2011年1月13日木曜日

弘治4年(1558)1月~4月 「永禄」に改元 将軍義輝の反撃開始 スコットランド女王メアリー・ステュワート(15)とフランス皇太子フランソワ(17)との結婚  [信長25歳]

弘治4年(1558)
・この年
信長25歳、光秀31歳、秀吉23歳、家康17歳
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富田林の建
近隣4ヶ村から出た8人衆が、荒芝の土地を方1町、守護三好長慶より100貫文で買取り、建設した都市。
そして、真宗の一派興正寺証秀を開基とする富田林御坊を招き、その寺内町となり、公事免許などの特権を得て繁栄する。
富田林は、8人衆による都市建設が行われた自治都市で、領主としての興正寺別院は多分に形式的なもの。
大ヶ塚・貝塚も町民主導によって建設される。
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・この頃、アントワープで、カルヴァン派牧師アドリアン・ヴァン・ハムステーデの説教に数100人の聴衆が集まる。
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・ロベール・エティエンヌ(56)、没(1503~1559)。
フランスの出版業者、ギリシア・ラテン・ヘブライ・フランス各語の聖書を出版。
後、プロテスタントに改宗。
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・フィレンツェ、アルノ河洪水。
コジモ・デ・メディチ、全市復旧に尽くす。
ポンテ・サンタ・トリニテ建設。マレンマ開墾計画。自分の御料地開放。
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・フェリペ2世、外国からの書物の輸入・外国への留学を禁じる。禁書目録を作成。
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1月
・この頃、「外様武田入道」(武田信虎)、在京。(「言継卿記」)。  
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1月1日
・ギーズ公フランソワのフランス軍、ニューレイ砦・リスバンク砦陥落。
5日、カレー陥落。英ウェントワース卿降伏。イングランド、最後の大陸所領を失う。
8日、ギーヌ包囲、開城。カレー、ギーヌの大半の住民、追放、イングランド送還。  
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1月5日
・千利休、三好義賢実休(物外軒、長慶の弟)の茶会に招かれる。
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1月22日
・イヴァン4世(雷帝)のロシア軍4万、リヴォニア侵入。
航海可能な海に侵出するにはロシアにとってポーランド、リトワ、スウェーデン、リヴォニアは標的。
リヴォニアはリガ、レヴァル、ドルバートなど豊かな都市を抱え「リヴォニア騎士団」が支配している。
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1月27日
・信長(25)、加藤資景へ、商売に関して以前与えた判形通り、代々免許の通りに安堵。
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2月
・吉川元春、石見出陣。出羽元実・福屋隆兼を降す。
22日、出羽表の合戦。
吉川元春・出羽・福屋連合軍、尼子方牛尾幸清・本城常光・小笠原長雄らと交戦、破る。
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・三好長慶、人質の細川聡明丸(のち昭元、晴元嫡男)を芥川城で元服させる。
この頃以降、義輝・晴元らは朽木で軍事行動を開始。
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・ポルトガル国王ドン・セバスチアン、前国王ドン・ジュアンへの大友宗麟書状に返書。
宗麟は天文14年頃から、ポルトガル商人ジョルジュ・デ・ファリタと交流。
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2月5日
・松平元信(17、家康)、今川義元命により、岡崎衆を率い、信長に通じた三河加茂郡寺部城(鈴木重辰)を攻撃。初陣。
翌日、広瀬・挙母・梅坪・伊保などを攻撃。救援の織田勢水野信元を潰走させる。
義元から旧領の一部を返してもう。  
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2月20日
・将軍義輝、長尾景虎に武田晴信との和睦の御内書。景虎、受諾し信濃から兵を引く。
この頃、今川義元、北条氏康・氏政父子にも同主旨の御内書が届けられる。
使者は同じく側近僧の悦西堂で内談衆大舘晴光の添状も持参。
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2月28日
「永禄」に改元
6月に、改元のことが幕府=義輝に通知される。幕府の文書は6月まで「弘治」を用いているが、三好長慶方の文書は既に3月から「永禄」を用いる。
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3月
・春、織田方、三河の寺部・広瀬攻略。知多半島制圧。
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・トスカーナとフェラーラの同盟成立。
トスカナ大公コジモ・デ・メディチ娘ルクレツィアとフェラーラ公エルコーレ1世(ルクレッツィア・ボルジアの子)長男アルフォンソ・デステの婚約。7月3日結婚。
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3月7日
・信長(25)、今川義元の部将松平家次の守る尾張品野城を攻めるが敗北。
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3月10日
・将軍義輝、武田晴信に宛てて信濃守護職補任の御内書を届ける。
甲越和睦の見返りにこれを要求した晴信の作戦奏効。近江亡命中の義輝は言いなりになる。実際には和睦ならず。  
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3月13日
将軍義輝の反撃開始
将軍義輝と細川晴元、近江守護六角義賢の支援のもと入京を企て、朽木発。
葛川谷(大津市葛川中村、安曇川上流一帯)を遡り、花折峠を越して竜華(大津市伊香立下竜華町)に到着(「言継卿記」同日条ほか)。
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3月14日
・神聖ローマ皇帝、フェルディナント1世即位。フランクフルト。  
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3月23日
・大友義鎮、博多において耶蘇会士に教会建設の地を与える。
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4月
・武田晴信の弟信繁、家訓99ヶ条を定める。
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・家康(17)、この頃、松平元信から元康と改名
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4月11日
・北條氏康、簗田晴助に足利義氏を6月に葛西谷より下総関宿城に移すと伝える。
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4月23日
・越後長尾景虎軍と甲斐武田晴信軍、信濃塩尻で戦う。
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4月24日
・スコットランド女王メアリー・ステュワート(15、仏ギーズ公フランソワ姪)、フランス皇太子フランソワ(17、後のフランソワ2世)と結婚。ノートルダム寺院。
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メアリ・ステュアート:
1542~1587、位1542~1567。
父スコットランド王ジェームズ5世(1512~1542、位1513~1542)。
母マリー・ド・ロレーヌ(1538年ジェームズ5世と結婚。初代 ギーズ公クロード娘、ギーズ公フランソワとシャルル(ロレーヌ枢機卿)妹))。
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メアリー・ステュワートのイングランド王家の血筋:
メアリーの父方(ジェームズ5世)祖母マーガレットは元イングランド王へンリ7世娘
(スコットランド・フランスの友好を裂くためにスコットランド王ジェイムズ4世(メアリーの祖父)に嫁いだ女性)。
イングランドでは、1547年ヘンリ8世の後継となったエドワード6世が、1553年に15歳で没。
次の国王候補は異母姉妹のメアリー
(メアリー・スチュアートとは別人。「メアリー・チューダー」(「血のメアリー」)のこと)かエリザベス(後、1世)のみ(彼女達はメアリー・スチュアートの父の従姉妹)。
但し、彼女達の父ヘンリ8世は生涯に妃6人(うち2人処刑、1人死別、2人離婚、1人は最後の妃として死を看取る)を持つが、「メアリ・チューダー」もエリザベスも法的には庶子(「メアリ・チューダー」母は離縁、エリザベス母は刑死)である。
ヘンリ7世嫡出娘を祖母にもつメアリ・スチュアートがイングランド王位を継承する可能性は高い
(メアリー・スチュアートはスコットランド女王・フランス王妃・イングランド女王の3つの玉になる可能性)。 
 メアリ・スチュアートはこの後死ぬまで自分のイングランド王位継承権を主張し続ける。   
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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