2022年7月3日日曜日

醜悪過ぎる! 「聞く力」とか言ってるけど、中味はこんなもんだろう → (動画)記者「撤回はしないと?」 山際「誤解を招かないよう、発言は丁寧にしていく」 記者「確認ですが、撤回しないと?」 山際「丁寧に発信していきたい」(国会ウォッチャー) / 「有権者の声を聞くのが内閣。山際大臣は辞任すべきだ」立憲・西村氏(朝日) / 「誤解を招く表現だった」と山際大臣 発言釈明も撤回せず(TBS) / 山際氏「発言に慎重期す」 誤解を強調、撤回せず(時事) / 山際氏「野党の話を政府聞かず」 参院選巡り、官房長官が注意(東京) ← 注意で済まないでしょ / 山際担当相「野党の話は聞かない」発言で大炎上!岸田政権“聞く力”の嘘を身内が暴露(日刊ゲンダイ) / 山際担当相、「野党の話は聞かず」 発言に反発相次ぐ(時事); 山際大志郎経済再生担当相は3日、青森県八戸市で街頭演説した際、「野党の人から来る話はわれわれ政府は何一つ聞かない。本当に生活を良くしたいと思うなら、自民党、与党の政治家を議員にしなくてはいけない」と述べました。 / この発言を煎じつめると「一党独裁が良い」ということになります。それ以外の解釈は不可能です(想田和弘)       




 

〈藤原定家の時代044〉治承4(1180)1月 頼盛ら復帰 言仁親王(3、安徳)著袴の儀 重衡(25)蔵人頭   

 



治承4(1180)

1月19日

・清盛、妻時子病気の報により上洛。20日の東宮の着袴の儀式を終え、時子の回復を見届けて、22日、福原に戻る。

この間、クーデタで謹慎を命じていた中納言花山院兼雅と平頼盛、参議藤原定能らの朝参復帰処置をとる。23日に兼雅と頼盛、その翌日には定能の出仕が許される。

・平頼盛、還任され、加賀・佐渡を知行国として与えられる。

平忠度、薩摩守・左兵衛佐兼任・正四位下となる。

○平頼盛(1132長承元年~1186文治2年):

父は忠盛。母は修理大夫藤原宗兼の女宗子(池禅尼)。家盛の同母弟。清盛・経盛・教盛らの異母弟。妻は俊寛の姉妹大納言局(八条院女房)(愚管抄・久我家文書)。保盛・光盛らの父。六波羅池殿に住み、池殿・池大納言と呼ばれる。

久安2年(1146)皇后宮権少進となり、以後右兵衛佐・中務権大輔・太皇太后宮亮・修理大夫等を歴任、常陸介・安芸守三河守・尾張守・太宰大弐にも任じられる。仁安元年(1166)従三位。左右兵衛督・中納言等を経て、寿永2年(1183)正二位権大納言。仁安3年(1168)と治承3年(1179)の政変で解官されるなど、清盛との間には早くから忠盛後継を巡る対抗関係にある。

寿永2年(1183)7月の平家一門の都落ちの際には都に留る(玉葉・愚管抄等)。同10月鎌倉に下向(公卿補任)、翌年4月に頼朝から没官領を返還され、6月に帰洛(「吾妻鏡」4月6日、6月1、5日条等)。文治元年(1185)5月、病により東大寺で出家(古記・公卿補任)。翌年6月2日没(吾妻鏡・公卿補任)。

○平忠度(タダノリ、?~1184寿永3):

薩摩守、平忠盛の6男。清盛の末弟。母は歌人僧正遍照の子孫にあたる高成の女、妻は同族の高綱(歌人)の女。

「兵範記」仁安元年(1167)11月16日条に、清盛の内大臣拝賀の前駆の中に「阿波前司忠度」とある。その後、「右衛門佐」(「兵範記」仁安2年8月14日条など)、「伯耆守」(「玉葉」治承3年11月18日条等)、「薩摩守」(治承4年9月11日条等)などを歴任。治承2年正月5日従四位上(「玉葉」「山槐記」同日条)。治承4年の富士川合戦(「玉葉」9月9、11日条)、翌5年3月の墨俣合戦(「古記」13日条)に名が見え、源氏追討の遠征にしばしば参加。寿永3年一の谷合戦で討たれ、八条河原にその首が並べられる(「吾妻鏡」2月13日条)。

歌人としても知られ、「千載集」(詠み人知らず)をはじめ、「新勅撰集」「玉葉集」「風雅集」「新拾遺集」などの勅撰集に10首入集。私家集「忠度集」。また、「吾妻鏡」には熊野別当湛快の女と結婚とある(元暦2年2月19日条)。

「『平家物語』の平忠度」を投稿予定(日時は不詳)

