2023年10月24日火曜日

〈100年前の世界103〉大正12(1923)年9月3日 〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉より 「九月三日[略]狸坂附近で、労働者体の奴等が五、六人で朝鮮人を井戸に投げこみ上から埋めてしまった。東坂では刀で鮮人の首をはねて川に投げこんでいるのも見た。この恐ろしい殺人罪を見て止める人もなければ、文句をいう人もない。世は全く無政府状態に化した。」    

 

朝鮮人虐殺「事実をなかったことにする発言許さない」市民団体が集会

〈100年前の世界102〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;港区、府中、場所不明〉 「〔3日〕東京にいっても、大久保第一六連隊の騎兵は、鮮人を馬で追いながら追い撃ちですよ。それはみんな田の中にたおれてしまって流しっきりだから、証拠不十分ですけどね。こっち〔法典村自警団裁判〕は切って殺してそのまま置いたですから、そういうひっかかりはあったですね。」 より続く

大正12(1923)年

9月3日

〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉

震災日記     小林啓三

九月二日[略]その夜に入って、朝鮮人さわぎが始まった。

九月三日[略]狸坂附近で、労働者体の奴等が五、六人で朝鮮人を井戸に投げこみ上から埋めてしまった。東坂では刀で鮮人の首をはねて川に投げこんでいるのも見た。この恐ろしい殺人罪を見て止める人もなければ、文句をいう人もない。世は全く無政府状態に化した。

九月四日[略]鮮人さわぎは益々大きくなって行く。白昼白刃を振っている人。竹槍を持っている人。銃をかついでいる人。鋸を持っている者。まるで戦国時代そのままである。人々と共に裏山へ柿をとりに行く。なにしろ先頭に白刃を持った人が行くのだから、山主などはぐうの音も出ない。一時間もかかって柿を十ばかり取ってやっと副食物にありついた。夜に入って各自警団が敵味方を区別する為、山川の相言葉をつくる。まるで赤穂の義士の打入そのままである。

九月五日[略]五里の道を自警団の人々に護られて九時頃原町田に着く。村へ入るとすぐ巡査がきて、身元調査をする。当地でも例の鮮人きわざで大へんである。夜を徹して銃の音がかすかにきこえる。

(神奈川県立工業学校内 高橋暢編『震災記念号」神奈川県立工業学校、1924年)


荒都記 - 赤い地図第二章     竹久夢二

三日の夜あたりから本当に自然の暴威と天災の怖しきをやっと感じ出したように思う。誰が宣伝したのか、宣伝の目的が何であったか私は知らないが、また実際そんな事実があったことも、私は見ないから知らなかったが、三日の夜の如きは、私もやはり空地へ出て、まだテント生活をしている人と同じ心持で、何か知らない敵を仮想していた。川崎の方からXXXXXXXXXXXX、XXXXXXXXXXXXXXXXXX。XXXXX×XXXXX、新宿のタンクへ向っているというのだ。二三町先の駅の近くでは、群集のただならぬ騒ぎや叫び声が、はっきり聞える。軍隊の自動車が幾台か坂の上の方からまっしぐらに走って下りる地響きがする。其中にピストルの音がした。それにつれて悲鳴があがる。

「おい、灯を消せ」誰かが言った。テントの中でも、立っている人も提燈の灯を消した。息をこらして、本能的にみな地の上に伏した。後できくと大地に穴を掘って、妻子を埋めた人もあったそうだ。

私は何の武器も持っていないから、敵を殺す気もなかった。だから殺されもすまいときめて、垣根の所へ腰かけて、遠くの叫喚を聞いていた。それは、幾百人の群集が入り乱れて戦っているかと思われるのだった。

だが何事もなくその夜は過ぎた。

流言蜚語の第一報が人から人へ伝わった時間が、西は、浜松あたりから、東は川崎、目黒、駒込、千葉あたりまで、殆んど同時間であったことも、その地方から来た人にきいて、いまでも不思議に思っている。それは人間の本能的な第六感とでも言ったら好いだろうか。

〔画家・詩人。当時三八歳、渋谷区宇田川に住む〕

(『女性改造』一九二三年一〇月号、改造社)


大震雑感     長岡半太郎

(略)

三日の朝になれば村の若い衆は、火事装束で鳶口を持ち、いかめしく道路を固めた、道に材木青竹数本を横たえ、鮮人ござんなれという風勢を示していた。幾人捕われたか不明である。爰(ここ)に四日の正午頃、長男治男は鎌倉から自転車で訪ねて来た。途中ひどい目に逢ったと言いながら、鮮人騒ぎの余波を蒙った話をする。折も折、会社員であれば、不断はハイカラ服であるところに、十年前着古した一高の小倉服を着て、芸術家風の長髪と来ているから、若い衆は髪の長いのは鮮人と極め込んでいる矢先に顕われた快漢、これこそ捕物と、途を遮って自転車を止める。比の場合手向いすれば反で身の害と、飛び降りたはよいが、少々の弁解では容易に承知せぬ。幸に鳶口達の中に、見覚えあるものが、是は治男さんだと言ったので、終に物笑いになったそうである。始めから鳶口を揮い廻されては危険であった。

