明治6年(1873)11月
この月
・政府、工部卿伊藤博文・外務卿寺島宗則に「政体取調」指示。
大久保利通、伊藤に自分の考えを長文の「立憲政体に関する意見書」に纏めて渡す。
イギリスを手本とした「君主政治」「民主政治」の検討。また、この取調に福沢諭吉を取込み、失望させないためにも政府で不採用とならないよう本気で考えたいと述べる。
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■大久保意見書
「民主未ダ以テ取ル可ヲズ。君主モ亦、未ダ以テ捨ツ可ヲズ。」
しかし、大久保利通は、「民主ノ政」が「天理」だと考えている。
「天下ヲ以テ一人ニ私セズ、広ク国家ノ洪益ヲ計カリ、洽(アマ)ネク人民ノ自由ヲ達シ、法政ノ旨ヲ失ハズ、首長ノ任ニ違ハズ、実ニ天理ノ本然ヲ完具スル者ニシテ・・・」
その上で、「民主ノ政」は、アメリカ、スイス他の例をあげ、「創立ノ国」「新徒ノ国」ではうまくゆくが、として退ける。
同時に、「君主ノ政」が「明君」「良弼」あるときはうまくゆくが、ピュリタン革命やフランス大革命をまねくことは必然だとする。
「君主ノ政」は「人為」からでて、「天理」にかなわない場合が多く、長く維持すべきではない、とする。
日本は、維新以来「君主擅制(センセイ)」だが、今日にはそれが適用できても、すでに「時勢」は「半バ開化」に入っている。
将来もこれを「固守」すべきではない。
大久保は、理念型として「君民共治」を打ち出す。
「定律国法ハ即ハチ君民共治ノ制ニシテ、上ミ(ママ)君権ヲ定メ、下モ民権ヲ限り、至公至正、君民得テ私スベカラズ。」
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この「意見書」では、大久保は、イギリスは一例として引いているだけだが、翌明治7年5~6月頃の「殖産興業に関する建議書」では、イギリスを準拠国としている。
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大久保は、「此取調には福沢諭吉なども組込侯てはいかが」かという。
伊藤は、福沢と協力する場合は、「必ず其人の識見と道理」を重視せねはならす、「政府において不採用」などといえば失望させるだけだから、本気に考えたいと述べる(伊藤博文書簡、「大久保利通文書」)
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・ロシア公使ビュツフォ、樺太の日露境界画定交渉開始要求。
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・庄内・田川郡下で石代納を求める運動「ワッパ騒動」、勃発。
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・官職を辞した旧高知藩士、海南義社結成。
品川大井の旧藩主山内容堂の墓前に共同行動を誓約。
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・板垣退助ら、銀座3丁目に幸福安全社を開設。
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・第28番中学区福井私立中学校に師範学科を併設。小学校教員養成機関の設置。
翌7年4月、この学科は福井師範学校として独立。
5月、1千戸に1人の割合で生徒を募集、試験のうえ師範学科に入学させた者は120人。学資は1ヶ月2円30銭を貸与。
8年9月、小浜(第26中学区)・武生(第27中学区)・大野(第28中学区)・福井(第29中学区)4ヶ所に小学授業法伝習所を設置、定員150人を募集。
12月、区長・学区取締・校長などの会議によって「公学規則」が定められ、伝習所の卒業証書をもつ者しか訓導はできなくなる。
9年2月より現職の教員や一般の志願者に対し試験を行い、及第者に証書を与える。
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11月1日
・前大蔵大輔(捕縛寸前であった)井上馨、工部卿伊藤博文に厚顔無恥にも利権要求の手紙。
①鉱山税の廃止または免除。
②XX(判読不能)鉱山を払い下げて欲しい。
③飛騨高山鉱山は中小企業経営で非効率だが有望なので、一旦工部省鉱山寮管轄に移し、払い下げて欲しい。
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「……早速ながら我儘がましく候えども、工部卿御職へ対し候て申し上げ候、
諸鉱山の税御免と□□(破損)鉱山だけは是非とも生(井上)へ仰付けられ度く願い奉り侯、