1月20日

・言仁親王(3、ときひと、安徳)著袴の儀。

「来月譲位の事有るべきに依って、急ぎ行わるる所なり。」(「玉葉」)。

「とう宮の御袴着、御魚味聞し召べきなど、花やかなる事ども世間にはのゝしりけれども、法皇は耳のよそに聞召ぞあはれなる。」(「平家物語」)。

○安徳天皇(1178~85)。

81代天皇。在位1180~85。父高倉天皇。母清盛娘徳子(建礼門院)。諱は言仁。外祖父清盛が溺愛する様子は「山槐記」に見える。

清盛は、治承元年(1177)の鹿ヶ谷の謀議以降、白河院を幽閉し、この年2月21日、3歳の親王を皇位につける。しかし反平氏政権活動は開始され、養和元年(1181)清盛没後は本格化。寿永2年(1183)、木曾義仲が京都に迫り、天皇は平氏一門と共に西方へ下る。太宰府、宇佐八幡宮、屋島などへ在所を遷し、長門国壇ノ浦の戦で入水。「二品禅尼宝剣を持し、接察使(アゼチ)局先帝(春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す」(「吾妻鏡」元暦2年3月24日条)。「平家物語」は祖母二位尼に抱かれて入水と伝える。

○建礼門院(1155~1213):

平徳子。父は平清盛。母は平時子。

承安元年(1171)高倉天皇の女御として入内、翌年中宮。治承2年(1178)皇子を産む。4年の安得天皇即位に際し、国母の地位に上る。翌5年正月、高倉上皇(21)は病没し、同年11月、女院号を宣下され建礼門院と号す。寿永2年(1183)、安徳天皇と平氏と共に都落ち、元暦2年(1185)、壇ノ浦では藤重ねの衣を着て入水するも、源氏方の渡辺党の武士に熊手で髪を引っ掛けられ、引き上げられる。

その後、都に送還され、文治元年(1185)5月1日、東山長楽寺で出家。大原の寂光院に移り、安徳天皇、夫、平氏一門の菩提を弔って暮らす。阿波内侍(信西の娘)と安徳天皇の乳母大納言佐局(ダイナゴンボスケノツボネ)が生活を共にする。文治3年、頼朝は平家没官領のうち摂津国真井・嶋屋両荘(建礼門院の同母兄の平宗盛の所領)を与える。「吾妻鏡」では、建礼門院の「かの御幽栖を訪い申さるによってなり」(文治3年2月1日条)とあり、頼朝は人を遣わして女院の閑居の様を見させた上で措置する。「平家物語」灌頂巻は、大原寂光院の有り様を、「甍破れては霧不断の香を焼き、扉落ちては月常住の燈を挑(カカ)ぐとも、かやうの所をや申すべき」と描く。「平家物語」は、この山深い大原の女院のもとを後白河院が訪ね、往時を語り合い、やがて「寂光院の鐘の声」に送られて帰る場面で終る。

○九条兼実(1149~1207):

藤原忠通の3男、母は藤原仲光の女加賀。九条家を創設。通称、月輪関白殿、後法性寺殿。

文治元年(1185)内覧、翌2年摂政ならびに氏長者。この間の人事は、頼朝の意向が大きく反映。「吾妻鏡」では、文治元年行家・義経の反逆に対し、兼実が「すこぶる関東を扶持せらるる」と頼朝を支持し、「頼朝欣悦したまふ」(文治元年11月7日条)とある。また、摂政就任にあたっては、「和漢の才智すこぶる人に越えしめたまふ」との人物評を記す(文治2年2月27日条)。兼実と近衛基通との摂関家領を巡る紛争では、頼朝が兼実を支援(「吾妻鏡」文治2年3月24日条)、後白河上皇は基通の主張を擁護し基通の勝利となる(「同」4月13日条)。文治3年(1187)記録所設置。文治5年太政大臣就任。建久元年(1190)娘任子が後鳥羽天皇に入内。建久2年関白。建久3年後白河法皇没後、頼朝征夷大将軍就任に奔走。建久6年(1195)東大寺落慶供養のため上洛した頼朝としばしば会談。

建久7年11月1日、源(土御門)通親の養女在子の皇子出産を機に宮廷内の勢力が変転。11月24日兼実の娘中宮任子が内裏より退出させられ、25日兼実は事実上関白を罷免される。この建久7年の政変により兼実は失脚、連座して弟慈円も天台座主を辞す。背景には源通親の讒言、大姫入内を図る頼朝の意向があったと推測される。建仁2年(1202)1月28日、法性寺で出家。承元元年(1207)4月5日没(59)。「選択本願念仏集」は兼実の要請を受けて著されたものとされる。長寛2年~正治2年の約40年間の日記「玉葉」は「吾妻鏡」とならび、鎌倉期の重要史料とされる。

1月28日

・源(久我)通親、参議・左近衛権中将に就任。2月6日、拝賀(「明月記」)。24日、高倉院庁別当になって高倉上皇の院近臣となる。

「参内、新宰相中将(通親)束帯にて渡殿に候ぜらる、招寄せ言談せくる、新頭(重衡)又参入す、中宮(高倉中宮徳子)御方に参る、大原野祭の御幣算儲く、退出、八条院に参る」(「明月記」2月9日条)。

