2023年10月25日水曜日

〈100年前の世界104〉大正12(1923)年9月3日 【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言  「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア。」

 


〈100年前の世界103〉大正12(1923)年9月3日 〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉より 「九月三日[略]狸坂附近で、労働者体の奴等が五、六人で朝鮮人を井戸に投げこみ上から埋めてしまった。東坂では刀で鮮人の首をはねて川に投げこんでいるのも見た。この恐ろしい殺人罪を見て止める人もなければ、文句をいう人もない。世は全く無政府状態に化した。」 より続く

大正12(1923)年

9月3日

【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言

(1)中村川、堀割川にそって

⑥西河春海(東京朝日記者)「天下晴れての人殺し」

〔9月3日中村町の方へ同僚の安否を訪ねた帰り豪雨にあい、千歳橋停留所付近に焼け残っている電車の中での労働者風の人たち4、5人の会話〕

「旦那 朝鮮人は何うですい。俺ァ今日までに六人やりました。」

「そいつは凄いな。」

「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア。」

雨はますます非道くなって来た。焼跡からはまだ所々煙が昇ってゐる。着物も傘もない人々は、焼跡から亜鉛の焼板を拾って頭に翳して、雨を防ぎながら、走り廻っている。

凄い髭の労働者は話し続ける。

「この中村町なんかは、一番鮮人騒ぎが非道かった。一人の鮮人を掴へて白状させたら、その野郎、地震の日から十何人って強姦したそうだ。その中でも地震の夜、亭主の居ねえうちで、女を強姦してうちへ火をつけて、赤ん坊をその中へ投げ込だといふ話だ。そんなのはすぐ擲り殺してやったが・・・。」と言ふ

「電信柱へ、針金でしばりつけて、・・・焼けちゃって縄なんか無えんだからネ・・・。そして擲る、蹴る、鳶で頭へ穴をあける、竹槍で突く、滅茶滅茶でサア。しかしあいつ等、眼からポロポロ涙を流して、助けてくれって拝がむが、決して悲鳴をあげないのが不思議だ」 といふ。底にたぎる情熱を持って、決して死をも恐れず黙々として寧ろ死に向ふといふ朝鮮の民族性が考へさせられる。

「けさもやりましたよ。その川っぷちに埃箱があるでせう。その中に野郎一晩隠れていたらしい。腹は減るし、蚊に喰はれるし、箱の中じゃあ動きも取れねえんだから、奴さん堪らなくなって、今朝のこのこと這い出した。それを見つけたから、みんなで掴まえようとしたんだ。」

昔、或る国に死刑よりも恐ろしい刑罰があった。それは罰人を身動きの出来ないやうな、三尺四方の位の箱の中に入れて、死ぬまで動かさずに生かして置くといふのた。俺はそれを思い出し乍ら聞いてゐた。

「奴、川へ飛込んで向こふ河岸へ泳いで遁れようとした。旦那石って奴は中々あたらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが一つも当たらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、-つも当たらねえ。でとうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎ぢやねえか。10分位も水の中にもぐってゐた。しばらくすう〔る〕と、息がつまったと見えて、舟の直そばへ頭を出した。そこを舟にゐた一人の野郎が鳶でグサリと頭を引掛けて、ヅルヅル舟へ引寄せてしまった。・・・まるで材木といぶ形だアネ。」といふ。

「舟のそばへ来れば、もう滅茶滅茶だ。鳶口一でも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍で突くんだから・・・」

ああ、俺にはこの労働者を非難できない。何百といふ私刑が行はれたであろう。しかし総てが善悪の意識を超越して行ほれてゐる。避難すべきでもなく、さるべきでもない。暗然たる淋しさのみが心を領していく。

(「横浜市震災誌」)

■藤野裕子『民衆暴力』での指摘

「朝鮮人を虐殺した民衆の側(の論理として)・・・・・

・・・これまでの研究では、植民地に対する蔑祝と、三・一運動をきっかけに「不逞鮮人」という語がメディアをとおして広まり、朝鮮人を「テロリスト」と見なす偏見や嫌悪感が生じたことを重視している。それに加え、日本民衆が震災時の朝鮮人虐殺を「天下晴れての人殺し」と捉えていたことに注目している(山田『関東大震災時の朝鮮人虐殺』)

(中略)

「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺し」。お咎めを受けずにおおっぴらにやれる公認された人殺し、それも「身が護れないから」という正当防衛だからこそと認識していることがうかがえる。・・・・・

それに加え、「豪気なものでサァ」という表現からは、警察が役に立たない時に、自分が「活躍」していることへの誇らしさや、本来刑事罰を受ける殺人行為ができることへの解放感すらうかがえる。こうした認識や感情は、軍や警察が民衆の暴力行使にお墨付きを与えたことが前提となっているが、殺害行為に対する民衆自身の能動的な姿勢も読み取れる。

