永禄元年(1558)5月
・岩倉城主織田伊勢守信安、子の信賢に追放される。ついで信賢、美濃の斎藤義龍と結び信長に反旗をひるがえす。
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・パリ、フランスで最初の新教の「教会会議」開催。
ユグノー4千人が数夜に亘り詩編を歌い続ける。
「教会」⇒「宗務局」⇒「教務会」⇒頂点「教会会議」を形成。
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5月3日
・将軍足利義輝と細川晴元軍勢3千、竜華から更に南下、坂本本誓寺入り。
ここで六角義賢の援軍・晴元残軍と合流。
13日頃から、足軽が瓜生山辺に出没。
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「今日午の時大樹(義輝)坂本石河の本誓寺へ御座を移さると云々。細川前右京兆晴元御共と云々。但し則ち堅田へ打ち帰らると云々。
香西(元成)・三好下総守(政勝)等志賀に陣取りと云々。人数の事坂本に於いて見物の者伝説す。
香西六百廿五人・三好下総守三百十五人・粟津の西坊二百人・前右京兆二百人・使節衆・奉公衆都合二千余人と云々。」(「言継卿記」5月3日条)。
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5月4日
・三好長慶方の松田盛秀邸、義輝軍の足軽に焼かれる。
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5月7日
・三好長慶方より、東寺へ明後日の出陣、各将の布陣状況を事前に通知。
東寺は、三好方へ多額の礼銭を支払い、三好方も人夫徴発・武具調達に東寺を利用。
東寺は三好長慶方の兵站基地の役割を果す。
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5月9日
・松永久秀(49)・長頼・三好長逸、入京。
足利義輝・細川晴元迎撃のため吉祥寺・梅小路・七条千乗寺・六条中堂寺に布陣。
12日、久秀、勧修寺晴秀を通じ京都警護は別儀無きことを奏聞してもらうよう申請。
19日、久秀軍1万5千、京都市中を打廻し示威(威嚇巡察)。将軍義輝を牽制。
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5月11日
・若狭守護武田信豊、小浜へ下向した吉田兼右から「八雲神詠口決」「猿楽翁大事」などの神道関係の諸秘事を伝受(「兼右卿記」同日条)。
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5月12日
・ロシア・ポーランド戦争 (1558~1582)。
イヴァン4世(雷帝)のリヴォニア侵入。ナルヴァ陥落。住民の大半虐殺。
(リヴォニアのドイツ騎士団の分枝の領土が戦場となり、没落)。
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5月13日
・フランス、プレ・オ・クレール事件。プロテスタントの宣言。新教徒の示威行進。貴族も参加。
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6月
・北條氏康、房総に軍勢を遣わす。
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・毛利氏2万、門司城を攻撃、奪回。城将として仁保右衛門大夫(仁保隆慰)が入る。
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6月2日
・三好長逸ら、勝軍地蔵山(瓜生山)頂に城を築き将軍足利義輝の上洛を妨げる。
この勝軍山築城の衆の中に、のちに長逸らと三好三人衆と云われる石成(イワナリ)友通がいる。
石成氏は、一説に大和石成の出身とも伝えられ、強力に因んで主税介と称す。
天文20年(1551)11月、堺での天王寺屋宗達の茶会記にその名がみえ、長慶の越水在城時代か芥川初期に随身したとみられる。
戦陣でその名が現われるのは、この永禄元年の瓜生山占領が始めて。
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6月4日
・将軍義輝方三好政勝・香西元成、5千となり、志賀越と雲母坂・瓜生山方面を警戒する三好方の意表をついて、近江兵らと坂本から如意嶽(如意嶽城)占領、麓の鹿ケ谷・浄土寺辺りを放火。
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7日、北白川勝軍山(瓜生山)の三好軍(三好長逸・松永久秀・長頼(弟)ら1万5千)は、白川谷を隔てて対戦、出撃し鹿ヶ谷で戦った後、瓜生山を自焼し三条・四条辺りに退く。
将軍方は勝軍山城を占領。~11月27日迄、義輝が在城。
8日、松永久秀・三好長逸らは如意嶽に上り将軍方残留兵を追い出し、援軍の摂津の伊丹・池田兵が神楽岡(吉田山)に布陣。
9日、両軍は白川口で激戦。
義輝軍数千、六角軍の後詰めを得て松永久秀主力の万を越す三好軍を破り、北白川勝軍地蔵山を占拠。
鉄砲装備・兵糧など兵站線で義輝側が有利に展開。
しかし、武力での京都奪回は不可能と見た六角義賢は使僧妙観院を長慶の許へ派遣し和睦交渉を行う(「言継卿記」6月12日条)。
