2023年10月25日水曜日

要塞史跡のある猿島を観光して油壷温泉で一泊 横堀海岸、油壷湾、荒井浜海岸を散策 2023-10-24,25

10月24日(火)~25日(水)はれ

東京湾に浮かぶ要塞史跡の無人島、猿島をグルっと見て廻って、次に相模湾側の小網代湾を見渡す油壷温泉で一泊の骨休めをしてきた。

猿島は、京急横須賀中央駅から歩いて10分ほどの三笠公園から船で10分のことろ。

▼猿島の要塞史跡





▼猿島の海岸


▼油壷温泉の宿から一望する小網代湾
油壷温泉は相模湾側、京急の終点三崎口駅よりバス20分。

▼小網代湾の横堀海岸(夕景)



▼油壷湾(小網代湾の反対側)を見下ろす散策路
この辺りは北条早雲に敗れた三浦一族が支配した地域。

現在、この辺り一帯は大半が東大の諸研究施設で占めている。



▼相模湾に面した荒井浜海岸

▼複雑に入り組んだ地形


グテーレス国連事務総長 「ハマスの攻撃が理由なく始まったのではないことを認めることも重要だ。 パレスチナの人々は56年間、息が詰まるような占領下に置かれてきた。彼らの領土は封鎖によって目に見えて侵食され、暴力が蔓延してきた。彼らの領土は封鎖によって目に見えて侵食され、暴力が蔓延してきた。 経済は息を塞がれ、人々は追い出され、彼らの家は引き倒された。彼らの辛い状況を打破する唯一の希望である政治的解決は消えかけていた。しかしながらパレスチナの人々の苦しみの声でハマスの残虐な攻撃を正当化することはできない。そして、それらの残虐な攻撃でパレスチナの人々への集団的懲罰を正当化できるものではない。」      

〈100年前の世界104〉大正12(1923)年9月3日 【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言  「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア。」

 


〈100年前の世界103〉大正12(1923)年9月3日 〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉より 「九月三日[略]狸坂附近で、労働者体の奴等が五、六人で朝鮮人を井戸に投げこみ上から埋めてしまった。東坂では刀で鮮人の首をはねて川に投げこんでいるのも見た。この恐ろしい殺人罪を見て止める人もなければ、文句をいう人もない。世は全く無政府状態に化した。」 より続く

大正12(1923)年

9月3日

【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言

(1)中村川、堀割川にそって

⑥西河春海(東京朝日記者)「天下晴れての人殺し」

〔9月3日中村町の方へ同僚の安否を訪ねた帰り豪雨にあい、千歳橋停留所付近に焼け残っている電車の中での労働者風の人たち4、5人の会話〕

「旦那 朝鮮人は何うですい。俺ァ今日までに六人やりました。」

「そいつは凄いな。」

「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア。」

雨はますます非道くなって来た。焼跡からはまだ所々煙が昇ってゐる。着物も傘もない人々は、焼跡から亜鉛の焼板を拾って頭に翳して、雨を防ぎながら、走り廻っている。

凄い髭の労働者は話し続ける。

「この中村町なんかは、一番鮮人騒ぎが非道かった。一人の鮮人を掴へて白状させたら、その野郎、地震の日から十何人って強姦したそうだ。その中でも地震の夜、亭主の居ねえうちで、女を強姦してうちへ火をつけて、赤ん坊をその中へ投げ込だといふ話だ。そんなのはすぐ擲り殺してやったが・・・。」と言ふ

「電信柱へ、針金でしばりつけて、・・・焼けちゃって縄なんか無えんだからネ・・・。そして擲る、蹴る、鳶で頭へ穴をあける、竹槍で突く、滅茶滅茶でサア。しかしあいつ等、眼からポロポロ涙を流して、助けてくれって拝がむが、決して悲鳴をあげないのが不思議だ」 といふ。底にたぎる情熱を持って、決して死をも恐れず黙々として寧ろ死に向ふといふ朝鮮の民族性が考へさせられる。

