陸相・杉山次官・金谷参謀総長。二宮次長は、即時武力行使差控え決める。但し、現地部隊を拘束する措置はとられていない。

これより先、貴族院の火曜会・研究会・公正会・同和会などの有志が、外務省の中村事件解決方針は生ぬるいと批判。政友会も幹部会を開き、若槻内閣の外交を強硬外交に転換させることで一致。武力行使は、もはや時間の問題と考える傾向が、軍部以外の場でも貴族院・政友会から政治的に打ち出される

9月16日

リビア、反イタリア抵抗運動指導者ウマル・ムフタール、イタリア軍捕虜となり処刑。ムフタールの部下達はユースフ・アブー・ラーヒルを指揮官に選び、更に半年間抗戦。しかし、ラーヒルはエジプト国境越えで戦死。1932年、イタリア総督は全リビア征服・占領宣言(イタリア軍の次の征服地はエチオピア)。その後、イタリアはリビアに莫大な投資を行い、植民地時代にリビアに入植したイタリア人の多くは、第2次世界大戦後のリビア独立後、1970年迄地主として居座る。

9月16日

アメリカ、スウォーブが経済再建案を発表。

9月17日

奉天総領事館、撫順の寺田警察署長が出向いて来て、撫順守備隊から、18日未明に奉天城占領の想定の下に演習をするので、警察が居留民保護や避難の計画を立てるように指示して来た、との報告を受ける。

9月17日

遼陽、大川周明の部下中島信一が、板垣に、建川が本渓湖で下車して板垣に会いたい旨連絡。建川は18日13時奉天着予定であるが、11時29分に本渓湖で下車、板垣が迎えに出かける。

夜、遼陽の白塔ホテルで石原(旅順の軍司令部の意見統一)・板垣(奉天関連)の役割確認

9月17日

「大阪朝日」社説「満蒙権益の擁護、若槻首相の与えた言葉について」(編集局長高原操)。

「吾人は若槻首相に望む。昨今、満蒙問題の論議、漸しく激化せる折柄、軍部の昂奮を善導して意外の脱線行為なからしめ、対支外交に清鮮味を加え、その基礎の上に国際正義に基づく近代的外交の殿堂を築き上げんことを。・・・これが成し遂げられなければ、徒らに退嬰の結果による衰頽か、または猪突主義による顛落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうと確信する」

9月17日

曽野綾子、誕生。

9月17日

イギリスで金本位制停止。

9月17日

ロンドン第2次英印円卓会議。ガンジーが出席するが、協定は不成立。 


つづく


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