2011年1月17日月曜日

明治44年(1911)1月18日 大逆事件判決 その日の石川啄木、平出修、堺利彦

明治44年(1911)1月18日午後1時10分~2時5分
大逆事件判決下る
全員有罪。新田融11年、新村善兵衛8年。他24名は死刑。
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翌1月19日
・天皇恩赦により、24名中12名が無期へ減刑
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高木顕明(46、大正6年6月24日獄中自殺)
崎久保誓一(27、昭和4年4月29日仮出獄、30年10月30日病没)
飛松与次郎(23、大正14年5月10日仮出獄、昭和30年9月病没)
坂本清馬(27、昭和4年4月29日仮出獄)
成石勘三郎(32、昭和4年4月29日仮出獄、6年1月3日病没)
岡本顚一郎(32、大正6年7月27日獄中病没)
岡林寅松(36、昭和6年4月29日仮出獄、23年9月1日病没)
三浦安太郎(24、大正5年5月18日獄中自殺)
武田九平(37、昭和4年4月29日仮出獄、昭和8年12月事故死)
小松丑治(36、昭和6年4月29日仮出獄、23年9月1日病没)
佐々木道元(23、大正5年7月15日獄中病没)
峯尾節堂(27、大正8年3月7日獄中病没)
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【平出修】
1月18日
判決を聞いたあと、事件を担当した弁護士平出修は自身が書いてきた「大逆事件意見書」末尾の「後に書す」を書く。
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平出修「刑法第七十三条に関する被告事件弁護の手控(大逆事件意見書)」末尾の「後に書す」
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「もし予審調書其ものを証拠として罪案を断ずれば、被告の全部は所謂大逆罪を犯すの意思と之が実行に加はるの覚悟を有せるものとして、悉く罪死刑に当って居る。


乍併調書の文字を離れて、静に事の真相を考ふれば本件犯罪は宮下太吉、菅野スガ、新村忠雄の三人によりて企画せられ、稍実行の姿を形成して居る丈けであって、終始此三人者と行動して居た古河力作の心事は既に頗る曖昧であった。


幸徳伝次郎に至れば、彼は死を期して法廷に立ち、自らの為に弁疏の辞を加へざりし為、直接彼の口より何物をも聞くを得なかったとは云へ、彼の衷心大に諒とすべきものがある。


大石誠之助に至りては寔(マコト)に之れ一場の悪夢、思ふに、事の成行きが意外又意外、彼自らも其数奇なる運命に、驚きつつあったのであらう。


只夫れ幸徳は、主義の伝播者たる責任の免るべからざるものあり、大石には証拠上千百の愁訴も之を覆すべからざるものあり、形式証拠を重んずる日本の裁判所は遂に彼等両人を放免するの勇気と雅量なかるべきを思ひしも、其余の二十名は悉く一場の座談、しかも拘引の当時より数へて一年有半前のことにかかり、其座談の内容が四五十人の決死の士あらば富豪を劫掠し、官庁を焼払ひ、尚余力あらば進んで二重橋にせまらんと云ふ一噱(イッキャク、笑い話)にも付すべきものであって、・・・」
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 「大逆事件意見書」の結びの部分は、

「大審院判官諸公は国家の権力行使の機関として判決を下し、事実を確定した。
けれども、それは彼等の認定した事実に過ぎないのである。
之が為に絶対の真実は或は誤り伝へられて、世間に発表せられずに了るとしても、其為に真実は決して存在を失ふものではないのである。
余は此点に於て真実の発見者である
此発見は千古不磨である。
余は今の処では之れ丈けの事に満足して鍼黙(カンモク)を守らねばならぬ」
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石川啄木日記1月3日
平出君の処で無政府主義者の特別裁判に関する内容を聞いた
若し自分が裁判長だつたら、管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の四人を死刑に、幸徳大石の二人を無期に、内山愚童を不敬罪で五年位に、そしてあとは無罪にすると平出君が言つた
またこの事件に関する自分の感想録を書いておくと言つた。
に相当する。
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【堺利彦】
1月18日
堺利彦(40)泥酔す

「泥酔した判決の夜」(黒岩比佐子「パンとペン」より)

堺利彦は大逆事件の検挙が続く前年(明治44年)は、幸いにも赤旗事件により監獄の中であり、事件に連座する事は免れた。
9月22日に監獄を出てからは、何度も東京監獄に行き、幸徳秋水らに面会し、差し入れをし、手紙を書いている。

