2015年1月24日土曜日

1786年(天明6年)12月 長州藩、天明民政改革(「天明六年御仕組」36ヶ条) モーツアルト、ピアノ協奏曲第25番(ジュピター)・交響曲第38番(プラハ)作曲 松平定信、老中に推挙されるが実現せず 【モーツアルト30歳】

千鳥ヶ淵戦没者墓苑の紅梅 2015-01-23
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1786年(天明6年)
12月
・長州藩、天明民政改革(「天明六年御仕組」36ヶ条)。
宝暦改革・宝暦検地・撫育方を創設した「中興の英主」7代毛利重就の晩年。
天保改革の代官中から「天明度御仕法」と呼ばれ、維新期の地方能吏に「天明六年御作法」と記されるなど、幕末に至るまで民政の最も権威ある規範として機能。

検見・年貢取立・井手川除普請・藩有林・農民貸付(修甫)米銀から出奔人取締り、村役人制など、長州藩民政の骨格部分に関する広汎かつ体系的なもの。
この改革により、村落支配権は、代官から村役人へ委譲され、長州藩の村落構造と地主制発展にとって大きな画期が置かれる。
改革の第1原則は、「地下諸入目減少」(民政の経費節約)、第2原則は、大庄屋に証人庄屋2名を付属させるなどで村役人制を強化し、代官の従来の権限を縮小して、村落支配について「村役人一途引請」体制の本格的構築。

「臨時井手川除普請」について、長州藩は、「入目定法ニして」と定額以上の支出を拒み、普請の現場差配などをすべて村役人の引請にして、もし普請後に大破した場合は「庄屋・畔頭え仕直し仰せ付け」る。
村役人は、小郡宰判の例によれば、大庄屋が宰判中第一の高持地主、庄屋が最低3町以上の田地所持者という大小地主から選任される。
宝磨期以後の破綻した長州藩治水政策(宝暦期は、幕府から大名と農民の「自普請」に転荷されていたが)は、地主・村役人の責務に一元化される。
山間部の請紙生産諸宰判を中心に続出する出奔人について、改革は、出奔人続出と地下の困窮は村役人の責任であり、今後は出奔人跡地には「新百姓」を取り立てるか、それができない場合は年貢納入を「五歩方庄屋・二歩方畔頭・三歩方組合の者」に義務づけ、「小百姓成立」の吟味は、村役人の最主要責務と規定。
年貢取立については、藩の監視役人・代官手子を廃止し、「一途地下(村)役人引請」にして「(村)役人の不締りの儀これ有り候ても公損ニハ仰せ付けられず候事」とされ、大阪へ送る年貢米も「収納劣りニて悪米これ有り、御売欠」が出た場合は村役人に「償」が命じられ、年貢米の取立実務は、村役人のみが独自に果たさなければならない義務にされる。

村役人が年貢取立や小百姓成立についての支配を請負う制度を「村請制」と呼ぶが、天明民政改革は、村役人の権限に治水から出奔人取締りをも含め、村請制を極限に至るまで追求し完成させたもの。
長州藩は、治水・出奔人・小百姓成立・年貢取立について、地主・村役人に全面的に依拠し、宝暦検地以後の洪水・旱害・出奔人と年貢増徴策破綻の悪循環を断ち切るぺく民政改革を実施。
近世後期村落に一般的に展開する地主・村役人の村内小百姓に対する経済的支配、年貢「借替」。
これは、村内の慣習になっている小百姓の未進年貢への村役人の(高利貸的な利子付の)立替払で、村役人は「借替」米銀を意図的に累積させ、累積した「借替」米銀の代償として小百姓の良田地を私的に集積。
長州藩は、この年貢「借替」を代官の監視により厳しく禁止しょうとしていたが、天明民政改革では、年貢取立の代官派遣の監視役人を全廃し、年貢の勘定や農民貸付米銀の取扱いを村役人の独自の責務とする。
地主・村役人の経済的・政治的な村落支配力への全面的に依拠する方向であり、地主・村役人の年貢「借替」を承認することであり、事実上でも、天明期から小百姓の年貢未進に対する地主・村役人の「借替」は、爆発的に増加。
長州藩は、地主・村役人の「借替」に依拠しながら年貢増徴策を再編し貫徹させ(「出奔人跡田畠」の年貢の立替納入すらも村役人の責務とされる)、天明・寛政期は長州藩財政の小康時代となる。