1月28日

・平重衡(25)、蔵人頭に任命。2月、言仁が即位し安徳天皇になると、ひきつづきその蔵人頭に就任し、新設の高倉上皇院庁の別当を兼ねる。

○平重衡(1157~1185):

清盛の5男、母は平時子、宗盛・知盛の同母弟。本三位中将と称す。

軍略にすぐれ、この年治承4年(1180)、兄知盛と共に以仁王・源頼政を宇治川に討ち、同年暮れ、反平家の拠点南都を攻撃、東大寺・興福寺が灰燼に帰す。養和元年(1181)の墨俣川の戦い、寿永2年(1183)の水島合戦に勝利するが、寿永3年(1184)2月の一の谷の戦いで捕虜となり、三種神器との交換による源平間の講和を斡旋するが、実現できず。その後鎌倉に下向、鎌倉では丁重にもてなされるが、南都の要求に応じて幕府は身柄を引渡し、文治元年(1185)6月に泉木津で斬首。

「平家物語」では関東での虜囚の身となった重衡の世話をした千手前の恋が印象的に描かれ、「吾妻鏡」では、重衡処刑の3年後、「恋慕の思い、朝夕に休まず」病いとなった千手前が24歳で没するとしている(「吾妻鏡」文治4年4月25日条)。


つづく


2022年7月2日土曜日

氷河期世代の就職支援策「事業全体の抜本的改善が必要」(テレ朝); 政府は30代半ばから50代前半の就職氷河期世代について正社員への雇用を「3年間で30万人増やす」として、自治体への交付金に毎年30億円の予算を計上しましたが、実際に使われたのは6億6000万円などにとどまりました    

〈藤原定家の時代043〉治承4(1180) この年の概観 1月 定家(19)従五位上叙任 安徳即位にむけての準備

 



治承4(1180)

この年

・夏、西日本は旱魃により大凶作。平家の兵糧米徴発も加わり、餓死者、相つぐ。翌年の養和の大飢饉に繋がる。

〈政治情勢概観〉
前年治承3年11月、福原に引退していた前太政大臣平清盛は、突如兵数千を率い入京、後白河上皇を鳥羽殿に押し込めて院政を停止、高倉天皇を傀儡として政治の実権を掌握。関白藤原基房以下の官職を剥奪し、全国66ヶ国中32ヶ国が平家と与党の知行国となる(クーデタ前は17ヶ国)。

この年治承4年初め、清盛外孫の安徳天皇が即位し、福原への遷都が強行される。
4月、宮廷内の源氏の代表者たる源頼政は、クーデタで所領を失い皇位への望みを断たれた後白河上皇の第3皇子高倉の宮以仁王を奉じ、反平家挙兵を敢行。王は、皇家に反逆する平家を討てと呼びかける令旨を作成し、全国の源氏へ送る。令旨を運ぶ源行家は伊豆国田方郡北条で源頼朝に面会、頼朝は装束を整え、源氏の氏神石清水八幡宮を遥拝し、舅北条時政とを呼び寄せて令旨(叛乱を正統化する根拠文書)を見る。鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」はここから始まる。以仁王と頼政の挙兵は失敗し、2人は平家に討ち取られる。
平家は、令旨を受けた全国の源氏の討伐を計画。
しかし、8月、頼朝が先手をうって伊豆国の平家一門山木兼隆を討ち取る。しかし、三浦氏ら南関東の軍兵が参集しないうちに、相模国の平家方大庭景親以下に襲われ、石橋山に戦い惨敗、房総半島に逃げ延びる。
ところが、ここから頼朝の武運は大きく開け、千葉常胤・上総広常らが続々と馳せ参じ、この大軍を率い、頼朝は隅田川を越えて武蔵国に入る。ここでは、畠山・河越・江戸などの諸氏も帰順し、10月6日、遂に父祖ゆかりの地鎌倉に入る。

一方、平家は平維盛を大将とする討伐軍を東下させるが、頼朝は富士山麓を南進する甲斐源氏との連携に成功、富士川で平家軍と対峠。両軍には明らかな兵力差があり、平家方の戦意は低下。10月20日、甲斐源氏が攻撃を仕掛けると平家軍は大混乱に陥り、戦わず敗北、平維盛以下は京都に逃げ帰る。
頼朝は勢いに乗じ、軍勢を上洛させようとすが、千葉常胤・三浦義澄・上総広常らは、関東には佐竹氏をはじめ味方しない者がいる、先ず東夷を平らげ、その後に関西に至るべきだと諌める。これは、関東の武士たちは、平家追討のために頼朝に臣従したのではなく、関東での新秩序樹立(佐竹氏排除)を望んでいたということを示す。
頼朝は彼らの諌言を容れ、甲斐源氏の安田義定・武田信義に遠江・駿河を任せ、黄瀬川で再会した弟義経を伴い、鎌倉に軍を返す。・・・

