先に「永井荷風略年譜(1)」を掲載しましたが、もう少し詳細版に改訂して再掲載します。
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永井荷風年譜
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明治12年(1879)12月3日
東京市小石川区金富(カナトミ)町32番地(のち45番地、現、文京区春日2丁目20番1号)に内務省衛生局事務取扱の永井久一郎(満26歳、号禾原・来青閣主人)、恒(つね)の長男として誕生。
名は壮吉。
久一郎は、この年2月5日、東京女子師範学校訓導から内務省衛生局事務取扱(准奏任御用掛)に任じられている。
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永井家の家系:
その祖は大江氏。
徳川家康に仕えた永井右近大夫直勝の庶子久右衛門正直に始まる。
正直は塩業に従事し、五代目正次の時代に塩の販売や米の延取引に従って家産を築く。
八代目の匡遄は星渚と号し徂徠派の学に優れ、「野の大儒」として郷党を導く。
十代目の匡儀は士前と号し俳許を能くする。男子がなく娘より(因)の婿として、丹羽郡小折田新田の土田弥十郎の長男君儀・熊次郎を迎え、これが十一代目の匡威となる。
匡威は、芝椿と号して俳句を好む。維新以後一時、三重、京都の地方税吏を勤め、妻のより(因)との間に六男二女を儲けている。
その長男が、荷風の父、匡温(まさはる)・久一郎。
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父久一郎:
嘉永5年8月2日、尾張国愛知郡牛毛荒井村に生まれる。
12、3歳から漢詩を賦し、知多郡大高村長寿寺住職の青木可笑や尾張一ノ宮の医家から出た森春濤に学ぶ。
維新の年、鷲津毅堂が名古屋へ来たとき、その塾生となり、毅堂に従って京都に行く。
明治2年、師と共に上京、箕作麟祥の塾に洋学を学び、後、慶応義塾に転じる。
また、この頃、大沼枕山にも漢詩の指導を乞うているが、毅堂の曾祖父(鷲津幽林)の長子で竹渓と号した漢詩人が大沼家に入って、枕山はその子息である
(久一郎と鷲津家との縁故には浅からぬものがある)。
明治3年(1870)、貢進生として大学南校に入る。
同4年(1872)7月、アメリカ留学を命じられて出発、プリンストン大学、ニュープランズウィツクのラットガス大学やボストンの大学など修学し、明治6年(1873)に帰国。
翌年より工部省、文部省に出仕、やがて東京女子師範学校教諭兼幹事に補せられる。
明治10年(1877)3月頃、鷲津毅堂の二女恒16歳と結婚(明治10年7月10日に入籍)、小石川区金富町32番地に新婦を迎える。
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内務省衛生事務官、帝国大学書記官、文部省会計局長を勤めた後、薩摩・長州出身者がハバをきかせている官界に限界を感じたか、明治30年、満44歳で日本郵船会社に移る。横浜支店長、上海支店長を歴任。
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久一郎の兄弟:
次弟は冬季三郎(家督継承、長男に松三=素川)、
三弟は釤之助(阪本家に入り、長子に詩人阪本越郎、落胤に高間芳雄=高見順)、
五弟は久満次(大嶋家に入り、長男に一雄=杵屋五叟)。
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母恒
文久元年(1861)9月4日、尾張国丹羽郡丹羽村に父毅堂鷲津宣光、母美代(川田氏)の二女。
毅堂には四男二女があったが、長男精一郎、三男俊三郎、二女恒の他は天折。
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鷲津毅堂:
尾張藩主徳川義宣の侍講。
維新以後は、太政官権弁事、登米(とよま)県権知事を経て、司法省に出仕し、司法少書記官から司法権大書記官となる。
東京学士会院会員。
下谷竹町23及24番地に邸があった。
夫人美代は継室であるが、晩年自由キリスト教を信じ、普及福音教会に属した。美代の感化を受け、恒も入信し、明治21年(1888)12月30日、普及福音新教伝道会で受洗。
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久一郎と恒の間に三男一女がある。
長女は明治11年(1878)6月3日に生まれるが天折。
長男壮吉、
二男貞二郎(明治16年生、牧師(下谷教会設立)、鷲津氏を継ぐ)、
三男威三郎(明治20年生、農学博士)。
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荷風の生家:
(生家跡はコチラ)
羽振りのよい官員、父久一郎が、没落階級である旧幕時代の御家人や旗本の空屋敷の三軒ほどひとまとめに買い取り、古びた庭園や木立はそのままに、広い邸宅を新築したもの。
そのため邸内には古井戸が二つもあって、一つは埋められたが、残る一つとその傍にあった柳の老木が幼い日の荷風には恐怖の対象となった。
「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となっていたのをば、その頃私の父は三軒ほどを一まとめに買い占め古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅を新築した。
私の生れた時にはその新しい家の床柱にもつやぶきんの色のややさびて来た頃で、昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の蔭はいよいよ暗くなっていた。
