2023年10月22日日曜日

〈100年前の世界101〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;中央区、千代田区、豊島区、文京区〉 「竹槍を持ったひとりが大声で叫んで、後ろから朝鮮人の尻をげった。朝鮮人が前にのめった。いっしょに巡査までがよろけだが、すぐに振り返って手を上げた。「よせ。よせ」といったらしい。するとどうだろう。「巡査のくせに鮮人の味方をするのか。この野郎」という声がして、たちまちバットが巡査の顔に打ちおろされた。手を顔にあてて巡査が倒れた。」    

 

関東大震災100年 流言による惨事は「過去のこと」か?(NHK)

〈100年前の世界100〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;台東区/浅草周辺、下谷・金杉、上野周辺、橋場・山谷〉 「(下谷坂本警察署) 9月3日鮮人が放火略奪或は毒薬を撒布せり等の流言行われ、同日夕には既に自警団体の各所に設置せられて、警戒に就けるもの少なからず。しかれども蜚語に過ぎざることはこの時略明かとなりたれば、本署は町会その他の幹部を招致して、これを懇諭すると共に、戒凶器拐帯禁止の旨を伝えたるに、これに平かならざるもの多かりし。」(『大正大震火災誌』警視庁) より続く

大正12(1923)年

9月3日

〈1100の証言;中央区〉

京橋月島警察署

流言蜚語の始めて管内に伝われるは9月3日午前10時30分頃にして、「鮮人等爆弾を携帯して放火・破壊・殺害・掠奪等を行い、又毒薬を井戸に投ずるものあり」「軍隊約30名、鮮人逮捕の為に武装して管内に来れり」等と称し、更にその携えたる爆弾を収拾せりとて当署に持参せるものあり。即ち警戒を厳にすると共に、これを警視庁に報告せんとするも便船を得ず、隅田川を泳ぎて漸くその目的を達せしが、この時民衆の提供せる爆弾と称するものをも送りて鑑定を求めしに、幵は唐辛子の粉末なりき。

ついで午後1時50分頃歩兵第一連隊より特派せられたる小澤見習士官の一隊鮮人検索の為に来るあり、住民は兢々としてその堵に安んせず、遂に鮮人迫害の惨事を生ずるに至る、これに於て当署は鮮人の検束を行い、これを警視庁に護送せり。

しかるに同5日午前9時に至りて「外国駆逐艦隊東京湾に入港せり」「不審なる多数帆船一・二号地の沿岸に繋留せるあり」「外人1名発動機艇に乗じて二号地沿岸に来りしがその行動怪しむべし」など云える流言また行われし。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


〈1100の証言;千代田区/飯田橋・靖国神社〉

大佐木勝〔編集者〕

〔九段坂付近で〕私の小学生時代の同級生だった男で、後に米屋の若主人になっていた某が、自警団の仲間といっしょに捕えた朝鮮人を惨虐きわまる方法で殺害した事実を知ったのは、警察の手でその男が仲間の自警団員とともに検挙されたことが新聞記事になったからであった。彼は親の代から同じ土地に住みついていて、信用のある商人であったと同時にきわめて平凡な市民であった。彼が仲間とともに捕えた朝鮮人を荷車に縛りつけ、こん棒を振るってなぐり殺したという新聞記事を見ても、私はなおあり得ないことだと疑った。(昭和初期に執筆と推定)

(「関東大震災体験記」『中央公論』1998年10月号、中央公論社)


妹尾義郎〔仏教運動家〕

〔3日〕九段坂上の避難地で避難鮮人4名が、内地人にとりかこまれて、おどおどしていた。あんまり憐然に思えたから、色々慰めて、小使に十円分ったら、声をかぎりに泣き出した。自分も、おのずから、彼等の悲境に同情されて袖をしぼった、みんなも涙した、人情に国境も民族もない、仏様は一切法空とお仰った。(当時の日記)