1月
・明恵上人(8)、母と死別。
9月、父平重国(戦死)とも死別。母の姉(宗重の長女)の嫁ぎ先田殿庄・崎山兵衛良貞の許にに引き取られ、1年間養育された後、9歳で高尾の神護寺に入る。

○明恵(1173承安3~1232貞永1):
紀伊国の人。父は平重国,母は湯浅氏。父母を失った後、叔父の高雄神護寺の上覚房行慈の弟子となり密教や華厳教学を学ぶ。のち紀伊国白上峯に庵室を構え修行、約3年後、高雄奥の栂尾に閑居。その後再び紀伊に移住、約9年間、母方の湯浅一族の各地の館で過す。2度、天竺(インド)に渡ろうとし、春日大明神の神託により中止。
1206年(元久3)後鳥羽院は華厳宗興隆のため明恵に栂尾の別所を与え、翌年東大寺の華厳教学の中心道場である尊勝院の学頭として華厳宗を興隆すべと命じる。栂尾に高山寺が建てられる。
1212年(建暦2)に没した源空「選択本願念仏集」を読み、「摧邪輪」「摧邪輪荘厳記」を著して源空の専修念仏を批判。在家の人々は「南無三宝後生たすけさせ給へ」と唱え、三宝に供養すればよいと実践の簡易化を図る。
1221年(承文3)承久の変に際し、賀茂の別所に移るが翌々年栂尾に戻る。その時、後鳥羽院側の関東調伏の依頼に応じたともいう。また、院側の敗残兵が栂尾に逃げ込んだのを匿った事により六波羅に連行されるが、この時初めて明恵に会った北条泰時が明恵に帰依するようになったともいう。刑死した中御門宗行の未亡人が高雄の入口平岡に善妙寺を開き、同様の女性が集まる。1233年没(60)。
後鳥羽院と関わり、後深草院・修明門院,九条兼実・道家・藤原長房・西園寺公経・富小路盛兼・北条泰時ほかの帰依を受ける。著書「華厳修禅観照入解脱義」「華厳仏光三昧観秘宝蔵」「仏光観略次第」「三時三宝礼釈」「光明真言土沙勧信記」など、門弟編の伝記「高山寺明恵上人行状」「明恵上人伝記」。

1月5日
・藤原定家(19)、従五位上に叙任。

○藤原定家(1162~1241):
藤原俊成の2男。母は藤原親忠女の美福門院加賀。
後鳥羽上皇は退位1年後の正治元年(1199)頃から、和歌の世界に傾倒し、「新古今和歌集」編纂に発展していく。定家は正治2年頃の和歌詠進メンバから外れているが、父俊成と諸方に働きかけ詠進メンバに加えられ、元久2年(1205)「新古今和歌集」編纂の中心的役割を果たす。
京都文化への憧憬から和歌に心を寄せる将軍実朝(18)は、承元3年(1209)7月、住吉社に歌30首を奉じ、定家の許にも送る。翌8月、使者内藤知親(定家門弟)は鎌倉に帰り、合点を加えた和歌を実朝に返進。その時、定家は実朝の質問に対して書かれた歌論書「近代秀歌」を送る。
この年、定家(50)は従三位にのぼり、侍従となる。この頃後鳥羽との間に芸術上の意見対立や感情疎隔が生じ、歌の作れない時期で、健康にも恵まれない日々が多くスランプに陥っていた時期。その後も実朝との往信は続き、建暦元年9月には、頼時が関東に下向のついでに手紙や歌論を託し、建暦3年(1213)には相伝の私本「万葉集」を実朝に献呈。承久の乱直前に後鳥羽から勅勘を被り、乱に連坐することなく、乱後は歌壇の大御所として活躍した。
大福2年(1234)10月出家。19歳から書き続けられる日記「明月記」は75歳で終わる。晩年は歌を作るより、歌を整理し歌道として後世に残す事を心掛け、古典の書写を続ける。正治2年(1241)没。

1月10日
・高倉天皇、前関白基房ゆかりの閑院の内裏を離れ、藤原邦綱が急遽造営した五条東洞院の御所に東宮・中宮を伴い行幸。言仁親王(ことひと、のちの安徳)即位に向けての準備。


2022年7月1日金曜日

鎌倉散歩 妙本寺のノウゼンカズラが咲いた 大巧寺のアマギノクサギ 本覚寺のハス 2022-07-01

 7月1日(金)、はれ

「危険な暑さ」続く。

今日は、ノウゼンカズラ狙いの一択で鎌倉の妙本寺に出かけた。咲き始めのいい感じのノウゼンカズラだった。

妙本寺、今日も二組の結婚式の前撮り組が。コロナで挙式できなかった人たちなんだろうか。

余りに暑くて堪らないので、涼みがてら小町通のコメダでお昼。ちょうど、参議院選候補者の三原じゅん子が小町通をお練りしているのに正面から遭遇。驚いたことに、誰も候補者にカメラを向ける人もなく、運動員が「どうぞ記念写真を」とか言ってるのに誰一人応じていなかった。候補者、寒かったのではないかな。