「けさもやりましたよ。その川っぷちに埃箱があるでせう。その中に野郎一晩隠れていたらしい。腹は減るし、蚊に喰はれるし、箱の中じゃあ動きも取れねえんだから、奴さん堪らなくなって、今朝のこのこと這い出した。それを見つけたから、みんなで掴まえようとしたんだ。」

昔、或る国に死刑よりも恐ろしい刑罰があった。それは罰人を身動きの出来ないやうな、三尺四方の位の箱の中に入れて、死ぬまで動かさずに生かして置くといふのた。俺はそれを思い出し乍ら聞いてゐた。

「奴、川へ飛込んで向こふ河岸へ泳いで遁れようとした。旦那石って奴は中々あたらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが一つも当たらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、-つも当たらねえ。でとうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎ぢやねえか。10分位も水の中にもぐってゐた。しばらくすう〔る〕と、息がつまったと見えて、舟の直そばへ頭を出した。そこを舟にゐた一人の野郎が鳶でグサリと頭を引掛けて、ヅルヅル舟へ引寄せてしまった。・・・まるで材木といぶ形だアネ。」といふ。

「舟のそばへ来れば、もう滅茶滅茶だ。鳶口一でも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍で突くんだから・・・」

ああ、俺にはこの労働者を非難できない。何百といふ私刑が行はれたであろう。しかし総てが善悪の意識を超越して行ほれてゐる。避難すべきでもなく、さるべきでもない。暗然たる淋しさのみが心を領していく。

(「横浜市震災誌」)

■藤野裕子『民衆暴力』での指摘

「朝鮮人を虐殺した民衆の側(の論理として)・・・・・

・・・これまでの研究では、植民地に対する蔑祝と、三・一運動をきっかけに「不逞鮮人」という語がメディアをとおして広まり、朝鮮人を「テロリスト」と見なす偏見や嫌悪感が生じたことを重視している。それに加え、日本民衆が震災時の朝鮮人虐殺を「天下晴れての人殺し」と捉えていたことに注目している(山田『関東大震災時の朝鮮人虐殺』)

(中略)

「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺し」。お咎めを受けずにおおっぴらにやれる公認された人殺し、それも「身が護れないから」という正当防衛だからこそと認識していることがうかがえる。・・・・・

それに加え、「豪気なものでサァ」という表現からは、警察が役に立たない時に、自分が「活躍」していることへの誇らしさや、本来刑事罰を受ける殺人行為ができることへの解放感すらうかがえる。こうした認識や感情は、軍や警察が民衆の暴力行使にお墨付きを与えたことが前提となっているが、殺害行為に対する民衆自身の能動的な姿勢も読み取れる。

労働市場での競合

そのほかの要素として、日本人の労働者層には、朝鮮人に仕事を奪われているという感覚があったことも指摘されている (山田『関東大震災時の朝鮮人虐殺』)。」

(藤野裕子『民衆暴力』)


(2) 中村町、石川町、山手町、根岸町付近

⑧石川小高等科二年女子

「手から足からかたくしばられていて、電信にゆわえつけられていた」

人々はきゅうに朝鮮人がくるといふので、男の人たちはたけやりをこしらえたり、鉄のぼうを持ったりしてねずの番をした。私もおちおちな〔ね〕られないので、ちょいちょい目をさましたりして、一夜を明かした。朝起きると朝鮮人がつかまっていたので、わいわいいっている。私はこはごは見に行った。其の人は手から足からかたくしばられて、電信にいはい〔ゆわえ〕つけられていた。其のまありには、たけやりをもった人たちがかたまっている。其の中の一人が、なかまは幾人だと聞いたらただ首をたれて何もいはないので、ぶてぶてというのがどこからでも聞こえた。私はあまりのこはさに帰って来て話をしたら、かはいそうだけれども、しかたがないといふひともあれは、もっとやればいいのにといふ人ばかりである。その夜はすんで、四日の朝になった。〔・・・〕よなかごろ、わあわあというのかした。おもはず、目をさまして起きて見ると、バンザイバンザイとする声であった。私はこのさはぎにどうしてバンザイしているのだと母に聞いたら、兵隊が来たからバンザイバンザイといっているのだといった。私はその時、うれしくてなんといっていいかわからなかった。〔・・・〕もう兵隊が来てから、朝鮮人をすくなくなり、人もやすらかになって来た。