是に懲りて治男は帰り途、斯る危難を繰返さぬ為に、村役場に行き証明書を貰い出懸けた。宮田附近に来ると、復前同様、証明聾を示しても中々に承知せぬ。音楽家か油画かきのような髪を眺めて、訝かしく思っている若い衆運に対し、かねて饒舌りで、散々爺を困らせた口吻を以って、長演舌を奮っても何の効能も表れぬ。やがて究問者の一人は、朝鮮人なら、こんなにぺらぺら日本語は喋べれないなと言い出したので、一呼吸ついているところに、知己の小学校長が通り懸って助太刀に出た。此証明書の通りだ。間違い無い、俺が保証すると言ったので、漸く血路を開いて自転車を駆ったそうである。庇の如き辛き目に逢った人は随分多数あるであろうが、鮮人ならざるものも亦迷惑千万である。

〔物理学者。当時五八歳、三浦半島の下浦に住む〕

(『思想』一九二四年一月号、岩波書店)


「不逞男女鮮人」の騒ぎ     比嘉春潮

(略)

町の在郷軍人などといった手合だけではなく、相当な知識層の人も同じような不安にとらわれていた。改造社では、地震直後の九月三日に目黒にあった山本社長の家で、今後の雑誌発行について会議をひらいた。その時、このいわゆる”不達鮮人”の騒ぎが大きな話題になり、山本社長はもちろん、秋田忠義というドイツ帰りの評論家で相当教養もあり、視野の広かっだ人さえも鮮人襲撃を信じこんでいた。そして、会議の最中に、神奈川との境の橋を、朝鮮人が二百人ほど隊をなしてくるという噂が入り、会も解散ということになった。私たちが、線路伝いに一時間がかりで新宿までたどりつくと、こんどはそこで、いま立ち去ったばかりの目黒では市街戦の最中だ、池袋でも暴動が起こっているなどと聞かされた。

[略。六日]町にはやはり自警団が出ていて、私のビールぴんを見ると、いきなり、ものもいわずに腕首を押えたりした。朝鮮人ではないか、石油を持ち歩いているのではないかと疑われたのである。私は冗談じゃないといって、水を飲んで見せなければならなかった。

その日の午後になってとうとう〔甥の〕春汀を捜しあてた。飯田橋署に、頭に包帯を巻き、血糊までこびりつかせて留置されていた。[略。彼は一日]夕刻になり、血迷った自警団にやられたのた。最初、向こうからドヤドヤとやってきて「朝鮮人だ」と叫んでいるので、とっさにものかげにかくれ、いったんはやり過ごした。ところが一番後にいた一人が、ひょいとぶり返り「ここにいた」というが早いか、こん棒でなぐりかかった。「ぼくは朝鮮人じゃない」と叫んだ時にはもう血だらけになっていたという。


想い出記     小森住三郎

昨日〔三日横浜公園で〕頃だったか隣人からの話に、〇〇人が暴動を起したから目立たん所へ赤い布を付けよ、と聞けばそれを付けねば危険が迫るかの様に僅か小指に足らぬ布の入手に苦労し、やっと付けて安心と思う間もなくもう感付かれたから青に換えよと無理難題、されど無ければ怖しく人の恵みに貴重品とも思う有難さ、追駈けて竹槍を作って持て、夜は団結して動かん様に、井戸には毒を撲ち込んだから飲まん様に、と何処から発せられる指令やら、ただ護身一途に不審熟考の余地もなく上のオフレと信じ込む哀れさ、大体未だ戒厳部隊の兵も見ず警察はおろか市も町も自警団さえ無い無法地帯に、指令所の有る訳もなく、流言蜚語とも気付かず、恐々としている[略]

〔五日〕園内の噂に兵に逢った時、山と言われるから間髪を入れず川と答えないと一刀の元だそうだ、と聞いてから後しばらくして元町裏山手の中腹だったかを歩いている時、突然抜剣を手に持下げた騎馬兵に出逢い、早く川と言わねばと焦る程口は動かず、恐る恐る見上げれば、何の屈託も無さ気に見下しもせず狭い道をすれすれに行過ぎられて「何アんだ」と言う気持。

またその頃、西南寄り噴水池前広場で七、八人の人の集りに何事かと行ってみれば、もう一寸早く来れば見えたのに、今あそこを行かれる処だと見通しの効く市役所方面を一人の人が指されたのでその方を見たが、もう人影はなく、そこには三〇才位かとも思われる大男が仰向けに倒れ、眉間から目をかすり頬へかけて斜がけに一刀深く割裂かれ、アケビの如く切り開かれた奥から小豆大の泡血が、尚口を広げるかの様に何千となく下から下からと湧き上り、押されて潰れた血汁はツルツルと首を伝って地面へその凄惨さ!

それを初めから見ていた人がして見せてくれた格好は、恰度劇の男が求愛の時の様に片膝付両手を前上に突出し身をそらせ

「何もしません、運転手です」

を何遍も繰り返す処を只一刀、ブツ倒れるのを見済まして悠然と立去られたとか、嗚呼異国人の惨めさ戒厳令下の怖ろしさ、強国の民の有難さ[略]

[当時横浜で奉公、震災時は横浜公園に避難]

(小森住三郎『関東大震災五十周年記念 想い出記 - 大正時代相』想い出を記録する会、一九七四年)


つづく


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