▼大巧寺のアマギノクサギ

▼本覚寺のハス

▼お昼は小町通のコメダでナポリタン


「天然のクーラー減らし、ストーブ作るのか」神宮外苑の樹木伐採で東京はさらに暑くなる!?(東京); ◆小池知事は「緑増える」と言うけれど…  ◆「100年の大木と若木ではレベル違う」   

全職員の1割が退職 「町長許せない」 神奈川・真鶴町が異常事態(毎日);「職員の退職の動きは、21年12月の松本氏の再選直後から始まった。再任用のベテラン職員や特別職の教育長が相次いで退職。また町長の下で町政を切り盛りしてきた参事3人のうち1人も辞めた」   

 

IRの情報開示を求め大阪府・市を提訴 「事業者の利益を害する」などと非開示になった書類めぐり(カンテレ) / 大阪IRの情報公開を求め東京の男性が提訴 「税金使う事業で非公開を前提に事業者とやりとりはおかしい」(関西テレビ)

〈藤原定家の時代042〉治承3(1179)11月~12月 清盛、政権奪取(治承3年のクーデター) 前関白基房(36)九州配流(太宰権帥) 前太政大臣師長・前大納言源資賢父子の関外追放(尾張配流) 後白河院を鳥羽殿に幽閉  

 



治承3(1179)

11月

・藤原忠清(景綱の子)、従五位下上総介に叙任、子の忠綱は弟景綱の子景高と並んで左衛門尉・検非違使に補任。

11月2日

・山門堂衆は、勅定に従うと称しながら城を解かず、この日、西塔の大衆が襲ってきたのを退けると、西塔に撃ち入って堂舎・房舎30余を焼き払い、死者多数を出す。対して、官軍は山上を攻めることもできず、東国から上ってくる人や物を抑留するだけであった。5日には堂衆追討の祈りが諸社・諸寺に命じられ、7日には七社に奉幣がなされている。

「天台堂衆、西塔に打入り堂舎五宇、房舎三十余宇を焼き払ふ。」

5日「天台衆徒の事により、御祈りを諸社諸寺を召し仰せらる。」

7日「七社奉幣使を発遣せらる。衆徒の事に依るなり。」(「百錬抄」同日条)。

10日、覚快法親王、天台座主を辞退。

15日、印鎰・延暦寺宝蔵の鍵を朝廷に返す。

11月7日

・京で大地震。陰陽頭安倍泰親(安倍晴明の5代の子孫)、大きな災難が起こる前兆だと占う。

11月14日

【清盛、政権奪取(治承3年のクーデター)】平清盛、自ら武装し、兵6千を率い福原より入京。 

この日は豊明(とよあかり)の節会(せちえ)の日で、噂を聞いた兼実が恐る恐る出仕すると、洛中の人家では資材を東西に運んでおり、喧騒に包まれていた。「誠にもって物忩(ぶつそう)、乱世の至り也」(『玉葉』)とある。清盛は「武者ダチニテ俄カニ上リテ、我ガ身モ腹巻ハヅサズ」に八条の屋敷に入ったと伝える。すぐに上洛の理由が噂になって回った。法皇が重盛の越前国を没収したこと、白河殿の荘園を法皇が沙汰するようになったこと、除目で師家が近衛基通を越えて中納言になったことなどへの恨みであろうと、その噂は一致していた。

11月15日

・清盛、中宮と東宮が八条殿に移り、福原に連れて下るという圧力を法皇と天皇にかける。

清盛からは宗盛が使者として内裏に派遣され、また内裏からは内女房(うちのにようぼう)の若狭局(わかさのつぼね)が八条殿にやってくるなど、何度かの往来があった末、平重衡が清盛の使者になって内裏に向かい、次のように通告した。

「愚僧」(清盛)は偏えに棄て置かれたような状態であり、朝政のあり方を見ると安堵できるものではない。このままでは身の暇を賜り、辺地に隠居するしかなく、中宮・東宮とともに一緒にゆきたいので、勅使を派遣してそのように仰せてほしい。

・法皇は、清盛の圧力に屈し、法印静賢(じようけん)を通じて万機にわたって政務に介入しない旨が伝えられた。院政は再び止められ、基房は関白を止めさせられ、子の師家も中納言中将を止められ、基通が関白・内大臣となった。天下上下は「死の灰」のごときものだと『山槐記』は記す。

「上皇、法印静賢を以て、自今以後万機御口入れ有るべからざるの由、これを仰せ遣はさる。」(「百錬抄」同日条)。"

・この日、兼実のもとには子刻(真夜中)に「天下の大事」が出来(しゆつたい)した、といううわさが届くが、詳しいことはわからないまま寅刻(午前四時ころ)に至り、「志のある」大夫史隆職(だいふしたかもと)が書付けを送ってくれて、事態がようやく明らかとなった。それは、藤原基房(兼実の兄)の関白をやめて基通を関白・内大臣・氏長者となし、同じく師家の権中納言・中将などをやめる、というものであった

