2011年1月19日水曜日

京都 名和長年戦死之地の碑 聚楽第址の碑

大宮中立売上ル東側に、今は児童公園となっているところに、南北朝時代の南朝の忠臣、名和長年戦死之地の碑があります。
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昭和前期の「皇国」日本の匂いが残る場所です。
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名和長年は伯耆の国の名和という所で海運業を営んでいたそうですが(諸説あり)、後醍醐天皇が隠岐から脱出したのを期に、これに従い忠臣「三木一草」の一人と呼ばれるようになった。
三木一草は、楠木正成、伯耆(名和)長年、結城親光、千種忠顕のこと。
建武3年6月30日、戦死。
名和長年が戦死することで「三木一草」の全てが姿を消す(全員がこの年、建武3年に戦死)。
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戦死の地は、「太平記」では大宮、「梅松論」では三条猪熊となっているそうです。
押小路猪熊説もあるとのこと。
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鳥居が建っていますが、戦前は玉砂利が敷かれた「神聖な」場所だったようです。

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▼この碑は昭和11年のもの
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▼こちらは昭和14年

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▼昭和10年、従一位を贈られる(600年前の忠臣に叙勲)。
これを記念して昭和14年に建立。
碑文は海軍大将有馬良橘。
(海運業を営んでいたという経歴からか、海軍が肩入れしているようです)
デカイ(約3m)!
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▼名和長年に授けられた家紋
(やはり船です)
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▼明治19年、正三位を贈られた時の記念碑。太政大臣三条実美とある。
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▼井戸があったんではないかと思います。
国防婦人会の方々がきれいに清掃されていたんでしょう。

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▼聚楽第址の碑
名和長年の碑に行く途中の大宮中立売の北西角にあります。
大内裏及び聚楽第東濠跡とあります。
秀吉の聚楽第は、平安京の内裏の跡地に重なります。

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▼「名和長年公思慕」の碑
これが何処にあったものか失念しました。
京都の町をぶらついていて見つけたもの。
もう一つの戦死の地と伝えられる三条猪熊だったかもしれません。
それにしても、ナンデ金網なんでしょうか?
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「★京都インデックス」 をご参照下さい。
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