明治44年(1911)1月23日
・石川啄木(25)、自宅にて1日中幸徳秋水事件関係記録を整理。
24日、夜~12時迄「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」の纏め。
25日、平井修より幸徳・菅野・大石等の獄中書簡を借りる。
26日、深夜迄、平出修の自宅で、7千枚17冊の特別裁判の「訴訟記録」のうち初めの2冊と管野に関する部分を読む。
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○啄木日記より
一月二十三日 晴 温
休み。
幸徳事件関係記録の整理に一日を費やす。
夜、母が五度も動悸がするといふので心配す。
[受信欄]荻原藤吉といふ人より。
一月二十四日 晴 温
梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香ひがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。
社へ行つてすぐ、「今朝から死刑をやつてる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、ああ、何といふ早いことだらう。さう皆が語り合つた。印刷所の者が市川君の紹介で会ひに来た。
夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。
薬をのましたせゐか、母は今日は動悸がしなかつたさうである。
一月二十五日 晴 温
昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載つた。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割つた――その事が劇しく心を衝いた。
昨日十二人共にやられたといふのはウソで、菅野は今朝やられたのだ。
社でお歌所を根本的に攻撃する事について渋川氏から話があつた。夜その事について与謝野氏を訪ねたが、旅行で不在、奥さんに逢つて九時迄話した。与謝野氏は年内に仏蘭西へ行くことを企ててゐるといふ。かへりに平出君へよつて幸徳、菅野、大石等の獄中の手紙を借りた。平出君は民権圧迫について大に憤慨してゐた。明日裁判所へかへすといふ一件書類を一日延して、明晩行つて見る約束にして帰つた。
一月二十六日 晴 温
社からかへるとすぐ、前夜の約を履んで平出君宅に行き、特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、一冊の厚さ約二寸乃至三寸づつ。十二時までかかつて漸く初二冊とそれから菅野すがの分だけ方々拾ひよみした。
頭の中を底から掻き乱されたやうな気持で帰つた。
印刷所三正舎から見積書が来た。釧路から小奴の絵葉書をよこしたものがあつた。
[受信欄]釧路の斉藤秀三氏より。三正舎より。
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■大石誠之助
明治44年(1911)1月23日
・大石誠之助の平出修宛て手紙(処刑前日)。
「・・・。陳ば過去三ケ月に亘り私共被告連の為一方ならぬ御心労に預り何とも御礼の申様も無之侯。あれだけの御骨折下候以上は其結果の如何について今更何も言ふべき限りには無之事と存候。
・・・。
尚ほ今回の事件は、之を法律の上より政治学の上より果(ママ)た犯罪学の上より研究する人は弁護土中他にも之あるべく侯へども、特に我が思想史の資料として其真相をつきとめ置かるるの責任は、貴下を措いて他に何人も之にあたる人無之、此事は法廷において我々を弁護せられたる責任よりも遥に重大なる事と存侯」
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■堺利彦
明治44年(1911)1月24日
・幸徳秋水(41)以下11名に死刑執行。
ここで日没となったため、翌25日、管野すが子(31)に死刑執行
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黒岩比佐子「パンとペン」より
24日、堺利彦が朝10時頃に面会に行くと、今日は面会できないと断られた。
東京監獄では極秘にしていたが、面会できない理由を尋ねても返事がなく、ただならない様子から、堺は死刑執行と察する。
吉川守圀によれば、入口の看守が気の毒そうに「実は執行命令が来て、今頃はもう四人目あたりをやってゐると息ひます」と教えてくれたという。同情した看守がつい口を滑らせたらしい。
堺はその日何をしたかを自分では書いていないが、彼はすぐに各地の処刑された人々の家族や親族に悲しい電報を打っている。
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1月25日
・堺利彦、この日と翌26日の両夜、同志たちの死体を引き取りに行き、白木綿に包まれた骨箱を堺宅に安置する。
堺は、それらを遺族に引き渡し、引取人がいないものは供養をし、遺品を分配する。のちに、幸徳秋水の遺稿『基督抹殺論』を出版。
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25日午前11時頃、堺、大杉、石川、吉川ら数人と、処刑者の一部の親族たちとが東京監獄へ遺体引き取りに行く。
『東京朝日新聞』記者の松崎天民(本名・市郎)と『報知新聞』記者の毛呂正春が、これについて記事を書いている。
この日、東京監獄は看守・警官約80人がこれを取り囲むという厳重な警戒態勢。
この日夕方、ようやく幸徳秋水ら6人分の棺だけが引き渡された。監獄北側にある不浄門から6つの棺が運び出されると、堺らはそれを荒縄で縛り、丸太棒を通して担いで落合火葬場まで運んだが、途中で何度も警察官や私服刑事に行列を止められ、身体検査をされるなどの妨害を受ける。
落合火葬場にも警官10数人が配置され、30分以上歩いて堺たちが到着すると、その場にいる者を全員検束して新宿署まで連行した。
検束の理由は、逆徒の火葬にこんなに大勢が参加するのは穏当ではない、ということ。
連行の前に、堺は、疲れきっていることを理由に、新宿署へ出頭しろというなら公費で人力車を用意してほしい、それでなければ一歩も歩けないと抗議したため、警察は数台の人力車を集める指示を出す。
人力車が揃うまで時間を稼いだ堺は、火葬する前に棺の蓋を開けさせて、親友の幸徳秋水と最後の別れをした。結局、新宿署に連行された堺らが解放されたのは深夜2時だった。
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26日夕方にも、堺、大杉らは残った遺体引き取りに東京監獄に向かう。典獄と相談し、遺族と連絡のとれない遺体は監獄内に置き、菅野すがら4人の棺を引き取る。
この日もものものしい警戒で、落合火葬場に着くと、死体引取人になっていた堺の妻・為子だけを火葬場に残して、あとは全員が新宿署へ同行を求められる。
為子はたった1人で深夜の火葬場に残り、火葬が終わると骨を拾って、27日明け方、遺骨を抱いて帰宅。 12人の遺骨は引取人に渡され、それぞれの事情に応じて埋葬された。
だが、当局の干渉で、墓石を立てることを禁じられ、目印としてわずかに小石を置いただけの墓もあった。
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堺利彦の遺家族慰問の旅
3月31日~5月8日、堺は遺家族の慰問の旅に出る。
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■徳富蘆花
1月25日
・徳富蘆花、幸徳助命について思い悩み、「天皇陛下に願い奉る」を書き東京朝日新聞編集局長池辺三山に「至急親展書留」で送り新聞掲載を依頼。
これを送付後、前日処刑されたことを知る。
蘆花は「今更何をか言はん」と取消しの手紙を三山に出し、三山は意見も述べずにこれを返送。
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これより前、21日、蘆花は兄蘇峰を通じて桂首相に幸徳減刑を願う(蘇峰は仲介したか、桂に願いが届いたか不明)。
22日、一高生の河上丈太郎・鈴木憲三が2月1日の講演依頼、蘆花は快諾し「謀反論」を予定。
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「彼等も亦陛下の赤子、元来火を放ち人を殺すただの賊徒には無之、平素世の為人の為にと心がけ居候者にて、此度の不心得も一は有司共が忠義立のあまり彼等を虐め過ぎ候より彼等もヤケに相成候意味も有之、親殺しの企したる鬼子とし打殺し候は如何にも残念に奉存候」
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