法印問答(ほういんもんどう、「平家物語」巻3):

15日、清盛が朝廷を怨むとの噂が立ち、後白河院は故小納言入道信西の子静憲法印を清盛に派遣。清盛は、重盛が没しても法皇が嘆いている様子が無い、中納言欠員の際、二位中将(基通)が希望し清盛がとりなしたの、何故関白の子(師家)を中納言にするのか、と言う。」法印は、官位・棒禄は清盛には満ち足りている、法皇の心は、天の心と同じく深く広くて測りにくい、臣として君に逆らうのは人臣の礼から外れるので、よく考えるべきだ、清盛の意見は君にご披露する、と述べて退出。人々は法印の堂々とした物言いを誉める。

11月16日

・この日、院近臣を搦め取るという噂が飛び交い、前天台座主明雲(65)、還任。

「座主明雲ハ偏ニ平氏ノ護持僧ニテ」(「愚管抄」)。覚快には山門の騒動を鎮めることができなかったという理由による。山門の件もクーデターの一因だったことがわかる。

11月17日

・大量の貴族・官人の解官。この日、全貌が明らかになる。

太政大臣の藤原師長、大納言源資賢など貴族が8人、殿上人・受領・検非違使など31人。

大別すると院近臣と関白の縁者や近臣からなる。前者には源資賢とその子雅賢、参議の藤原光能、大宰大弐藤原親信、越前守藤原季能、大蔵卿高階泰経とその子の常陸介経仲、陸奥守藤原範季、周防守藤原能盛などであり、相模守平業房や検非違使の平資行といった鹿ヵ谷事件で連行された人物も含まれている。後者には基房の北政所を姉妹にもつ中納言藤原実綱、基房の子の隆忠や寵臣の三河守藤原顕家などがいる。

注目される第一点は、花山院兼雅の東宮大夫と平頼盛の右衛門督(うえもんのかみ)の官職が解かれた点である。ともに平氏一門に連なる人物であることから見れば、法皇と基房への清盛の恨みの強さが知られる。頼盛は法皇の近臣であり、兼雅の姉妹は基房の子師家の母であった。

第二点は大量の受領の任が解かれ、大幅な受領の交替が行われた点である。

院近臣の平氏の解官

清盛の異母弟権中納言右衛門督平頼盛(母池禅尼)は右衛門督を止められ(翌治承4年(1180)1月還任)、清盛室時子の弟右中弁平親宗、右近権少将伯耆守平時家(時忠次男)、大膳大夫平信業、蔵人右少弁中宮大進平基進、左衛門佐相模守平業房(院寵女・高階栄子の夫)、加賀守平親国、左馬権頭平業忠、検非違使平扶行らは官職を解かれる。

平時家:中納言平時忠2男、右近衛権少将従四位下、清盛命により上総に追放。時忠後妻藤原頌子の讒言・策動による。上総介は侍大将藤原忠清(揺任)、上総を支配するのは上総介平忠常の嫡流の上総権介平広常(義朝の盟友)。広常は追われてきた時家を歓迎、娘を娶らせる。寿永元年(1182)正月、時家、頼朝の許に見参。平家滅亡後、幕府に任官。建久4(1193)年5月10鎌倉で没。

平業房(なりふさ):後白河法皇の近臣。相模守。解官、伊豆配流途中で逃亡。12月、清水寺付近で兵衛尉知綱に捕えられ、平宗盛のところで拷問を受け殺害。妻は高階栄子(えいし、のち丹後局)。山法師澄雲(ちょううん)の女、業房との間に業兼・教成(のりなり)を生む。夫没後、院御所に仕え、ほどなく皇女覲子(きんし、のち宣陽門院)を生む(宣陽門院は膨大な所領長講堂院領を譲られる)。また、後白河法皇の山科新御所の地が丹後局に与られ、教成が伝領、名字地となり、教成は笙・装束などの故実を伝える山科家の祖となる。

平家家人で北面の藤原能盛、解官。

大量の知行国の獲得

それらを分類すると平氏一門の知行する国々、平氏の家人の知行する国々、平氏と親しい公卿の知行する国々などからなり、クーデター前は17ヵ国であるのに対して、クーデター後には32ヵ国になっている。『平家物語』が「一門の公卿十六人、殿上人三十余人そのほか諸国の受領・衛府・諸司、都合六十余人」「日本秋津島(あきつしま)は僅かに六十六ヵ国、平家知行の国三十余ヵ国、既に半国に及べり」と記しているように、平氏関係の知行国は日本全国の過半を占めるようになった。また平氏一門の知行国を限ってみても、9ヵ国から19ヵ国に倍増。その他、全国500余ヶ所と云われる荘園を所有。

クーデタによる政権掌握は、国家支配層内部における平氏の孤立を深刻なものとする。知行国・荘園を大量に集積し、それを政治的・経済的基盤とすることは、国衙領・荘園内部に醸し出されつつある社会的・政治的諸矛盾を一手に引き受けることを意味する。平氏と地方社会との対立は深まる。