㉗石川小高等科二年女子

「朝鮮人と見たら殺してもよい」

〔家の裏の山、二日〕今晩は、と ぬきみを下げた男の人が来て、朝鮮人が襲来してきたから朝鮮人と見たら殺してもよい、外出するには一切武器を持って行きなさいと、ほうぼうで言って歩く。怖い思いをして、又怖い目にあわなければ良いがと思って身震いをした。〔三日の朝〕六時頃、向ふ山で女の人が、皆さん、早く来てくださいよう、朝鮮人が此っちへ逃げて来て此の西洋館に入って居から、早く、早くと手まねぎをした。銃の音であろう、ヅドン、ヅドンとなった。半潰の西洋館に皆んなはどんどん入って居って、朝鮮人を表へつき出して、棒でやる者や丸太でぶって居る。すると其の朝鮮人は頭をおさへて、あいたいよ、あいたいよ、御免よ、御免よと逃げまおって居る。其の鮮人は、すぐに警察につれて行かれたのであろう、又もや三日の晩は来た。


(6)寿尋常小学校の作文集(「大震災遭難記」)

四年男子1 

そのあくる朝〔三日〕おきてみると、みなさんがたが、みなぼうをもっていました。なんでぼうをもっているのかとききますと、朝鮮人がみなをこまらすからこのぼうでつついてやるんだといいましたのでした。ではわたくしに一本おくんなさいといってもらいました。それで兄さんといっしょにでかけました。するとみなさんがたが、朝鮮人をつついていましたからわたしも一ペんつついてやりましたら、きゅうとしんでしまいました。またそのひとのあとをついていくと、またちょうせんじんがぴすとるをもってうとうとしましたからにげてきてしまいました。


四年男子2 

三日朝見れば朝鮮人がたくさん川の中にいて死んでいました。


(7)磯子尋常小学校の作文集(「震災に関する児童の感想」)

高等科一年男子2 

三日になると朝鮮人騒となって皆竹やりを待たり刀を盾たりしてあるき回ってた。其をして朝鮮人を見るとすぐ殺しので大騒になった。其れで朝鮮人が殺されて川へ流れてくる様を見るときびの悪いほどである。また食料を見つけにいったりして 其れたべていたのである。朝鮮人騒は約二週間の間であった。また正金銀行の前へには大勢の人が死んで山の如であった。其れから地震も時々行たけれども皆小いのであった。


(11)南吉田第二尋常小学校の作文集(「震災記念綴方帖」)

六年男子20 

こ屋のとこにはいって いろいろのはなしをしているとちよせんがあばれてくるからきよつけてくたないといつたかへたけをつくてないやりみたいのをつくてよちんをもているとくろくろとしてきたかと・・・〔三日目〕僕のうちのしっている人がしょうぎょう学校にいるからこいといったからいきました。そして、ゆく道にはあちこちにはちよせんしんが川にやら道にやらころかていました


つづく

2023年10月24日火曜日

(社説)万博混乱の責任 維新も政権も免れぬ(朝日);「開発に失敗し「負の遺産」とされてきた人工島「夢洲(ゆめしま)」の起死回生策として、維新が統合型リゾート(IR)とともに打ち出したのが万博で、安倍政権が東京五輪後の景気対策や維新との関係強化への思惑から応じた経緯がある。万博をめぐる混乱は、動機の不純さやあいまいさと無縁ではなかろう。維新と政権は過去も振り返りつつ、開催の是非を省みる責任がある」 / [社説]大阪万博は軌道修正を柔軟に(日経);「万博は本来、出展する国が自前で費用を負担し、自国の技術などを披露するものだ。参加国を確保するために肩代わりするのは趣旨が違うだろう。完成が開幕に間に合わなかったり、参加国が減ったりするのもやむを得ない。 建設の遅れを取り戻すため、万博工事を残業時間規制から外すのは言語道断だ。ようやく働き方改革に取り組みつつある建設業界に水を差すことになる。現場力を発揮して突貫工事でやればできるというのは、昭和の価値観だ。」 ← 万博そのものが昭和のオワコンです!         

