2015年1月8日木曜日

明治38年(1905)2月2日~12日 週刊『直言』第1号発行 「本紙は日本社会主義の中央機関也」 『直言』第2号 幸徳秋水「露国革命の祖母」 

京都御苑 2015-01-01
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明治38年(1905)
2月2日
・(露暦1/20)キエフ、ワルシャワ、ハリトフ、カザンの各大学閉鎖。
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2月3日
・韓国政府、警視庁第一部長丸山重俊を警務顧問に、幣原坦を学政参与官に任用する契約に調印。
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2月4日
・アルゼンチン、急進党、軍の一部もまきこみみたび武装蜂起。前回を上回る戦果、結局敗北.
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2月5日
・週刊『直言』(第2巻第1号)を平民社機関紙とする(9月10日廃刊)。
「本紙は日本社会主義の中央機関也」。
元来、医師加藤時次郎の消費組合「直行団」機関紙(明治37年1月5日発行、編集:原霞外)で社会改良主義の月刊雑誌。これが「平民新聞」と同じ体裁で毎日曜日に発行(「平民新聞」が「直言」に改題された)。
また、『直言』の執筆者はほとんど『平民新聞』の寄稿者で、原霞外、山田滴海、堺枯川、石川旭山、木下尚江、西川光二郎、白柳秀湖、小野有香、幸徳秋水、加藤時次郎、小川芋銭、松岡文子、小田頼造、山口義三らである。

白柳秀湖:
早稲田大学文学部予科のときから『直言』編集に携わる。自分と山口孤剣・荒畑寒村を「少年義勇兵」と称し、3人とも無報酬で、原稿を活字にしてもらうことだけを楽しみに働いていたという。
秀湖は永井柳太郎、松岡荒村、山田滴海(本名・金市郎)らと「早稲田社会学会」を創立して、平民社に出入りしていた。
永井柳太郎はのちに早稲田大学教授から衆議院議員となり、拓務大臣や逓信大臣を務める(息子は教育社会学者の永井道雄)。堺は永井柳太郎について、「こゝに現はれる意外な姓名として最も大なる一つだろう。(中略)堺の出獄歓迎の十二社写真の中に、社会学会の白旗を押立てゝ居る彼の制服姿が見える」と書いている(「日本社会主義運動史話」)。

■「本紙の責任及覚悟」
本紙は社会主義の機関紙のなかで創刊の日もっとも浅く、発行部数もっとも少なく、勢力またもっとも微弱を免れないが、之を以て決して使命責任を避けるものではない。『平民新聞』に集注された全国同志の同情と援助は、さらに本紙に傾倒せられている。
社会主義の機運は明らかに熟して来ている。「天時、地理、人和、倶(とも)に之を得る者にあらずや、如此にして猶ほ起たずんば、将(は)た何の時をか期せんや」。
「今日以後の本紙は、独り満天下同志が公有の機関たるのみならず、実に其中央の機関たる者也。否な中央の機関紙たるのみならず、実に其唯一の機関たる者也。本紙の責任や大也、本紙は此大なる責任を全くせんが為めに、即ち今月今日を以て、編集社務に於て一大刷新を行ひ、発行回数を増加して週刊となし、紙幅を拡張して平民新聞大となし、更に材料を精選し、体裁を改善し、以て一飛躍を試みんとす。本紙の云為する所、果して自ら期する所に合し、同志の望む所に副ふことを得は、幸ひ甚し。」

平民社維持基金に代って新たに募集された社会主義運動基金に関して・・・。
「平民社は常に四方硝子張の如くにして、社中の事務も経済も生活も一切同志諸君の前に公表して、諸君の同情と助力とに依頼して来ました。然るに今や我々の運動は種々なる圧迫と妨害とを受けて、到底従来の形態を保つ事が出来なくなりました。四方硝子張と言ふ訳にも行かなくなりました。一切の経営劃策を暗中に行はねはならぬ事になりました。而して同志諸君の同情と助力とに依頼すること、更に多大ならざるを得ざる次第であります」と訴える。
運動基金は現に一千余円を算しているけれども、しかし数百円の罰金と印刷器械没収の賠償金を負担しなければならぬのみでなく、現状の下では公表し難い費用を要し、また将来、いかに測り難い費用を要するかも知れない。「故に我々は敢て茲(ここ)に諸君に訴へて、率直に其供給を求むるのであります」

■幸徳秋水「予は直言す」
文章は「直言」発効機関の社会改良団体「直行団」への希望をのべたもの。
文中に「予は直言す、・・・耶蘇教に至りては、尤も嫌ひ也、・・・偶像を拝して泣く人、大に嫌ひ也、・・・」あり。
21日、内村鑑三「基督教と社会主義(再び)」(「聖書之研究」第48号)で「直言」を引用し、「是を以て見ても社会主義が基督教の親友でない事は最も明白に分かる、・・・」と書く。
以後、「聖書之研究」に社会主義者の著作雑誌の公告は掲載されず。

これより前に「花巻非戦論の件」あり。
内村の門下生斉藤宗次郎は非戦論を実践すべく兵役・納税拒否を決心。12月19日、内村は花巻を訪れ「聖書の曲解」と指摘、説得。
内村は、今後予想される社会主義者弾圧に巻き込まれないため、社会主義に対する態度を鮮明にしておく必要に迫られていた。