院主宰の王朝権力と異なる独自の政策なく、在地領主を自己の権力下に編成しえず。在地領主層の所領・所職知行を安定的に保障する方式を開発できなかった平氏政権の限界。「国には目代に随ひ、庄には預所に仕へて、公事・雑役に駆り立てられ、夜も昼も安きとこなし」(「源平盛衰記」)。在地に不満が醸成。王朝貴族・南都北嶺の寺社勢力の反抗、東国中心に在地武士層の蜂起。⇒1180年11月、平氏の奏請で院政復活。

11月18日

・前関白基房(36)の配流地を九州に定め、基房を太宰権帥に任じる。前太政大臣師長と前大納言源資賢父子の関外追放(尾張配流)、平業房の伊豆国配流を定める。

「十八日。前関白基房大宰権帥に左遷、大夫尉康綱を遣はし之を追はしめ、即ち以て出門す。随身厚景、侍四五人共にあり。雑人途中に満ち之を見て各々叫歓す。」(「百錬抄」同日条)。

大臣流罪(だいしんるざい、「平家物語」巻3)。

行隆之沙汰(ゆきたかのさた、「平家物語」巻3):

前関白基房の侍の江大夫判官遠成は、平家に良く思っていず、今にも逮捕されるだろうとの評判。遠成は、子の江左衛門尉家成を連れて落ちるが、父子は稲荷山で、伊豆の流人の前右兵衛佐頼朝を頼ろうと思うが、あの人も勅勘を受けている身である、どうせ逃れられないのなら、帰って六波羅からのお召しがあったら腹を切ろう、と言い合わせる。川原坂の宿所に引き返すと、予想通り六波羅より兵300余が宿所に押し寄せる。父子は館に火をかけ切腹。前左少弁行隆という人は、この10余年、官を止められ細々と暮らしていたが、清盛から呼ばれ官職に戻り、荘園などを貰う。

11月19日

・後白河法皇を鳥羽に移す。

『百練抄』は、「武士が厳しく警護して、藤原成範や有脩範(のぶのり)、法印静賢などの信西の子や女房二、三人以外は出入りできなくさせる措置がとられた」と記し、『愚管抄』は「瑯慶(ろうけい)という僧のみを近くに置くことが許され、その後、女房の丹後を側に置くことが認められたが、この女房が後に浄土寺二位と称される法皇の思い人であった」と語る。

法皇被流(ほうおうながされ、「平家物語」巻3):

20日、軍兵、院の御所法住寺殿を包囲。前右大将宗盛が法皇に鳥羽殿への御幸を奏し、法皇は供の公卿・殿上人もなく鳥羽殿に入る。静憲法印が跡から供に行く。

城南之離宮(じょうなんのりきゅう、「平家物語」巻3):

高倉天皇が、鳥羽院にいっそ出家遁世したいと密かに手紙を書き送る。法皇から、帝位についていることが一つの頼みで、世を捨てては何の頼みもなくなる、私がどうにかなるさまを聞いていてください、と返事が届き、一層深く悲しむ。清盛は、政務は主上の意向通りにするように言って福原に下り、前右大将宗盛がこれを主上に奏聞すると、主上は「摂政関白と相談して、宗盛が何とでも取り計らえ」と取り合わず。法皇は城南の離宮で失意の日々を送り、治承4年となる。

11月20日

・清盛、九条兼実の子良通を右大将・中納言に任じ、次のような書状を兼実に届ける(『玉葉』原漢文)。

二位中将殿、権中納言並右大将に任ぜしめ給ひ候の由、承り及び候所なり。而るに

聞書(ききがき)に書き落としめ候了ぬと云々。この旨を以て申せしめ給ふべし。恐々謹言

      十一月廿日        静海(じようかい)

謹上  修理権大夫殿


「良通殿が権中納言・右大将に任ぜられた旨を知りましたが、除目の聞書に書き落としてしまったということですので、この旨を兼実殿にお伝えください」という内容であり、宛名の「修理権大夫」は兼実の側近の藤原頼輔である。側近を通じて伝える丁重な書状となっており、清盛が兼実の子の良通を右大将に任じたのは兼実の協力を要請してのものであったことがよくわかる。若い関白の基通を支え、「天下の顧問」に預かる存在として兼実を遇し、政権の安定を考えたのであろう。

しかし兼実は、「仰天の外、他事無し、生涯の恥辱」と記し、「万事に関わってこなかったのでこのような事態になったのであろうか、私の欝を散じるつもりなのであろうか、固辞すべきではあるが、もし辞退すれば絞斬の罪に落とされよう」と困惑の気持ちを記した後、思うところがあって、悦び思う旨の返事を送ったとも記している。

この兼実の「思うところ」が実は摂関になる望みであったことは、『愚管抄』の伝える兼実の次の言葉から知られる。のちの文治2年(1186)に摂政になった際、「治承三年ノ冬ヨリ、イカナルベシトモ思ヒワカデ、仏神ニイノリテ摂関ノ前途ニハ必ズ達スベキ告アリテ、十年ノ後ケフ待チツケル」と慈円に語ったという。