 

 

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イスラエルによるガザ攻撃と封鎖の停止を求めて学内でデモを行う米ハーバード大学の学生たち / ニューヨークのコロンビア大学で、パレスチナ支持デモ

〈100年前の世界103〉大正12(1923)年9月3日 〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉より 「九月三日[略]狸坂附近で、労働者体の奴等が五、六人で朝鮮人を井戸に投げこみ上から埋めてしまった。東坂では刀で鮮人の首をはねて川に投げこんでいるのも見た。この恐ろしい殺人罪を見て止める人もなければ、文句をいう人もない。世は全く無政府状態に化した。」    

 

朝鮮人虐殺「事実をなかったことにする発言許さない」市民団体が集会

〈100年前の世界102〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;港区、府中、場所不明〉 「〔3日〕東京にいっても、大久保第一六連隊の騎兵は、鮮人を馬で追いながら追い撃ちですよ。それはみんな田の中にたおれてしまって流しっきりだから、証拠不十分ですけどね。こっち〔法典村自警団裁判〕は切って殺してそのまま置いたですから、そういうひっかかりはあったですね。」 より続く

大正12(1923)年

9月3日

〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉

震災日記     小林啓三

九月二日[略]その夜に入って、朝鮮人さわぎが始まった。

九月三日[略]狸坂附近で、労働者体の奴等が五、六人で朝鮮人を井戸に投げこみ上から埋めてしまった。東坂では刀で鮮人の首をはねて川に投げこんでいるのも見た。この恐ろしい殺人罪を見て止める人もなければ、文句をいう人もない。世は全く無政府状態に化した。

九月四日[略]鮮人さわぎは益々大きくなって行く。白昼白刃を振っている人。竹槍を持っている人。銃をかついでいる人。鋸を持っている者。まるで戦国時代そのままである。人々と共に裏山へ柿をとりに行く。なにしろ先頭に白刃を持った人が行くのだから、山主などはぐうの音も出ない。一時間もかかって柿を十ばかり取ってやっと副食物にありついた。夜に入って各自警団が敵味方を区別する為、山川の相言葉をつくる。まるで赤穂の義士の打入そのままである。

九月五日[略]五里の道を自警団の人々に護られて九時頃原町田に着く。村へ入るとすぐ巡査がきて、身元調査をする。当地でも例の鮮人きわざで大へんである。夜を徹して銃の音がかすかにきこえる。

(神奈川県立工業学校内 高橋暢編『震災記念号」神奈川県立工業学校、1924年)


荒都記 - 赤い地図第二章     竹久夢二

三日の夜あたりから本当に自然の暴威と天災の怖しきをやっと感じ出したように思う。誰が宣伝したのか、宣伝の目的が何であったか私は知らないが、また実際そんな事実があったことも、私は見ないから知らなかったが、三日の夜の如きは、私もやはり空地へ出て、まだテント生活をしている人と同じ心持で、何か知らない敵を仮想していた。川崎の方からXXXXXXXXXXXX、XXXXXXXXXXXXXXXXXX。XXXXX×XXXXX、新宿のタンクへ向っているというのだ。二三町先の駅の近くでは、群集のただならぬ騒ぎや叫び声が、はっきり聞える。軍隊の自動車が幾台か坂の上の方からまっしぐらに走って下りる地響きがする。其中にピストルの音がした。それにつれて悲鳴があがる。

