明治6年(1873)11月5日
・司法省急進派司法大輔福岡孝弟・三等出仕樺山資綱・司法大丞(警保頭兼大検事)島本仲道、辞表提出。
10日、受理。
「警保寮奏任官一同」(警保権頭丁野遠影・警保助川路利良・大警視国分友諒・同田辺良顕)、正院へ京都府参事槇村正直の拘留を解く「特命」への説明を求める「上書」提出。
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10月10日
・内務省設置
初代内務卿大久保利通(29日就任)。
勧業・警保・戸籍・駅逓・土木・地理の6寮(警保を司法省から移す)。
明治7年1月、内務省職制布告。
人民の戸籍、地方行政、警察、産業指導を一手に操る絶大な権力をもつ。
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内務省の管轄は、警察、勧業、衛生、運輸通信に至る内政全般にわたり、権限は非常に強力。
大久保の地位は三条太政大臣・岩倉右大臣の下位にあるが、重要な政策決定は最終的に大久保の決断に委ねられることが多く、大久保を中軸に大蔵卿大隈重信・工部卿伊藤博文が両脇を固める形で主流派が形成。
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国内行政の総合推進の任務は、内務省に委ねられ、政府の形式上の首班は太政大臣であるが、衆目のみるところ、大久保政権となる。
大久保暗殺に際し、イギリスの新聞は日本の首相暗殺と報じたほど。
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10月10日
・陸軍大将に留任させられた西郷隆盛、鹿児島着。
桐野利秋、篠原国幹〈いずれも陸軍少将)ら薩摩出身の近衛将兵600人が従う。
天皇の親衛隊としての近衛兵は存立が危ぶまれ、板垣退助が土佐出身の近衛兵を引き止める。しかし、武市熊吉(陸軍少佐)ら40数人が辞職。
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10月10日
・司法卿大木喬任、辞職した島本仲道の後任に、司法大丞河野敏鎌(29、土佐)を警保頭兼大検事に任命。
河野は、明治5年4月、同郷の先輩島本仲道とはかり司法省改革のために左院副議長江藤新平を司法卿に迎える。後、江藤の推挙で欧州留学、一時帰国の大久保と同じ船で出発。出発時は司法少丞(五等官)、帰国後同大丞(四等官)。
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10月11日
・軍艦「春日」、台湾近海測量出動。
また、この月、美代清元(ミシロキヨモト)中尉ら8人、語学研修のため清国派遣。
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10月15日
・ボアソナアド、名村泰蔵と共に横浜着。
29日、ボアソナアド、プスケ、法律編成見込書・法学教授見込書を司法卿大木喬任に提出。
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【経緯】
明治4年10月、司法省は正院に対し、ナポレオン法典を基本として語法典編纂を推進するため、フランスからから教師を雇い入れたい、と伺い出る。
理事官として岩倉遣外使節に同行して欧米を巡歴しパリに到着した司法大輪佐々木高行は、河野敏鎌らの司法省派遣団と落ち合い、江藤司法卿が「専門教師雇人ノ儀」について「可相成(アイナルベク)上等ノ人」を雇い入れるよう厳命していることを知る。
直ちに鮫島公使に江藤司法卿の意を伝え協議した結果、ボワソナアドが適任と判断し交渉を開始。*
しかし、ポワソナアドは1年半分の俸給前渡しや家族引越料などを条件とし、日本側はこれを「過当之望」と判断し一旦は破談となる。
明治6年4月8日付けで、江藤司法卿に宛てて人選遅延を報告。
しかし、その後も計画は思うように進まず、たまたまロシア出張の鮫島公使お帰仏後、再度ボワソナアドと交渉し、彼の日本招聘に成功する。
本国からの訓令を得た後、6月24日、御雇条約(契約)全15条を結ぶ。
契約では、ボワソナアドは家族の旅費を得ているが、給料前渡額は3ヶ月分に譲歩している。
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ポワソナアドが翻意した理由:
彼の恩師オルトラン(刑法及び比較刑事法制講座正教授)死去にともない、5月24日、法学部教授会で後継正教授候補者が選出されるが、その結果はポワソナアドの正教授就任の見込みを将来にわたって消滅させるような惨憺たるもの。
文部大臣に推薦する後継候補者名簿には第1位と第2位の候補者を記載するが、ボワソナアドは第2位候補者でしかも2名が同順位に並記されることになった(2回の投票ともに同票)。
第2位のもう一人は26歳で初めて教授資格試験を受験し首位合格を果たした俊秀(ポワソナアドは、39歳の時に3回目の受験で最下位の8位合格)。
このことは、次回に正教授ポスト競争では、ポワソナアドは飛び越される可能性が大きいことを意味する。
この精神的に絶望的打撃により、彼は新しい天地に自らの運命をかける気持ちになったと推測できる。
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ポワソナアドは、司法省で法学教育を行う旨の口頭の約束をとりかわし、別にそれに対する相当の報酬を受け取る取り決めになっていたが、東京に到着してみると、先任の法律顧問プスケが、事実上主任教師として、フランス語担当のリブロオル及び通訳のガリイと共に、明治5年秋から、明法寮の募集した生徒を対象として講義を始めていた。
ポワソナアドは期待を裏切られ、プスケとの関係も初めのうちはぎくしゃくする。
司法省は、両者の調停を通訳ガリイに依頼し、その仲裁で2人の不和は一応解消し、「遂ニ両氏互ニ共和スルニ至リ殆ンド親友ノ如クニ」なった。
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そして11月29日、2人は連名で、法律編成についての見込書と法学教授に関する見込書を司法卿に提出。
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10月15日
・植木枝盛(16)、東京発、土佐へ帰郷。
明治8年、再上京するまでの約1年間は郷里で過ごす。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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