(妹尾義郎著・妹尾鉄太郎・稲垣真美編『妹尾義郎日記・第2巻』国書刊行会、1974年)


〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉

染川藍泉〔当時十五銀行本店庶務課長〕

〔3日、十五銀行丸の内支店で〕鮮人問題と、不穏な団体が焼残った所を襲うというような噂とはいよいよ盛んに伝わった。初の程はこの機会にありそうな事だと思って、疲れ切った頭にてっきりそうと思い込んだのであった。〔略〕どこでは鮮人が井戸に毒薬を投ぜんとした所を見つけられて叩き殺された、ここでは鮮人の潜伏してある所を見つけて叩き切った、などという話は頻々として伝わって来た。それは相当知識階級の人が信じて話しておった。甚だしいのになると、鮮人は9月2日を期して事を挙るの計画があった。それが9月1日たまたま地震が起こったので、東西相呼応して立ったのだそうな、などと見て来たようなことを言う人さえあった。或は又道路の石塀や門柱などに白墨で印がつけてある。井桁を記したのは井戸に毒物を入れよという印で、丸いのは爆弾を投ぜよという印だなどとも言い伝えられた。(1924年記)

(染川藍泉『震災日誌』日本評論社、1981年)

〈1100の証言;千代田区/神田・秋葉原〉

麹町聾察署

9月3日、管内自衛警戒中の一青年は、不逞鮮人と誤認して連行の同胞を殺害せして、犯人は直にこれを逮捕せり。この後自警団に対する取締は、特に厳重を加え、かつ流言蜚語の信ずるに足らざる所以を力説して、その誤解を一掃せん事を期せしも、民衆は容易に耳を傾けず、依然戎・兇器を携えて横行せる。〔略〕時に、鮮人の、管内所在の朝鮮督学部に避難せる者百余名に達せしが、これが警戒保護の為、特に当署より制私服員数名を派遣したり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;豊島区〉

風見章〔政治家。当時『信濃毎日新聞』主筆〕

〔3日夜、西巣鴨梨本徳之助宅で〕一同無事ではあったが、もはや外へ出るわけにも行かないのでそこに一泊した。朝鮮人が井戸に毒を投げこんであるいているらしい、そしてそれを投げ込もうとする井戸の近所には、白墨で符牒を響いて置くそうだとの流言がさかんに行われていることを梨本宅で聞いた。

〔略〕その頃社会主義者として名を知られていた石黒某?なるものが9月未に私をたずねての話に、彼は巣鴨警察署かに拘留されだが、そこに拘置された人達の面前で1日に1、2度ずつ地響きたてて警官から投げ倒され、見せしめだといって苦しめられたそうだ。また彼の家庭では自警団の連中が来て、妻子を国賊の片われだと公然罵言讒謗し、その上竹槍で縁の下まで突き回し、生きている心地もなきほどの目にああされたそうである。

(河北賢三・望月雅士・鬼嶋敦編『風見章日記・関係資料』みすず書房、2008年)


〈1100の証言;文京区/本郷・駒込〉

江口渙〔作家〕

〔3日〕本郷3丁目まできたときだった。竹鉛を持った15、6人の一団が菊坂の方から出てきて燕楽軒の角をまがった。まっ先には、はんてんに半ズボン地下足袋の男が巡査に腕をとられて歩いてくる。頭にまいた白い布には大きく血がにじみ、それが赤黒く顔半面を流れている。顔つきは疑いもなく朝鮮人だ。「やられたな」と、私はすぐ感じて後の竹槍を見た。

