2015年1月17日土曜日

堀田善衛『ゴヤ』(56)「宮廷画家・ゴヤ」(3) : 「フロリダプランカ伯爵は異端審問所に助力を求め、異端審問所は、小躍りしてこの命をうけた」

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フランスの革命に対しスペインはどう対処すべきか
「カルロス四世の即位式は、一七八九年一月一七日にとりおこなわれた。
・・・
一七八九年五月、フランスにおいて、ルイ一六世は三部会を召集せざるをえなかった。・・・それを召集せざるをえなくしたものは、財政上の危機であり、また全欧的な穀物の不足に由来していた。パリの市民たちは飢えていた。
・・・
パリ駐在のスペイン大使は、フェルナン・ヌーニェス伯爵である。・・・大使は次から次へとマドリードへ飛脚を送った。
穀物不足のこと、パリで暴動が起きたこと、第三身分(平民)代表が上級の二つの身分代表を無視して独自に行動を起そうとしていること・・・。
・・・パリにおけるブルボン家の有り様は次第に危険なものとなっている。これに対してスペインはどう対処すべきか。」

1789年2月28日、3月1日の暴動
「・・・スペインでもこのところ穀物が不足し、フロリダプランカ伯爵の政府は小麦の輸出禁止と価格安定令を出さなければならなかった。・・・パンの値段が高騰し、八九年に入って二月二八日と三月一日にパルセローナで二件の大暴動が起きた。政府は軍隊を派遣して、パルセローナ市当局の反対にも拘らず、九五人の謀議容疑者を国外追放処分にし、七人を絞首刑に処した。」

「フェルナン・ヌーニェス大使は次から次へと情報を送った。
六月二〇日、”テニス・コートの誓い”なるものが行われたこと、英国かぶれの連中がひどくふえて、議会というものが尊ばれて来たこと、危険きわまりないことに”共和国主義”というイデオロギーが力を得て来ていること、パリ及び地方では国民議会の趣旨に賛成を表明するための暴動が起きたこと等々・・・。」

徹底した情報管制
「フロリダプランカ伯爵・・・彼はフェルナン・ヌーニェス大使に返事を書いて次のように決意を表明している。
「この啓蒙の時代が人間にその権利を教えたと言われている。けれどもこの時代は、人間の真の幸福のみならず、人と家族の平和を完全に奪い去った。我々は当地にあって、多すぎる光り(啓蒙)もその反映をも望まない。その反映とは、合法的権威に対する無礼な行動や言葉や、文書である。」
実のところ、フロリダプランカ伯爵は、早くから手をうっていたのである。彼は自らを議長とする閣僚会議に行政を一本化し、従ってフランスからの政治情報を一切公表させないことを政策として決定出来るようにしておいたのである。彼自身もある程度までは啓蒙派であり、フランス派でもあった。しかし体制の必要が一切に優先した。
フランスからの政治情報は、いかなる新聞にも週報にも一切のらなかった。徹底した情報管制をしいた。鎖国である。」

「この完璧な報道管制は、三年間もつづいた。
スペインは、聾になってしまった。」

1789年9月21日 カルロス4世戴冠記念大祝賀会
「・・・九月二一日から八日間にわたる、公式の、カルロス四世戴冠記念の大祝賀会が開催されることとなった。お祭りは政治を忘れるためのものである。
スペイン全国から六万五〇〇〇人の代表がマドリードに集り、プラーサ・マヨールと呼ばれる広場で行われた闘牛には四万を越す人数を収容する桟敷が組まれた。またフランスを除く、全ヨーロッパの王室からは祝賀特使団が派遣されて来た。
しかし、大変な数にふくれ上った民衆は、ピレネーの北側の民衆とは異り、秩序正しい守礼の民であった。警察の世話になる者もごく少かった。全欧各国から来た特使たちは、スペイン民衆の柔順さ、信心深さ、現状に対する満足感の表明に一様に深い印象をうけた。
お祭りは民衆にとって政治を忘れるためのものであったが、支配者にとってはそれは政治のための好機である。」

カスティーリア評議会
「フランスにおける三部会同様に、長いあいだひらかれたことのないカスティーリア評議会なるものが開催され、スペインの三七の都市代表が参加させられた。議長はカンポマネス伯爵で、審議は一切非公開で議事進行の状況も秘密である。」

「議題は三つあった。一はカルロス四世の子、フェルナンドを王位継承者と決めること及び継承法の改正、二、貴族の限嗣相続権の制限、三、果樹園に囲い込みを許すこと、以上の三つであった。
皇太子の決定と継承法の改正は認められたが、他の二議案は廃案となった。誰もが何にせよ現状を変えることに興味がなかったからである。
二ヵ月間つづいた(!)この会議で、如何なる意味でも王権に関する論議などは、一つもなかった。」

「「この評議会とフランスの国民議会との、何という対比であろう! 王が君臨して閉会を宣したとき、全議員は脱帽して頭を垂れ、跪いていた。」
というのが、プロシャから来ていた特使の報告であった。」

フロリダプランカ伯爵は異端審問所に助力を求め、異端審問所は、小躍りしてこの命をうけた
「しかし、いくら鎖国をしたからと言っても、フランスとスペインは地続きであり、海岸には港がある。そうして港町、特にカディスにはフランス人商人たちの大きなコロニーがあった。ブルジョアジーである商人、銀行家たちがこの革命を歓迎したのは当然である。
・・・
事実、七月一四日のバスティーユ襲撃は、二週間後の二七日には、すでにマドリードに知られ、人々は興奮して、しかし小声で、酒場での話題になっていた。夏の終りには、封建的特権の廃止と、人権宣言が出たこともスペインは漠然とながらも知ってしまっていた。フランスからの新聞や雑誌が滲み込むようにして入って来る。しかも昂奮した在留フランス人たちは、革命的パンフレットをせっせとスペイン語に訳して誰彼となく配布をしはじめた。フロリダプランカ伯爵のしいた防疫線は内側から突破されてしまった。
たまりかねたフロリダプランカ伯爵は九月一八日と一〇月一日の二回、王命を出して、「フランスにおける最近の出来事」に直接間接に言及したあらゆる印刷物、出版物、原稿、箱、扇及びその他一切の没収を、国境及び港の税関吏に命じた。
それと同時に、伯爵は異端審問所に助力を求めた。
「我等の尊崇する王とイエス・キリストの代理者に対して我等が負うところの臣従、服従、柔順、尊敬に直接間接に反対する」文書や原稿を集めよ。「如何となれば、かかる観念は反福音的なものであり、聖なる使徒ペテロ及びパウロの教義に、明白に反するものであるからである。」
近頃ではあまりすることがなくて困っていた異端審問所は、小躍りしてこの命をうけた。・・・」
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