11月21日

・任官の除目:近衛基通、二位・左中将から内大臣。九条兼実、右大臣。九条良通、ニ位・中納言・右近衛大将。藤原隆房、右中将。平経俊、若狭守。平教経、能登守・従五位下。平通盛、越前守兼中宮亮(この頃小宰相を見染め、中宮の力添えで結婚)。

11月21日

・清盛に呼び出された検非違使の大江遠業(とおなり)が我が子の首を斬って自宅に放火して自害。

11月21日

・藤原基房(35)、古川宿で大原聖人本覚房(ほんかくぼう)を戒師にして出家し、翌日、淀川を下って福原に向かい、さらに淡路を経て藤原邦綱の知行する備前国に移さる。。

停任された16日~18日の間に出居(でい)の風炉(ふろ)で自筆の日記をはじめくさぐさのほごを焼く。逐電して行方知れずとされたが(17日)、鳥羽南辺の古河(故川)というところに移された(19日)。ここで21日、大原聖人(本覚房)について受戒、出家し(その室家や祇侯の男女7~8人もこれに従う)、この日淀川を屋形船で下り福原に護送される。数日後、福原より淡路へ渡された。配流地は初め日向国であったが、いったん淡路国に渡り、更に前大納言邦綱の知行国である備前にあらためられた。備前には12月に入って移る。配所は「備前の国府の辺、湯迫(いばさま)と云ふ所」(『平家物語』)であった。

11月22日

・平頼盛の所領没収。

・流罪となった人々の関外への追放が行われる。

11月24日

・院近習の西景(さいけい)の楊梅壬生(やまももみぶ)の堂が追捕されて、米穀や魚類が武士によって運び去られ、白河殿の倉預だった藤原兼盛の手首が切られ、院近臣であった備後前司藤原為行と上総前司為保の二人が殺害されて海に突き落とされたという情報が入る。

11月25日

・以仁王(29)知行の常興寺が天台座主明雲に付けられる。以仁王の反乱の直接の原因となる。

以仁王は後白河が高倉三位(たかくらのさんみ)との間に儲けた子。常興寺は以仁王が師の最雲(さいうん)から譲られたものであり、同じく最雲の弟子であった明雲に付けた。

11月27日

・興福寺大衆、前関白基房(氏長者)の配流に怒り蜂起。これはやがて鎮まるものの、その後の興福寺大衆が反平氏の動きをとる伏線となる。

11月28日

・従三位源頼政(76)、出家。翌治承4年(1180)5月後白河院の皇子以仁王に呼応して挙兵。

12月

・皇太后宮権大夫平経盛(つねもり、清盛弟)、修理大夫兼任。平重衡、左近衛中将辞職。

12月2日

・院近臣の左衛門佐兼相模守平業房、伊豆に流されるところを失踪し、この日、清水寺法師房に潜伏しているところを逮捕され、拷問のうえ殺害される。

12月8日

・清盛、譲位を断行するべく上洛。9日、東宮の垂髪(すいはつ)の儀式を行う。垂髪を正月に行うのでは憚りがあることから、垂髪を年内に行ってしまい、着袴(ちやつこ)を来年正月に行い、そして譲位を2月、4月には即位という段取りを決めていた。

12月11日

・藤原師長(42)、出家。

12月13日

・東宮大進藤原光長、清盛の八条の邸宅を訪れ、清盛の側近の検非違使源季貞(すえさだ)を通じて、正月の東宮の着袴の儀式、東宮の八十島(やそじま)祭についての指示を受ける。清盛は全面的に政治の実権を握り、行使していた。

12月16日

・春宮言仁親王(2、安徳)、平清盛の西八条邸に行啓。

清盛は簾中にあって、関白や東宮傅など公卿が参入すると、そこで正月の東宮の着袴の儀式の議定が行われる。さらに宗盛の子の清宗が従四位上(じゆしいのじよう)に、邦綱の子で清盛の猶子の平清邦が従五位上に叙されており、東宮を補佐しているのが誰なのかをよく物語っている。東宮への贈物には摺本(すずりほん)の『太平御覧』が選ばれたが、これは宋国から清盛に送られたものであった。

東宮は清盛のことを嫌わず、明障子に湿った指で穴を通すのを清盛が教えてやって見せると、そのように東宮が指を通したので、それを見た清盛は感涙を拭ってその障子を倉に納めるように命じたという。往路・帰路には辻ごとに武士が見張って人を通させず、竹や幕で周囲を塞いでおり、武士は全部で600騎あまりが動員されていた。

12月17日

・関白基通の妻になっていた清盛の娘の北政所始(きたのまんどころはじめ)。重衡・経正らが家司として参加。

12月24日

・源(久我)通親、高倉天皇の蔵人頭に加え、中宮権亮を兼任。


つづく

〈コロナ感染者〉 (7/1)23,156人 先週から7,000人増