政府の「記録なし」説明覆す 関東大震災2カ月後に作成の文書
大正12(1923)年
9月3日
〈1100の証言;港区/赤坂・青山・六本木・霞町〉
馬屋政一〔印刷史研究者〕
〔赤坂溜池の自宅で〕三日になってから、不逞の徒が市中を徘徊している、という噂がパッと伝わった。所謂一犬虚に吠えて、万犬その実を伝えて、噂は噂を産み、いずれも戦々兢々の態である。どこでは不逞団の包囲を受け何十人鏖殺(おうさつ)されたとか、或は爆弾を以て放火し回る徒があるとか、なかなかの騒ぎである。男子は夜毎に日本刀や、短銃又は竹槍を携えて戸毎を警戒するという有様である。
ー ちょうど三日の午後一一時頃であった。親友の安危に就いて是非見舞いたいと思い、暗を衝いて六本木の方に出た。警察のつい側まで来ると、大変な人だかりである。やッつけろ、殺してしまえと罵っている。見ると一人の巡査が手を振り振り多くの人々を制止している。すると群衆の中の一人が懐中電灯を取り出して包囲されている者の顔を照らした。こやつこそ本物の不逞漢だ、やッつけろと叫んだ。巡査は必死に制している。
グサッと音がしたかと思うとたちまち不逞漢と称される者の臍の上と思う所に、竹槍の穂先が現われた。ばツたり倒れると群衆は散ってしまった。誰かが背後から突き刺したものと見える。思うに、こんなことが到るところに演じられたらしい。これ以来夜の歩行は危険千万と考え、一歩も出なかった。
(島屋政一『高台に登りて』大阪出版社、1923年)
〈1100の証言;港区/高輪・泉岳寺〉
伴敏子〔画家。当時15歳。北品川で被災〕
〔3日〕泉岳寺近くで朝鮮の人が一人殺されて筵を掛けられていた。〔略〕数珠繋ぎの朝鮮の人達がどこに連れてゆかれるのか巡査に引っ張られてゆく。
(『断屑 - 自立への脱皮を繰り返した画家の自伝』かど創房、1988年)
伏見康治〔物理学者、政治家。当時14歳。高輪二本榎で被災〕
9月3日か4日だったか、そろそろ暮れるという時刻に、「朝鮮人が攻めてくる」という噂が、本当に物理的な風でもあるかのような勢いで通過していった。ついで、自衛団のよびかけがあって、二本榎の連中は伊皿子の近くの高松宮の庭園に逃げ込めという布令が伝わってきた。父は、なげしに置いてあった先祖伝来の槍や刀をおろして、塵を払って武装したりした。僕は姉妹と母を連れて自転車を押しながら高松宮家へ逃げこんだ。
「足が地につかない」という言葉があるが、母はこの時本当に足が地につかない様子であった。そのうちに「12歳以上の者は防衛隊を組織しろ」という声がかかってきて、姉が、貴方はまだ12になっていないのだから出なくてもいいのよ、などと引きとめる。僕は悲痛な顔をして防衛隊に加わろうとしだ丁度その時に、朝鮮人暴動はデマだという声が伝わってきて一件落着。しかしそれは高輪近辺だけの話で、品川あたりでは流血の事件があったという。
(伏見康治『生い立ちの記』伏見康治先生の白寿を祝う会、2007年)
〈1100の証言;府中〉
石川泰三〔青梅で被災、2日、肉親・知人を探しに東京市内へ。3日、青梅をめざす〕
〔3日〕府中付近であったろう、鮮人らしいのが、頭を包帯で巻き立ててはいるが、鮮血がにじみ出て、尻からも生血が滴るのである。それを巡査が護衛して行く。凄惨の気、人を襲うかのようであった。(1923年記)
(「大正大震災血涙記」石川いさむ編『先人遺稿』松琴草舎、1983年)
〈1100の証言;場所不明〉
大谷なみ〔当時東京市立京橋高等小学校1年生〕
3日のばんは親子そろって舟にのった。しばらくすると朝鮮人さわざ。朝鮮人が300人もくるという。私はああこわい、火事でのがれて又朝鮮人でぼく発玉をほうりこまれるのかと思うと、じゆみょうがちぢんでしまう。せんどさん私の父さんはほうちょうをもって舟のまはりでねずにぽんをしていただけど、2、3人ころしたといった。
(「震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)
高橋定五郎〔当時法典村(現・船橋市)警防団長〕
〔3日〕東京にいっても、大久保第一六連隊の騎兵は、鮮人を馬で追いながら追い撃ちですよ。それはみんな田の中にたおれてしまって流しっきりだから、証拠不十分ですけどね。こっち〔法典村自警団裁判〕は切って殺してそのまま置いたですから、そういうひっかかりはあったですね。
(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者迫悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと - 関東大震災と朝鮮人』青木書店、1983年)
柳瀬正夢〔画家〕
私の頭を3日目の昼間、市内で目撃した情景が走った。〔略〕 Xに塗れて引づられて行くXX。お濠の土手の背の低い樹木の中に、戦(おのの)きちぢかんでいるXXを、四方から×Xが囲んでXXでXXXいている。橋下から数珠繋ぎに引出されてくる半死のXX達の間には女さえ混っている。針金で後手に結えられた菜っ葉服の××の十数個の××體の真中におったっている焼残りの交番。焼跡の街の街角に放り出された××人の死体。四谷見附、本所相生橋付近、車坂下その他。
上野広小路の十字路、松坂屋の前の今雑貨店のある所には、ズボンと片足の靴だけを残した裸体の労働者が、×××XX出されて放り出されていた。×Xで×かれたと覚しき、幾箇所からも皮を破いて流れた脱腸、流出した血は黒く乾上がって焼土にこびりつき、頭髪は所々剥ぎ取られている。焼跡の掘り返しに往来する人の列が、その大きな死体を土足と鉄棒にかけて×み×って行く。側にはこんな立札がたててあった。「いやしくも日本人たるものは必ずこの憎むべきXXXに一撃を加えて下さい」
(「狂犬に噛まれる」『戦旗』1928年10月号、戦旗社)
つづく
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