「普段は温厚で、決して乱暴なことをしない堺が、その晩は酒を飲んで泥酔し、街灯や道路工事の赤ランプをけとはして壊していったというのだ。やさしい言葉をかけてくれたおでん屋の主人には、財布ごと金をやったともいう。」


石川三四郎によると以下のようであったという。


「石川によると、堺と大杉栄と石川の三人は、かなり酒を飲んで信濃町停車場で下車した。
殺気立っている堺は、停車場近くの交番に唾を吐きかけて小便をした。
白い湯気が上がり、交番の巡査も気づいたが、尾行についていた三人の刑事が耳打ちすると、巡査は見て見ぬふりをした。
さらに、道路を掘り返した所に赤いガス灯が三、四個並べであったが、堺はその一つをステッキで突いて壊した。
ガシャーンという激しい音がしたが、誰も何ともいわなかった。
尾行の刑事たちは、わなわなと震えている様子だったが、さらに堺は二つ目のガス灯を足でけとはして倒したという。
たまりかねた刑事が石川のそばに来て、堺を家まで送ってくれと哀願した。
絞首台で仲間が殺されていることを知っているので、刑事もあまりいい気分ではなかったのだろう、と石川は書いている。」
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【石川啄木】
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石川啄木日記より

一月十八日 半晴 温
今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であつた。午前に前夜の歌を清書して創作の若山君に送り、社に出た。
今日程予の頭の昂奮してゐた日はなかつた。さうして今日程昂奮の後の疲労を感じた日はなかつた。二時半過ぎた頃でもあつたらうか。「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「ああ二十四人!」さういふ声が耳に入つた。「判決が下つてから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告したゐた。予はそのまま何も考へなかつた。ただすぐ家へ帰つて寝たいと思つた。それでも定刻に帰つた。帰つて話をしたら母の眼に涙があつた。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考へ乍ら丸谷君を訪ねて十時頃まで話した。
夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」とかいてあつた。
[受信欄]牧水君より。

一月十九日 雨 寒
朝に枕の上で国民新聞を読んでゐたら俄かに涙が出た。「畜生! 駄目だ!」さういふ言葉も我知らず口に出た。社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によつてのみ得られる、さうして日本は代々社会政策を行つている国である。と御用記者は書いてゐた。
桂、大浦、平田、小松原の四大臣が待罪書を奉呈したといふ通信があつた。内命によつて終日臨時閣議が開かれ、その伏奏の結果特別裁判判決について大権の発動があるだらうといふ通信もあつた。
前夜丸谷君と話した茶話会の事を電話で土岐君にも通じた。

一月二十日 雪 温
昨夜大命によつて二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されたさうである。
東京は朝から雪がふつていた。午後になつても、夜になつても止まなかつた。仕事のひまひまに絶えず降りしきる雪を窓から眺めて、妙に叙情詩でもうたひたいやうな気分がした。
前夜書いた「樹木と果実」の広告文を土岐君へ送つた。それと共に、毎月二人の書くものは、何頁づつといふ風に自由な契約にしよう、さうでないと書くといふことが権利でなくて義務のやうな気がすると言つてやつた。
[発信欄]土岐君へ。
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1月20日付け「大阪朝日新聞」社説

「今回二十六人の性行及び経歴を観るに、一も常識を有する人類として歯(よわい)すべきものにあらず、何れも社会の失敗者にして、余儀なく無政府共産主義等の名を藉(か)りて、其の欝を散ぜんとするに過ぎず。
何も皇室に恨みあるにあらず、唯(ただ)狂者が家長を恨み、道理を無(な)みし、自らも憤死せんとするに過ぎず。
・・・全く狂愚の沙汰なり。
彼等が死を期す固(もとよ)りなるぺし、之に死刑を宣告す、亦社会より黴菌を除去するもの、吾人は之をペストの掃蕩と同一視し、毫も之を仮借するの必要なしと信ず。
・・・之を杜(ふさ)ぐは所謂社会政策を行ひ、文明の余病を医し、其黴菌発生の源を断つにあり。
・・・故に其の黴菌の発生に対しては直に外科的裁断を加ふると同時に、平時は内科的医療を加ふるを当然なりとす。」
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今から100年前の話である
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パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い
パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い

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