「おい、灯を消せ」誰かが言った。テントの中でも、立っている人も提燈の灯を消した。息をこらして、本能的にみな地の上に伏した。後できくと大地に穴を掘って、妻子を埋めた人もあったそうだ。

私は何の武器も持っていないから、敵を殺す気もなかった。だから殺されもすまいときめて、垣根の所へ腰かけて、遠くの叫喚を聞いていた。それは、幾百人の群集が入り乱れて戦っているかと思われるのだった。

だが何事もなくその夜は過ぎた。

流言蜚語の第一報が人から人へ伝わった時間が、西は、浜松あたりから、東は川崎、目黒、駒込、千葉あたりまで、殆んど同時間であったことも、その地方から来た人にきいて、いまでも不思議に思っている。それは人間の本能的な第六感とでも言ったら好いだろうか。

〔画家・詩人。当時三八歳、渋谷区宇田川に住む〕

(『女性改造』一九二三年一〇月号、改造社)


大震雑感     長岡半太郎

(略)

三日の朝になれば村の若い衆は、火事装束で鳶口を持ち、いかめしく道路を固めた、道に材木青竹数本を横たえ、鮮人ござんなれという風勢を示していた。幾人捕われたか不明である。爰(ここ)に四日の正午頃、長男治男は鎌倉から自転車で訪ねて来た。途中ひどい目に逢ったと言いながら、鮮人騒ぎの余波を蒙った話をする。折も折、会社員であれば、不断はハイカラ服であるところに、十年前着古した一高の小倉服を着て、芸術家風の長髪と来ているから、若い衆は髪の長いのは鮮人と極め込んでいる矢先に顕われた快漢、これこそ捕物と、途を遮って自転車を止める。比の場合手向いすれば反で身の害と、飛び降りたはよいが、少々の弁解では容易に承知せぬ。幸に鳶口達の中に、見覚えあるものが、是は治男さんだと言ったので、終に物笑いになったそうである。始めから鳶口を揮い廻されては危険であった。

是に懲りて治男は帰り途、斯る危難を繰返さぬ為に、村役場に行き証明書を貰い出懸けた。宮田附近に来ると、復前同様、証明聾を示しても中々に承知せぬ。音楽家か油画かきのような髪を眺めて、訝かしく思っている若い衆運に対し、かねて饒舌りで、散々爺を困らせた口吻を以って、長演舌を奮っても何の効能も表れぬ。やがて究問者の一人は、朝鮮人なら、こんなにぺらぺら日本語は喋べれないなと言い出したので、一呼吸ついているところに、知己の小学校長が通り懸って助太刀に出た。此証明書の通りだ。間違い無い、俺が保証すると言ったので、漸く血路を開いて自転車を駆ったそうである。庇の如き辛き目に逢った人は随分多数あるであろうが、鮮人ならざるものも亦迷惑千万である。

〔物理学者。当時五八歳、三浦半島の下浦に住む〕

(『思想』一九二四年一月号、岩波書店)


「不逞男女鮮人」の騒ぎ     比嘉春潮

(略)

町の在郷軍人などといった手合だけではなく、相当な知識層の人も同じような不安にとらわれていた。改造社では、地震直後の九月三日に目黒にあった山本社長の家で、今後の雑誌発行について会議をひらいた。その時、このいわゆる”不達鮮人”の騒ぎが大きな話題になり、山本社長はもちろん、秋田忠義というドイツ帰りの評論家で相当教養もあり、視野の広かっだ人さえも鮮人襲撃を信じこんでいた。そして、会議の最中に、神奈川との境の橋を、朝鮮人が二百人ほど隊をなしてくるという噂が入り、会も解散ということになった。私たちが、線路伝いに一時間がかりで新宿までたどりつくと、こんどはそこで、いま立ち去ったばかりの目黒では市街戦の最中だ、池袋でも暴動が起こっているなどと聞かされた。

[略。六日]町にはやはり自警団が出ていて、私のビールぴんを見ると、いきなり、ものもいわずに腕首を押えたりした。朝鮮人ではないか、石油を持ち歩いているのではないかと疑われたのである。私は冗談じゃないといって、水を飲んで見せなければならなかった。