〔略〕大きな漬物屋の前だった。竹槍を持ったひとりが大声で叫んで、後ろから朝鮮人の尻をげった。朝鮮人が前にのめった。いっしょに巡査までがよろけだが、すぐに振り返って手を上げた。「よせ。よせ」といったらしい。するとどうだろう。「巡査のくせに鮮人の味方をするのか。この野郎」という声がして、たちまちバットが巡査の顔に打ちおろされた。手を顔にあてて巡査が倒れた。と、いっしょに朝鮮人が膝をついた。あとはもうムチヤクチャだった。みんなで朝鮮人をとりかこんで打つ、ける、なぐる、竹槍でつく。だが相手は声も立てず、逃げもせず、抵抗もしない。ただ頭を抱えてうずくまって、されるままにまかせていた。

そのうちに、手からも足からもカがぐったりぬけていくのが見えた。私はもうそれ以上見てはいられなかったので、逃げるように春日町のほうへ急いだ。

(「関東大震災回想記」『群像』1954年9月→琴秉洞『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応2』緑蔭書房、1996年)

志賀義雄〔政治家。池袋で被災〕

〔3日〕本郷に引き返して黒田のために、青木堂で食糧品を求めているとき、店員は青竹の杖がばらばらにさけるほど朝鮮人をなぐった、といって得々と語っていた。私は平生善良そうなその店員がそんなにも乱暴なことをしたのに驚き、彼にたいして朝鮮人は決して火をつけたり井戸に毒をなげこむことはしないと説いたが、彼は頑として聞かなかった。

(ドキュメント志賀義雄編集委員会編『ドキュメント志賀義雄』五月書房、1988年)


都築輝碓〔本郷の一高の寮で被災〕

〔3日〕私等はこの間避難民の救助に努むると共に、〇〇〇〇襲来の警報に接し、残寮生数十名のものは徹宵、寮の警護に努力した。可憐な鮮人5名を救い出したのもこの時だった。

(「銃剣で警戒」第一高等学校国語漢文科縞『大震の日』六合館、1924年)


中谷宇吉郎〔物理学若。当時上野在住〕

流言蜚語の培養層を、無智な百姓女や労働者のような人々の間だけに求めるのは、大変な間違いである。関東大綴災の時にも、今度と同じような経験をしたことがある。あの時にも不逞鮮人事件という不幸な流言があった。上野で焼け出された私たちの一家は、本郷の友人の家へ逃げた。大火が漸くおさまっても流言は絶えない。3日目かの朝、駒込の肴町の坂上へ出て見ると、道路は不安気な顔付をした人で一杯である。その間を警視庁の騎馬巡査が一人、人々を左右に散らしながら、遠くの坂下から駈け上って来た。そして坂上でちょっと馬を止めて「唯今六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕を挟んで彼我交戦中であるが、何時あの線が破れるかもしれないから、皆さんその準備を願います」と大声で怒鳴ってまた駈けて行った。もう20年以上も前のことであるが、あの時の状景は今でもありありと思い浮うかべることが出来る。勿論全く根も葉もない流言であった。

そんな馬鹿なはずはないと思われることは、どんな確からしい筋からの話でも、流言蜚語と思って先ず間違いはない。そういう場合に「そんな馬鹿なことがあるものか」と言い切る人がないことが、一番情ないことなのである。

(「流言蜚語」『読売報知』1945年→『中谷宇吉郎随筆集』岩波文庫、1988年)


吉野作造〔政治学者。本郷神明町で被災〕

9月3日火曜 3日、この日より朝鮮人に対する迫害始まる。不逞鮮人のこの機に乗じて放火、投毒等を試むるものあり大いに警戒を要すとなり。予の信ずる所に依れば宣伝のもとは警察官憲らし。無辜の鮮人の難に斃るる者少らずという。日本人にして鮮人と誤られて死傷せるもありと云う。昼前学校に行くとき上富士前にて巡査数十名の左往右返この辺に鮮人紛れ込めりとて狼狽し切っているを見る。やがてさる一壮夫を捉うるや昂奮し切れる民衆は手に手に棒などを持って殺してしまえと怒鳴る。苦々しき事限りなし。

(『吉野作造選集14・日記2』岩波書店、1996年)


つづく

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