2011年1月11日火曜日

明治6年(1873)10月25日~28日 朝鮮の崔益鉉、大院君弾劾上疎を呈出 槇村正直の拘留を解く「特命」 大久保書簡「旧参議にたいし御申し訳あるまじ」  [一葉1歳]

明治6年(1873)10月25日
・朝鮮、崔益鉉、大院君弾劾上疎を高宗に呈出
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崔は衛正斥邪運動指導者李恒老の一番弟子、以前にも大院君を弾劾し、それを閔妃一派にかわれ、10月初め、副承旨(次席秘書官)就任。
王は崔益鉉を支持、上疎を賞賛、崔を戸曹参判(大蔵省次官クラス)に任じる。
大院君は、崔の処罰を主張し、左・右議政に崔非難の上疎を出させる。
王は、崔を擁護、執拗に非難する官人を流罪にする。
また、ソウルの儒生たちも崔を批判するが、王はこれを押える。
11月3日、崔は再び上疎を呈出
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崔の大院君弾劾の内容:
強硬な鎖国政策をとり続けていれば対日戦争が起こり、壬辰・丁酉倭乱の悲劇が再現されかねない。
さらに、大院君の摂政政治にはいくたの疑問があり、それを排斥すべし。
政治が不安定であるにかかわらず、高官は正論を吐かず、直言をしない。
人事は適材適所を旨とせず、天災地変や凶作への対策は乏しく、ために国民の生活は困窮をきわめている。
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10月25日
・天皇、近衛局の佐官、近衛各兵の大隊長を集め、西郷は唯一の陸軍大将、国家柱石と表明。
近衛軍人の動揺なだめるため。
29日、近衛将校に「職務精励」を親諭。    
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10月25日
・木戸孝允、元老院設置を主唱。    
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10月25日
・太政大臣代理岩倉具視、京都府参事槇村正直の拘留を解く「特命」布達(超法規措置)。
司法大輔福岡孝弟、三等出仕島本仲道、同樺山資綱以下司法省首脳は抗議文を提出。
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「京都府参事槇村正直拒刑の罪あり、
……政府特命を下して其の拘留を解く、臣等驚き且つ怪しむ、
……拘留繋獄一に裁判所の権力に在り、恐らくは政府といえども私する所にあらず、
……而して特旨の下る所以のものは……或は怪む陰に正直を庇護する者ありて是に至るか、大日本政府の体裁に於て必ず此等のこと無きを信ず、ここに於て疑団釈然たる能わず、
……今もし政府愛憎を以て法憲軽重するが如き曖昧倒置の挙措ありと誤認せば、則ちいわん国家の大臣信ずるに足らざるべしと、
……政府何(イズクン)ぞ独り正直に寛にして人民に酷なる、
……是れいわゆる路に豺狼(サイロウ)を遣して野にある狐狸を問うの類なり、
……かかる瑣屑の事件に当り処置その宜しきを得ず、誤りて特命を瀆すに至る」
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山城屋和助事件・三谷三九郎事件の山県有朋、尾去沢銅山事件の井上馨、小野組転籍事件の槇村正直……と、汚職・不祥事を続出させていた長州派は、政変のおかげで罪跡をうやむやにできて、没落寸前の淵から這い上がることに成功した。
長州汚職閥は、明治6政変の最大の受益者であった。
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10月25日
・司法卿大木喬任、「槇村裁判に関する警保寮ポリスの不穏な動き」を大久保利通に報告。
翌月10日の内務省設置に際しては、司法省から警保寮を移管し一等寮として内務省省務の中枢に置く構想。
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10月27日
・天皇、参議と夕食。大久保の要請。内閣ひきしめ。
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10月28日
・西郷隆盛、横浜発。
11月10日鹿児島着。
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10月28日
・大久保、岩倉に書簡。
ロシアとの樺太問題交渉(クシュンコタン放火事件の善後処置と日露国境画定)では「前議の御決定」=副島時代の既定路線を踏襲しなければ、旧参議にたいし御申し訳あるまじと述べる。
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27日、大久保は岩倉に宛てて、帰国中の駐英特命全権公使寺島宗則が副島の後任外務卿に就任すれば「樺太事件御評議肝要」だが、「是非前議の通りならでは、小子においては全く信義を失い」と政策継続の必要を力説。
翌28日にも、「樺太混雑裁判の事および境界談判の事、いずく迄も前議の御決定にもとらざるよう確定」すべきであり、「此の条間違いあらば、旧参議にたいし御申し訳あるまじ、小臣においては決して朝に立つことを得ず」と重ねて念を押す。
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10月28日
1873年金融恐慌、ドイツに波及。ベルリン証券取引所、空前の大暴落。
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10月下旬
・~12月上旬、マルクス(55)、グンベルトの診察を受け一切の仕事を禁じられる。
ハロウゲイトで療養。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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