その日の午後になってとうとう〔甥の〕春汀を捜しあてた。飯田橋署に、頭に包帯を巻き、血糊までこびりつかせて留置されていた。[略。彼は一日]夕刻になり、血迷った自警団にやられたのた。最初、向こうからドヤドヤとやってきて「朝鮮人だ」と叫んでいるので、とっさにものかげにかくれ、いったんはやり過ごした。ところが一番後にいた一人が、ひょいとぶり返り「ここにいた」というが早いか、こん棒でなぐりかかった。「ぼくは朝鮮人じゃない」と叫んだ時にはもう血だらけになっていたという。


想い出記     小森住三郎

昨日〔三日横浜公園で〕頃だったか隣人からの話に、〇〇人が暴動を起したから目立たん所へ赤い布を付けよ、と聞けばそれを付けねば危険が迫るかの様に僅か小指に足らぬ布の入手に苦労し、やっと付けて安心と思う間もなくもう感付かれたから青に換えよと無理難題、されど無ければ怖しく人の恵みに貴重品とも思う有難さ、追駈けて竹槍を作って持て、夜は団結して動かん様に、井戸には毒を撲ち込んだから飲まん様に、と何処から発せられる指令やら、ただ護身一途に不審熟考の余地もなく上のオフレと信じ込む哀れさ、大体未だ戒厳部隊の兵も見ず警察はおろか市も町も自警団さえ無い無法地帯に、指令所の有る訳もなく、流言蜚語とも気付かず、恐々としている[略]

〔五日〕園内の噂に兵に逢った時、山と言われるから間髪を入れず川と答えないと一刀の元だそうだ、と聞いてから後しばらくして元町裏山手の中腹だったかを歩いている時、突然抜剣を手に持下げた騎馬兵に出逢い、早く川と言わねばと焦る程口は動かず、恐る恐る見上げれば、何の屈託も無さ気に見下しもせず狭い道をすれすれに行過ぎられて「何アんだ」と言う気持。

またその頃、西南寄り噴水池前広場で七、八人の人の集りに何事かと行ってみれば、もう一寸早く来れば見えたのに、今あそこを行かれる処だと見通しの効く市役所方面を一人の人が指されたのでその方を見たが、もう人影はなく、そこには三〇才位かとも思われる大男が仰向けに倒れ、眉間から目をかすり頬へかけて斜がけに一刀深く割裂かれ、アケビの如く切り開かれた奥から小豆大の泡血が、尚口を広げるかの様に何千となく下から下からと湧き上り、押されて潰れた血汁はツルツルと首を伝って地面へその凄惨さ!

それを初めから見ていた人がして見せてくれた格好は、恰度劇の男が求愛の時の様に片膝付両手を前上に突出し身をそらせ

「何もしません、運転手です」

を何遍も繰り返す処を只一刀、ブツ倒れるのを見済まして悠然と立去られたとか、嗚呼異国人の惨めさ戒厳令下の怖ろしさ、強国の民の有難さ[略]

[当時横浜で奉公、震災時は横浜公園に避難]

(小森住三郎『関東大震災五十周年記念 想い出記 - 大正時代相』想い出を記録する会、一九七四年)


つづく


2023年10月23日月曜日

鎌倉散歩 江ノ電鎌倉高校前駅 江ノ電極楽寺駅 極楽寺のハギとサザンカ 成就院のハギ(白と紅紫)と秋海棠 2023-10-23

 10月23日(月)はれ

▼江ノ電鎌倉高校前駅

時々見たくなる景色

例によってスラダン踏切は若い人がイッパイ



▼江ノ電極楽寺駅

▼極楽寺のハギ

▼極楽寺のサザンカ
もうサザンカが!

▼成就院の白ハギと遠くに由比ヶ浜

▼成就院の秋海棠
まだ咲いていたのがラッキー!