■原霞外「『直言』活動の時」
「或夜加藤氏は僕と社会主義論に夜を更かして、談偶々(たまたま)『直言』の事に及ぶや日く、今こそ反古同様の雑誌だが、必ず一度は大活動する時が来るよ、否大に為さねはならぬ時が来るよ、ソレを楽みにお互に苦労しやう、家の費用をどんなに節約しても、此雑誌の維持金ぐらゐ出して行くよ、但し今は活動の時でないから、筆も極めて柔かく行くのが後日『直言』を役に立たせる為に必要だ。同志は何んと誤解しても必ず成程サウであったかと首肯させる時が来る。当分は社会改良主義ぐらいに止めやう。
果然『直言』活動の時は来った。あゝ昨日までは同志の間にすら辛うじて其存在を認められた、微々たる一小雑誌『直言』は、此処に社会改良主義の仮面を去って、快なる故、日本社会主義の中央機関となったのだ。」
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2月5日
・広島県横川~可部間に乗合自動車営業開始。
11月には馬車業者の反対で廃業。
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2月7日
・浦賀ドック、300名ストライキ。
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2月8日
・関西鉄道会社、奈良鉄道会社を合併。
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2月10日
・京釜鉄道開通式。
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2月11日
・軍政官神尾光臣少将、青泥窪(ダルニー)を大連と改称。
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2月11日
・森下南陽堂、「仁丹」発売。
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2月11日
・アメリカ上院、1904年末に米英仏独その他の列強間で締結の調停条約の修正案採択。
調停はハーグの国際仲裁裁判所に委ねられるが、調停を委ねる手順の複雑化で調停条約を事実上無効にし自動調停機構の発動阻止目的。
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2月12日
・永沼挺進隊、長春南方鉄道爆破失敗。
午前2時、新開河西方4kmの袁家屯に到着。
午前2時30分、爆破行(目標:長春西南25kmの新開河鉄橋64m)に出発。
午前5時前、爆破。爆薬を外部に装着しただけのため破壊は橋脚に及ばず、13時間後に修復。兵舎攻撃で田村馬造少尉(22)戦死。
ロシア側は挺身隊規模を課題評価し、3万を派出(奉天戦におけるロシア軍兵力に影響を与える)。また、講和条約に際しては、日本軍の長春進出を既成事実化させる。
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2月12日
・『直言』第2号発行。

■社説「『新人』の国家宗教」(木下尚江)
海老名弾正の、日本魂が宇宙のロゴス(道)の発展であって将来はキリスト教の神子帝国を実現し、東洋民族を感化統合するという説を、帝国主義思想の発現として反駁。

■幸徳秋水「露国革命の祖母」。
社会革命党エカテリーナ・ブレシコフスカヤの経歴を描く。秋水の認識上の矛盾(社会民主党ではなく、ナロードニキの社会革命党への共感・同情)が露呈している。
エカテリーナ・プレシコフスカヤは南部ロシアの貴族の出で当時61歳、若くして革命運動に加わり5年の懲役とシベリア終身流刑に処せられたが、脱走を企てて更に4年の刑を追加される。
1896年、欧露帰還を許されるや再び革命運動に復帰。
1902年、社会革命党組織に参画。その後、亡命。
1904年8月、アムステルダムの万国社会党大会には社会革命党の一代表として出席。
1905年、米国で故国の革命運動のために遊説し、数千ドルの応援寄附金を集めた。

秋水は、社会民主党が「工業的資本家制度の変遷し行く趨勢のみを見て、露国全体が猶ほ農業国であることを忘れ……否、農民は倶(とも)に革命を図るに足らぬと信じたらしい。斯くて彼等が……農民を度外視したのは勢力を得る能はざる所以で、明らか一の失策であった。そして彼等は此時、全然武力手段をも排斥して居た」と論ずる。

また政府の辛辣苛酷な迫害に対抗して「八〇年代の武力手段は又々採用せらるゝに決した。そして社会民主党の穏和なるに満足しないで、革命社会党は愈々(いよいよ)組織せられた。多数の青年は翕然(きゆうぜん)として之に赴き、……革命社会党中の有志は別に『戦闘団』なる一派を組織して暗殺を一手に引受け…‥斯くて革命社会党は、其創立日浅きにも拘らず、今や其勢力は燦原の勢ひを以て蔓延して居る」と述べた。
そして最後に、「鳴呼、如此き『祖母』を有する露国の社会主義者の前途は実に多望なる哉、遥かに彼女の健康を祈って叫ぶ、『露国革命の祖母』万歳!」と結ぶ。

秋水は「与露国社会党書」で、「諸君と我等は虚無党に非ず、テロリストに非ず、社会民主党也。」と論じた。
にもかかわらず「露国革命の祖母」では、往年の「人民の意志党」の伝統に則り、テロリズムをその綱領に採用し、その別働隊たる「戦闘団」は内相フォン・プレーヴェ、皇叔セルゲイ大公をはじめ政府の高官を暗殺した社会革命党に対し、明らかに社会民主党以上の同情を寄せ共感を現わしている。
後に1917年のロシア大革命の際、はじめ日本の社会主義者の間にレーニンやポリシェヴィキ理論を知る者が殆ど無かった事実を想起すれば、平民社同人が当時、社会民主党と社会革命党との本質について深い知識を有せず、マルクス主義的解釈分析に欠けていたことは理解できる。

■堺利彦「通俗社会主義」(第2号より13回連載)。
英国だけで85万部出版されたという社会主義者ロバート・プラッチフォードの名著『楽しき英国』(原題は Merrie England )の自由訳。社会主義の通俗的な解説書。平易流麗な堺の名文は原著の趣味豊かなる内容を伝えた。この年12月、由分社から『通俗社会主義』として刊行。

■「平民日記」
「安部磯雄君は相変らずマルクスの『資本論』の翻訳に従事して居ます、『こんな六かしい本を読んだ事がない……初めは一頁二時間位で出来る積りであったが、実際やつて見ると時としては一頁に五、六時間も費す事がある』との事……」とある。
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