閏6月7日、義輝勢、退却。9月、和睦。
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将軍義輝・細川晴元と三好長慶、慈照寺付近で戦い、銀閣寺の建物が銀閣と東求堂を除き殆ど焼かれる。
銀閣寺背後の中尾山城や勝軍山城をめぐる天文19年の争乱の中である程度残っていたもの。
銀閣寺背後の大文字山を中心に南北に連なる左京区東山連峰にある山城は、近江以東の守護大名の洛中への侵略を防止する防衛ラインの拠点で、特に、雲母坂から穴太(あのう)方面に向かう白鳥越と北白川から大津に向かう志賀越の通過する山麓は重要な要衛である。
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6月20日
・ギーズ公フランソワ(39、1519~1563)、チオンヴィルを奪回、皇帝軍を追い払う。カトリーヌ・ド・メディシス従兄弟ピエーロ・ストロッツィ戦死。
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閏6月
・北条氏康、伝馬制度を確立。
軍事物資の輸送や情報の伝達などを敏速に行うため、拠点ごとの町を伝馬宿として定め、そこに住む。住人に伝馬役を課す
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・武田晴信、上野の市田茂竹庵に対し、信濃陣への援軍として出陣したため敵が退散したとして贈物をする。
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閏6月20日
・伊勢貞孝、飯尾尭連の取成しで将軍と和談、帰参する。他の離脱組も義輝に帰参。
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閏6月26日
・若狭守護武田義統、柿本人麻呂の詠んだ和歌の勅筆を依頼(「惟房公記」同日条)。
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7月
・若狭守護武田義統、父信豊と隱居料をめぐり争い(1556には家督相続争い)。
信豊は近江の六角氏を頼って出国し、態勢を整えて遠敷郡へ攻め込む事態となる。
この内紛は、信豊個人に仕えてきた近習の永元寺・宇野・畑田・笠間氏らと、武田惣領家譜代で義統を推す山県・上原氏らとの、信豊・義統の家臣間の対立を背景とし、義統が家督継承後、新たに武田元光の「隠居分」知行を巡る争いに形を変えて再燃。
領国支配の中心の遠敷郡でも、もはや武田氏による家臣統制力は失われ、家臣の分裂が生じている。
丹波・丹後へ出兵している大飯郡の武士たちは、内紛に巻き込まれるのを避け小浜へ「出頭」しなくなる。
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・山科言継、太宰権帥に任ぜられる(13、15日条)。
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・将軍義輝と三好長慶の戦い、六角義賢の斡旋で講和が進展。
長慶は、交渉を有利にするべく阿波・淡路軍の上洛を手配する。
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7月3日
・フィレンツェ、トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ娘ルクレツィア(父コジモに殺されたマリーア・ルクレツィア妹)、姉の婚約者フェラーラ公エルコーレ1世長男アルフォンソ・デステ(のちアルフォンソ2世)と結婚。3ヶ月後、アルフォンソは約束通りフィレンツェを去る。
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7月12日
・浮野の戦い。
信長(25)、清須から北上、犬山城主織田信清(信長従兄弟)と共に尾張岩倉城織田信賢を攻撃。
浮野(一宮市)で信賢軍勢3千と対戦。信長勝利、信賢側戦死1250。
1559年春、再び岩倉城攻撃。2~3ヶ月包囲後、開城。岩倉城は破却。
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岩倉城の内紛:
岩倉織田家では守護代(尾張上4郡支配)織田伊勢守信安と子の信賢(ノブカタ)とが争い、この年5月、信賢が信安を追放して実権を掌握。
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7月13日
・グラヴリーヌの戦い
エグモントのフランドル軍、スペインに味方してフランス軍を破る。
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7月14日
・三好長慶、京都市内から地代として地子銭(じしせん)を徴収。松永久秀が奉行する。
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7月18日
・イヴァン4世(雷帝)のリヴォニア侵入。ドルバート陥落。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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