▼成就院のハギ(白と紅紫)

〈100年前の世界102〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;港区、府中、場所不明〉 「〔3日〕東京にいっても、大久保第一六連隊の騎兵は、鮮人を馬で追いながら追い撃ちですよ。それはみんな田の中にたおれてしまって流しっきりだから、証拠不十分ですけどね。こっち〔法典村自警団裁判〕は切って殺してそのまま置いたですから、そういうひっかかりはあったですね。」    


「朝鮮人145人虐殺」神奈川県が国に報告か 

政府の「記録なし」説明覆す 関東大震災2カ月後に作成の文書

〈100年前の世界101〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;中央区、千代田区、豊島区、文京区〉 「竹槍を持ったひとりが大声で叫んで、後ろから朝鮮人の尻をげった。朝鮮人が前にのめった。いっしょに巡査までがよろけだが、すぐに振り返って手を上げた。「よせ。よせ」といったらしい。するとどうだろう。「巡査のくせに鮮人の味方をするのか。この野郎」という声がして、たちまちバットが巡査の顔に打ちおろされた。手を顔にあてて巡査が倒れた。」 より続く

大正12(1923)年

9月3日

〈1100の証言;港区/赤坂・青山・六本木・霞町〉

馬屋政一〔印刷史研究者〕

〔赤坂溜池の自宅で〕三日になってから、不逞の徒が市中を徘徊している、という噂がパッと伝わった。所謂一犬虚に吠えて、万犬その実を伝えて、噂は噂を産み、いずれも戦々兢々の態である。どこでは不逞団の包囲を受け何十人鏖殺(おうさつ)されたとか、或は爆弾を以て放火し回る徒があるとか、なかなかの騒ぎである。男子は夜毎に日本刀や、短銃又は竹槍を携えて戸毎を警戒するという有様である。

 ー ちょうど三日の午後一一時頃であった。親友の安危に就いて是非見舞いたいと思い、暗を衝いて六本木の方に出た。警察のつい側まで来ると、大変な人だかりである。やッつけろ、殺してしまえと罵っている。見ると一人の巡査が手を振り振り多くの人々を制止している。すると群衆の中の一人が懐中電灯を取り出して包囲されている者の顔を照らした。こやつこそ本物の不逞漢だ、やッつけろと叫んだ。巡査は必死に制している。

グサッと音がしたかと思うとたちまち不逞漢と称される者の臍の上と思う所に、竹槍の穂先が現われた。ばツたり倒れると群衆は散ってしまった。誰かが背後から突き刺したものと見える。思うに、こんなことが到るところに演じられたらしい。これ以来夜の歩行は危険千万と考え、一歩も出なかった。

(島屋政一『高台に登りて』大阪出版社、1923年)


〈1100の証言;港区/高輪・泉岳寺〉

伴敏子〔画家。当時15歳。北品川で被災〕

〔3日〕泉岳寺近くで朝鮮の人が一人殺されて筵を掛けられていた。〔略〕数珠繋ぎの朝鮮の人達がどこに連れてゆかれるのか巡査に引っ張られてゆく。

(『断屑 - 自立への脱皮を繰り返した画家の自伝』かど創房、1988年)


伏見康治〔物理学者、政治家。当時14歳。高輪二本榎で被災〕

9月3日か4日だったか、そろそろ暮れるという時刻に、「朝鮮人が攻めてくる」という噂が、本当に物理的な風でもあるかのような勢いで通過していった。ついで、自衛団のよびかけがあって、二本榎の連中は伊皿子の近くの高松宮の庭園に逃げ込めという布令が伝わってきた。父は、なげしに置いてあった先祖伝来の槍や刀をおろして、塵を払って武装したりした。僕は姉妹と母を連れて自転車を押しながら高松宮家へ逃げこんだ。