しかし、領主と地主・村役人の中貧農に対する二重、三重の収奪がある期間に捗って展開する時、中貧農の困窮が救いがたいまでに徹底的に進行し、文化・文政期には地主層の停滞が始まる。
「借替」が経済的負担、桎梏に転化する。
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12月4日
・モーツアルト、「ピアノ・コンチェルト ハ長調(第25番)」(K503)(「ジュピター協奏曲」)作曲。6曲の連作(第20~25番)を閉じるにふさわしい大曲。
6日、「シンフォニー 二長調(第38番)」(K504)(「プラハ」)完成(プラハ旅行にもって行き1787年1月19日に初演)。明快さ、変わり身の速さ、しなやかさとバロック音楽の対位法の重層的な表現の合一。「交響曲楽章 ト長調」(K.Anh.105(504a))(断片)作曲。
26日、シェーナとロンド「どうしてあなたが忘れられようか/恐れないで、愛する人よ」(K505)作曲。英ソプラノ歌手ナンシー・ストレース(1765~1817)の告別演奏会('87年2月23日)の為。フィガロの最初のスザンナ。コンサート・アリアの最高傑作、「実現されえない関係の理想的領域における浄化」(アインシュタイン)

『交響曲(第38番)ニ長調(プラハ)』(K504):
従来、翌年初めに企てられたプラハ訪問に携えていくために書かれた、とされてきたが、この年(1786)から翌年にかけての冬のシーズン用にウィーンでの演奏を考えて作られたものか、あるいは英国演奏旅行の準備のために用意したものであろう、というのが最近の結論。
しかし、結局、この大作をウィーンで披露する機会がないままに、翌年プラハで初めて紹介することとなった。
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12月15日
・松平定信、老中に推挙される。
一橋治済が口火をきり、御三家の徳川治保(はるもり、水戸)・徳川宗睦(むねちか、尾張)・徳川治貞(紀伊)が一致してこれに賛成。水戸藩では、治保の儒臣で彰考館総裁の立原翠軒が定信を極力推薦している。
しかし、定信の幕閣入りはなかなか実現せず。
田沼派の大老井伊掃部頭直幸(なおひで、その地位を得るために数千金の賄賂を田沼に贈ったという)をはじめ老中らは、御三家から定信推薦の通達をうけながら、将軍家斉が反対していると称して定信の入閣を拒否。

家斉の乳母で大奥の実力者である老女大崎も、尾張宗睦にたいし、老中水野忠友が定信の老中就任に不同意。同じく老女高岳(たかだけ)と滝川も、家重将軍の代に将軍の近親の者を重職につけないようにとの仰せがあったとして、定信の台閣入りに反対。
これに対し、一橋治済は、家重が縁者と言ったのは外戚のことで、定信のような近親のことではないと反駁。

次に、大奥は、定信の妹で前将軍家治の養女種姫(たねひめ)が、もし兄が在職中なにか失敗でもすると気の毒だからといって、反対していると伝えた。
こうして定信の人事は、田沼派の妨害を受けて半年にわたって停滞したが、その間、治済や御三家の執拗な運動が奏功し、大奥もしだいに軟化してゆく。
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12月27日
・田沼意次の謹慎が解かれ、江戸城出仕が許される。
翌年の年賀のさいには、老中に続いて将軍家斉に拝謁する。意次復活の動きすらある。

松平定信の意見書
「定信は溜間詰となってから後或時密に将軍に上った意見書がある、これは長文の意見書であって、中に権門の賄賂収受を禁ずる事、質素倹約の事、売女屋の事、御家人らの風俗矯正の事、或は極く細い事で新地築地の事、また火除地の事等について詳細なる意見を記したものである、これは年月日はないものではあるけれども、恐らく天明六(一七八六)年の末から七年の初頃にでも出したものかと思われる。その中に定信がかつて田沼意次を刺殺さんと欲して、窃に懐剣を持して出掛けた事が一両度もあった。しかるに考え直した事に、もし意次を刺殺したならばそれによって自分の名は世間に高くなるであろうけれども、しかしながらそのためにかえって将軍に対して不忠になり、第一将軍の不明の名を現わす、また老中衆に対して相済まぬ事であると思直してやめた。そして、自ら溜間詰の職に在るを以て、老中衆と志を合せて将軍の聡明を啓いて田沼を斥けんと欲して、自分から見れば誠に敵とも何とも申ようのない盗賊同然の意次へも日々のように見舞をして交って、田沼に屈して自分の不如意の中からも金銀を運んで、仇敵に賄賂して、外見から見れば如何にも多慾なる定信であると笑われるのをも構わず、意次の意を迎えて漸くにして席を進んで、日夜辛苦した甲斐あって遂に田沼が罷められたのによって大に自分がカを得た次第であるという事を言っている、・・・・」(辻善之助『田沼時代』)
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12月18日
・カール・マリーア・フォン・ウェーバー誕生。ホルシュタインのオイティーン。初期ロマン派の代表作曲家。モーツァルト妻コンスタンツェのいとこ。
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月末
・モーツアルト、クラヴィーア協奏曲楽章ニ短調(K.Anh.61(537b))(断片)作曲。 
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