また飛騨高山鉱山の義は小民稼ぎに従来の弊多くこれあり候えども、充分見込みもこれあり候山に候あいだ、一応鉱山寮のものに御引き揚げなし下され候て、我が会社へ御任せ下され候わば有り難く存じ奉り候、
当時の勢いにては往々不始末山も衰え候様成り行き候あいだ御配慮下され度く候……」
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11月1日
・バクーニン派、ジュネーブでジュラ同盟会議開催。第1インターナショナル総評議会廃止決定。
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11月3日
・李氏朝鮮、崔益鉉、大院君退陣・高宗親政の上疎(2回目)を高宗に呈出。
文中に過激な言辞あり済州島に配流(実際は大院君のテロからの保護)。
5日、高宗(21)、「親政」布告。
大院君失脚。宮廷の大院君専用出入口を閉鎖。全て閔妃の差金。
右議政朴珪寿(開化思想)、左議政興寅君李最応(大院君の兄)。大院君長男と伯父李最応は大院君の動静の閔妃への通報者。
領議政は李裕元(かつて大院君かた左議政にと乞われたがこれを固辞した)。
高宗即位工作に尽力した趙大王王妃派一門を優遇し、大院君の政敵安東金氏一門も再浮上。
大院君派を一掃(没落、追放、流罪、処刑)
大院君の手許に残ったのは妾腹の息子李載先だけ。
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崔の2回目の上疏:
「大院君は王の父であり、最高の敬意をもって遇するは当然だが、いつまでも国政に関与するのは間違いである。王が成年に達せられた今日、すみやかに執政の座をおりるべきだ」というもの。
ほほ10年間君臨した大院君には法的権力の根拠はない。
「王が若年」との理由で執政となったが、法的には王が最高権力者であり、命令・布告はすべて王の名で出されている。
「立派に成人された王(21歳)の叡知と仁徳をもって、親政をされるのが至当」との主張に対して、大院君には対抗する論拠はない。
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新政権は、大院君が制定した諸政の改革を破壊。
大院君が政治生命を賭して撤廃を断行した書院の一部は復興し、両班階級が強く反撥した戸布の義務は免除される。
一般庶民階級に対しては、彼らの人気を得る目的で「清銭禁輸」が施行され、大院君が景福宮再建の財源として設けた「通門税」などが廃止。
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勢道政治の幕開け:
大院君の引退は、同時に閔氏一族の勢道政治の幕開けであり、閔升鎬、閔奎鎬が一門の代表格。
勢道政治を嫌い、有力、有能な後ろ盾のない王妃をと厳還した大院君であったが、閔妃は彼女自身の意志と才覚でそれを実現した。
ソウルの儒生たちの間に、大院君還宮促進運動が起こる。
彼らは、「大院君をいつまでも遠地に閑居させるのは、父子の義にあらず」と、孝道を尽さない王を激しく非難。
厳しい処罰にもかかわらずこの運動の広がり、地方の儒生たちもソウルに集まって種々の建白書を配布。
王はみずから建白書を読み、閣僚たちに「不孝者呼ばわりをして父子の間を裂く、許しがたい行為」と告げて、時々後ろの屏風の方をふり返りながら、儒生たちの処分を命じる。
屏風の内には、王の発音を助け導く関妃が控えている。
これが「高宗親政」の実体であり、閣僚たちはこの事を知っている。
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閔妃:
驪興(漢城の北、京畿道驪州)を本貫(一族の始祖の出身地)とする閔氏一族の閔致禄の一人娘。
1851年(嘉永4)生まれで、高宗より1歳年上(結婚の時、閔妃は16歳)。幼名は紫英。
名門ではあるが没落していた閔致禄の一家は、その後、驪州を離れ、漢城府内の安国洞に移り住む。
一家の生活は極端に貧しく、その辛酸をなめつくした閔紫英は、耐えることの重要さを知る。
閔紫英8歳のとき、父母が相次いで亡くなり、やむなく少女は出生地の驪州に戻り、遠い親戚筋の幼女となり、ここで閔紫は人の心のひだを読みとる術を身につける。
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11月4日
・泉鏡花、誕生。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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