その最も暗い木立の奥深いところに昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。
その中の一ツは出入りの安吉という植木屋が毎年手入する松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、あらゆる庭の塵芥を投げ込み、私が生れぬ前から五、六年もかかって漸くに埋め得たという事で・・・
井戸の後は一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲を見るよう、冬でも夏でも真黒に静に立っている杉の茂りが一層その辺を気味わるくしていた。
杉木立の後は忍返しをつけた黒板塀で、外なる一方は人道のない金剛寺坂上の往来、一方はその中取払いになってくれればと父が絶えず憎んでいる貧民窟になっていた。
もともと分れ分れの中屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内(カマエウチ)にはなっているが、古井戸のある一隅は住宅の築かれた地所からは一段坂地で低くなり家人からは全く忘れられた崖下の空地である。
母はなぜ用もないあんな地面を買ったのかと、よく父に話をしておられた事がある。すると父は崖下へ貸長屋でも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。
買占めて空庭にして置けば閑静でよいといっておられた。
・・・ 年の碁が近づいて、崖下の貧民窟で提灯の骨けずりをしていた御維新前の御駕籠同心が首をくくった。
遠からぬ安藤坂上の質屋へ五人組の強盗が押入って十六になる娘を殺して行った。
伝通院境内の末寺へ放火をした者があった。
水戸様時分に繁昌した富坂上の辰巳屋という料理屋がいよいよ身代限りをした。
こんな事をば出入の按摩の久斎だの、魚屋の吉だの、鳶の清五郎だのが、台所へ来て、交る交る話をして行ったが、しかし私には殆ど何らの感想をも与えなかった。・・・」(「狐」明治41年11月稿)
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「十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。
その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる頃には更に一番町へ引移った。
今の大久保に地面を買われたのはずっと後の事である。」(「伝通院」)
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「寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動しがたい或る特色を生ぜしめる。
巴里にノオトル・ダアムがある。浅草に観音堂がある。それと同じように、私の生れた小石川をば(少くとも私の心だけには)あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院である。
滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。
伝通院の古刺は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。
小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。
東の方は本郷と相対して富坂をひかえ、北は氷川の森を望んで極楽水へと下って行き、西は丘陵の延長が鐘の音で名高い目白台から、『忠臣蔵』で知らぬものはない高田の馬場へと続いている。
この地勢と同じように、私の幼い時の幸福なる記憶もこの伝通院の古刺を中心として、常にその周囲を離れぬのである。
・・・ 「安藤坂は平かに地ならしされた。富坂の火避地(ヒヨケチ)には借家が建てられて当時の名残の樹木二、三本を残すに過ぎない。
水戸藩邸の最後の面影を止めた砲兵工廠の大きな赤い裏門は何処へやら取除けられ、古びた練塀(ネリベイ)は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの水門はもう影も形もない。
・・・ 「夕碁よりも薄暗い入梅の午後牛天神の森蔭に紫陽花の咲出る頃、または旅烏の囁き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階(キザハシ)に休めさせる。
その度に堂内に安置された昔のままなる賓頭盧尊者(ビンズルソンジャ)の像を撫ぜ、幼い頃この小石川の故里(フルサト)で私が見馴れ聞馴れたいろいろな人たちは今頃どうしてしまったろうと、そぞろ当時の事を思い返さずにはいられない。・・・」(「伝通院」明治43年7月)
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母について:(後年の永井荷風をはぐくんだ素地が母によってつちかわれた)
「江戸の生れで大の芝居好き、長唄が上手で琴もよく弾きました。」
「私は忘れません、母に連れられ、乳母に抱かれ、久松座、新富座、千歳座なぞの桟敷で、鰻飯の重詰を物珍しく食べた事、冬の日の置炬燵で、母が買集めた彦三や田之助の錦絵を繰り広げ、過ぎ去った時代の芸術談を聞いた事。」
「私は母親といつまでもいつまでも、楽しく面白く華美(ハデ)一ばいに暮したいのです。私は母の為めならば、如何な寒い日にも、竹屋の渡しを渡って、江戸名物の桜餅を買って来ませう。」(「監獄署の裏」)
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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