「足が地につかない」という言葉があるが、母はこの時本当に足が地につかない様子であった。そのうちに「12歳以上の者は防衛隊を組織しろ」という声がかかってきて、姉が、貴方はまだ12になっていないのだから出なくてもいいのよ、などと引きとめる。僕は悲痛な顔をして防衛隊に加わろうとしだ丁度その時に、朝鮮人暴動はデマだという声が伝わってきて一件落着。しかしそれは高輪近辺だけの話で、品川あたりでは流血の事件があったという。

(伏見康治『生い立ちの記』伏見康治先生の白寿を祝う会、2007年)


〈1100の証言;府中〉

石川泰三〔青梅で被災、2日、肉親・知人を探しに東京市内へ。3日、青梅をめざす〕

〔3日〕府中付近であったろう、鮮人らしいのが、頭を包帯で巻き立ててはいるが、鮮血がにじみ出て、尻からも生血が滴るのである。それを巡査が護衛して行く。凄惨の気、人を襲うかのようであった。(1923年記)

(「大正大震災血涙記」石川いさむ編『先人遺稿』松琴草舎、1983年)


〈1100の証言;場所不明〉

大谷なみ〔当時東京市立京橋高等小学校1年生〕

3日のばんは親子そろって舟にのった。しばらくすると朝鮮人さわざ。朝鮮人が300人もくるという。私はああこわい、火事でのがれて又朝鮮人でぼく発玉をほうりこまれるのかと思うと、じゆみょうがちぢんでしまう。せんどさん私の父さんはほうちょうをもって舟のまはりでねずにぽんをしていただけど、2、3人ころしたといった

(「震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)


高橋定五郎〔当時法典村(現・船橋市)警防団長〕

〔3日〕東京にいっても、大久保第一六連隊の騎兵は、鮮人を馬で追いながら追い撃ちですよ。それはみんな田の中にたおれてしまって流しっきりだから、証拠不十分ですけどね。こっち〔法典村自警団裁判〕は切って殺してそのまま置いたですから、そういうひっかかりはあったですね。

(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者迫悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと - 関東大震災と朝鮮人』青木書店、1983年)


柳瀬正夢〔画家〕

私の頭を3日目の昼間、市内で目撃した情景が走った。〔略〕 Xに塗れて引づられて行くXX。お濠の土手の背の低い樹木の中に、戦(おのの)きちぢかんでいるXXを、四方から×Xが囲んでXXでXXXいている。橋下から数珠繋ぎに引出されてくる半死のXX達の間には女さえ混っている。針金で後手に結えられた菜っ葉服の××の十数個の××體の真中におったっている焼残りの交番。焼跡の街の街角に放り出された××人の死体。四谷見附、本所相生橋付近、車坂下その他。

上野広小路の十字路、松坂屋の前の今雑貨店のある所には、ズボンと片足の靴だけを残した裸体の労働者が、×××XX出されて放り出されていた。×Xで×かれたと覚しき、幾箇所からも皮を破いて流れた脱腸、流出した血は黒く乾上がって焼土にこびりつき、頭髪は所々剥ぎ取られている。焼跡の掘り返しに往来する人の列が、その大きな死体を土足と鉄棒にかけて×み×って行く。側にはこんな立札がたててあった。「いやしくも日本人たるものは必ずこの憎むべきXXXに一撃を加えて下さい」

(「狂犬に噛まれる」『戦旗』1928年10月号、戦旗社)


つづく

2023年10月22日日曜日

鎌倉 広町緑地を散歩 2023-10-18

10月18日(水)はれ ← 時差投稿

この日、前の会社の同期のNさんと鎌倉の広町緑地を散歩した。

前日までアサギマダラ出現情報があったので、密かに期待していたがダメだった。この日以降の出現情報がないところを見ると、前日の17日を最後に長い旅に出たのだろうか。アサギマダラは広町緑地ではフジバカマがないので、ミゾソバの蜜を目当てに来るそうだ。

3年前、イヌショウマにとまっているアサギマダラを見たことがある。

鎌倉広町緑地でイヌショウマの花の蜜を吸う「旅するチョウ」アサギマダラに遭遇した 2021-09-29





▼散歩の後は大船でサクッと昼呑み

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