労働市場での競合

そのほかの要素として、日本人の労働者層には、朝鮮人に仕事を奪われているという感覚があったことも指摘されている (山田『関東大震災時の朝鮮人虐殺』)。」

(藤野裕子『民衆暴力』)


(2) 中村町、石川町、山手町、根岸町付近

⑧石川小高等科二年女子

「手から足からかたくしばられていて、電信にゆわえつけられていた」

人々はきゅうに朝鮮人がくるといふので、男の人たちはたけやりをこしらえたり、鉄のぼうを持ったりしてねずの番をした。私もおちおちな〔ね〕られないので、ちょいちょい目をさましたりして、一夜を明かした。朝起きると朝鮮人がつかまっていたので、わいわいいっている。私はこはごは見に行った。其の人は手から足からかたくしばられて、電信にいはい〔ゆわえ〕つけられていた。其のまありには、たけやりをもった人たちがかたまっている。其の中の一人が、なかまは幾人だと聞いたらただ首をたれて何もいはないので、ぶてぶてというのがどこからでも聞こえた。私はあまりのこはさに帰って来て話をしたら、かはいそうだけれども、しかたがないといふひともあれは、もっとやればいいのにといふ人ばかりである。その夜はすんで、四日の朝になった。〔・・・〕よなかごろ、わあわあというのかした。おもはず、目をさまして起きて見ると、バンザイバンザイとする声であった。私はこのさはぎにどうしてバンザイしているのだと母に聞いたら、兵隊が来たからバンザイバンザイといっているのだといった。私はその時、うれしくてなんといっていいかわからなかった。〔・・・〕もう兵隊が来てから、朝鮮人をすくなくなり、人もやすらかになって来た。


㉗石川小高等科二年女子

「朝鮮人と見たら殺してもよい」

〔家の裏の山、二日〕今晩は、と ぬきみを下げた男の人が来て、朝鮮人が襲来してきたから朝鮮人と見たら殺してもよい、外出するには一切武器を持って行きなさいと、ほうぼうで言って歩く。怖い思いをして、又怖い目にあわなければ良いがと思って身震いをした。〔三日の朝〕六時頃、向ふ山で女の人が、皆さん、早く来てくださいよう、朝鮮人が此っちへ逃げて来て此の西洋館に入って居から、早く、早くと手まねぎをした。銃の音であろう、ヅドン、ヅドンとなった。半潰の西洋館に皆んなはどんどん入って居って、朝鮮人を表へつき出して、棒でやる者や丸太でぶって居る。すると其の朝鮮人は頭をおさへて、あいたいよ、あいたいよ、御免よ、御免よと逃げまおって居る。其の鮮人は、すぐに警察につれて行かれたのであろう、又もや三日の晩は来た。


(6)寿尋常小学校の作文集(「大震災遭難記」)

四年男子1 

そのあくる朝〔三日〕おきてみると、みなさんがたが、みなぼうをもっていました。なんでぼうをもっているのかとききますと、朝鮮人がみなをこまらすからこのぼうでつついてやるんだといいましたのでした。ではわたくしに一本おくんなさいといってもらいました。それで兄さんといっしょにでかけました。するとみなさんがたが、朝鮮人をつついていましたからわたしも一ペんつついてやりましたら、きゅうとしんでしまいました。またそのひとのあとをついていくと、またちょうせんじんがぴすとるをもってうとうとしましたからにげてきてしまいました。


四年男子2 

三日朝見れば朝鮮人がたくさん川の中にいて死んでいました。


(7)磯子尋常小学校の作文集(「震災に関する児童の感想」)

高等科一年男子2 

三日になると朝鮮人騒となって皆竹やりを待たり刀を盾たりしてあるき回ってた。其をして朝鮮人を見るとすぐ殺しので大騒になった。其れで朝鮮人が殺されて川へ流れてくる様を見るときびの悪いほどである。また食料を見つけにいったりして 其れたべていたのである。朝鮮人騒は約二週間の間であった。また正金銀行の前へには大勢の人が死んで山の如であった。其れから地震も時々行たけれども皆小いのであった。


(11)南吉田第二尋常小学校の作文集(「震災記念綴方帖」)

六年男子20 

こ屋のとこにはいって いろいろのはなしをしているとちよせんがあばれてくるからきよつけてくたないといつたかへたけをつくてないやりみたいのをつくてよちんをもているとくろくろとしてきたかと・・・〔三日目〕僕のうちのしっている人がしょうぎょう学校にいるからこいといったからいきました。そして、ゆく道にはあちこちにはちよせんしんが川にやら道にやらころかていました


つづく

0 件のコメント: