2011年1月30日日曜日

永禄元年(1558)8月~12月 優勢に立つ三好長慶、将軍義輝と最終的和睦  [信長25歳]

永禄元年(1558)8月
山科言継、伊勢へ公務出張(儀礼費用30貫上納)。
しかし朝廷から旅費が出ず、路銀10貫は早瀬民部丞の奔走で西定坊という土倉より借りる(「言継卿記」永禄元年8月6日条)。
供衆は大沢出雲以下7人。
義輝軍が勝軍山城を占領しており(6月7日、8日条)、今路を避け清閑寺(東山区)より渋谷越にて山科・大津に出る。
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大津馬場から乗船、矢橋(草津市矢橋町)の港に渡り、陸路を乙ツケ津(未詳)の宿に着く(13日条)。
ここから伊勢道は前年の帰路と同じ、ただ関から亀山に寄らず楠原(三重県安芸郡芸濃町楠原)~トイク野(豊久野)で前年の帰路に合流、一身田の専修寺に到着。
ここで駿河から上洛の権大納言三条西実澄に邂逅、翌々17日専修寺を出発、
前年同様、魚見の宏徳寺に2泊、伯母の許で休息(17日条)。ここから道を西に取り、櫛田川を遡りイサワ(松阪市射和町、3男以継ユキツグの養子先)・大石(大石町)を通り、多気に到着(19日条)、北畠氏の雑色次木新右衛門邸に泊。
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伊勢国司北畠氏の「禁酒令」。
18日に魚見で伝聞した記録に「去年八月以来南伊勢は酒を停止すと云々」とある。
この年8月20日の多気の宿での記事に「亭主白酒と雖も隠蜜(密)を以て銚子これを出す」、22日条には「去年八月より当国酒商売停止の処、蜜(密)々を以てこの間これを売る者、今日十二三人闕所と云々。その内一人生害すと云々。」とある。
ところが、禁酒施行後1年目の8月25日、「今日酒商売すべきの由あい触ると云々。」と、にわかに禁令が解かれる。
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9月5日ようやく見参許可を得、登城(北畠氏館、同村下多気北畠神社境内)すると、具教は咳気本復せず謁見なく、北島少将具房へ目通り。すぐ酒宴が催され、つい先頃までの禁酒令の形跡は全く見られない。
公卿大名らしく猿楽・音曲等も催され、言継は太刀と青毛の馬を拝領。
翌日は具教自らも言継の宿舎へ来臨、30貫の惣用上納も首尾よく約束相成る(8日条)。
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9日多気を出発、夕刻に曾禰(ソニ、奈良県宇陀郡曽爾村)の長福寺に到着。帰路は南朝の軍用路沿いに西に向かい、峠3つを越えて奥津(三重県一志郡美杉村奥津)・菅野(奈良県宇陀郡御杖村)を通過したと推定。
大和宇陀郡は、早く興福寺の一国支配を離れ、正長年中(1428~29)頃は北畠氏の分郡になり(「満済准后日記」正長元年9月22日条)、戦国期には北島氏被官の沢・秋山氏らの勢力圏。
曾邇からさらに峠を越えて西へ向かい、10日正午、室生寺に着き昼休み。その夜は牟山(宇陀郡室生村無山)に1泊。
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牟山からは福隅(天理市福住町)・別所(別所町)・五ケ庄(奈良市五ケ谷)を経て筒井城(菩提山城)を過ぎ、上野(未詳)を経て11日昼下がり、南都(奈良)に到着。奈良に2日滞留し、13日中の下刻(午後4時過ぎ)京に参着。
ただちに参内し女官長橋局・上臈大典侍局(オオスケノツボネ)に復命、正親町天皇への内奏を依頼し勤めを終える。
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・毛利軍、小笠原長雄を温湯城(邑智郡)に破る。
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・武田晴信の信濃の戸隠神社に捧げた願文。
信濃12郡掌握と越後との融和交渉停止の是非を占ったところ、「坤之卦」がでた。
越後との融和はやめて居所を信濃に移すと宣言。
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・ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、カトリーヌ・ド・メディチに上京を求められ、後、ブロワの離宮に迎えられる。
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8月4日
・三好長慶の援軍来着。この日、三好義賢の先鋒康良(元長の弟、長慶の叔父)が勝瑞から尼崎に着岸。
18日、義賢が兵庫浦に到着。
9月3日、安宅冬康と十河一存が堺に着。
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8月9日
・不破光治、美濃瑞雲寺へ陽運寺との懇意を促す(「瑞雲寺文書」)。
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9月
・蜂須賀小六、信長より尾張国内関所を時刻かまわず無貫で通行できる権利得る。
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・朝倉義景、後奈良天皇即位費用100貫を献金。
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9月1日
・秀吉任官
木下藤吉郎(秀吉)、狩りに来た織田信長に直訴して仕官。
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9月3日
・トスカナ大公コジモ・デ・メディチ娘イザベッラ・ローラモ、パオロ・ジョルダーノ・オルシーニ(ジロラーモ・オルシーニとフランチェスカ・スフォルツァの子)と結婚。
イザベッラが16歳になるまで実質的結婚は行わず。
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9月3日
・尼子晴久、毛利氏の石見銀山要所・石見国山吹城を攻略。
銀山城落城・刺賀長信自刃。晴久は益田藤兼に尼子家への鞍替えを説得、藤兼は断る。 
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9月4日
・勧修寺尹豊(ただとよ)・万里小路惟房に依頼されて、吉田兼見が勝軍山城の義輝を参礼。兼右発病のため嫡子兼見が代る(「兼右卿記」)。
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9月15日
・信長(25)、尾張恒川氏へ津島辺内の興雲寺領10貫文・堀之内公文名20貫文、計3千疋を扶助。
17日、前野長康へ野々村大膳分20貫文・高田中務丞分20貫文、計40貫文を扶助。  
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9月16日
・本願寺教如、誕生。
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9月18日
・三好長慶、将軍義輝との和睦に関して堺で評定。長慶の嫡男義興(18)も参加。
義賢・一存・冬康3兄弟は和睦反対。結果、義輝との和睦となる。
翌々日、三好軍は和泉の大津、佐野等主要都市を打廻し、長慶、久秀らは摂津の芥川・滝山各城に戻る。
阿波・讃岐・淡路3ヶ国軍は、堺に留まり和睦の成り行きを見届ける。
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9月21日
・退位していたカール5世(58)、スペイン・エストレマズラ地方サン・ユステ修道院で没。
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9月25日
・武田晴信、善光寺如来を甲斐府中へ移す。
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9月29日
・京師で地震。阿蘇山に新穴出来る。
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10月27日
・無縁墓所の初見。足利義輝、京都阿弥陀寺境内に無縁所として檀那土葬を許可(「阿弥陀寺文書」)。
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11月17日
メアリー1世(42)、病没。
多くの新教派を処刑し「流血のメアリー」と呼ばれる(1516~1558、位1553~1558)。
14日にカトリック信仰維持を条件に、異母妹エリザベスの王位継承を認める。
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11月中旬
・上杉輝虎、鳥居峠越えで上州へ入り、平井に入城、11月中頃新田から北広沢山に陣を張り、金山城(由良成繁)を攻める。金山城は降伏。続いて桐生城(桐生祐綱)・小俣城(渋川相模守義勝)降伏。  
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11月21日
・三好長慶、東寺へ礼銭支払催促使を派遣し威嚇。
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11月27日
将軍足利義輝・三好長慶和睦成立
足利義輝、六角義賢の斡旋により三好長慶と和睦して、京都勝軍山城より5年4ヶ月ぶり京都相国寺入り。
三好長慶は、細川氏綱・伊勢貞孝ら5年前に将軍を裏切った奉行衆・奉公衆らを率い義輝を迎える(「兼右卿記」同日条)。
義輝権力回復。
12月3日、妙覚寺へ移動。
細川晴元(45)、義輝陣営を去る。
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一連の戦闘では三好方が押し気味に戦局を主導しており、武力で京都奪回は不可能と見た六角義賢が三好長慶に和談を持ちかける(「言継卿記」)。
一方、三好氏も将軍と戦うという名文上の不利がつきまとい、9月、和議に応じることになる。
また、翌永禄2年に上洛する信長・長尾輝虎(上杉謙信)が、上洛の理由を将軍の帰京祝いや将軍権威の復興を見届けるなどし、長慶らを牽制。長慶はこれらの軍事力を警戒。
更に、長慶が自らの権威を高めるため将軍を迎えたとする説あり。
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11月30日
・河内守護畠山高政、守護代安見直政に脅かされ高屋城抜出し堺へ逃亡。
安見は根来衆と通じている。翌年5月~、三好長慶・松永久秀が介入し河内へ出兵。
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遊佐長教暗殺後、後を継いだ守護代安見直政は、対抗馬である萱振一族を抑え込み、完全に領国の実権を握り守護畠山高政をないがしろにする。
高政は直政を除こうとするが、有力国人を引込むことができず、また機密が直政に漏れる。
直政は、野尻丹後守、草部肥後守に指示して高政暗殺計画を立てる。
この謀略が高政に通報され、遂に高政は堺へ逃亡。
その後、高政主従は紀伊に向うが、根来寺には安見氏の手が回っており、高政は海路有田郡まで逃げ、かつて父祖尚順らが拠った広城(和歌山県有田郡広川町広)に入る。
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12月
・信長、尾張白坂雲興寺へ全5ヶ条の禁制を下す(「雲興寺文書」)。
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12月5日
・吉田兼右、義輝座所の妙覚寺を訪問。三好義興・細川藤考・清原枝賢・奉公衆結城忠政と同座する
(枝賢・忠政は初期キリシタンで、両名ともビレラから永禄6年洗礼を受ける)。
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12月18日
・三好長慶・松永久秀、京より摂津芥川城へ帰り、三好之康らは和泉堺より四国へ帰る。
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「★信長インデックス」 をご参照下さい
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