2015年3月9日月曜日

1787年(天明7年)5月18日~21日 天明の打ち毀し 江戸に飛び火し市内に拡大 「江戸開発以来未だ曾てあらざる変事地妖と謂ふべしと諸人言ひけり」 【モーツアルト31歳】

北の丸公園 2015-03-05
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1787年(天明7年)
5月18日
・江戸に打壊し。
米価高騰。本所・深川の米屋。20日、赤坂・田谷・青山へ波及。21日、芝金・本芝・高輪・新橋・京橋・伝馬町。24組5千人、厳しい掟。

5月18日、本所扇橋と深川六間堀あたりで玄米屋・春米屋(つきごめや)が多数襲撃されたのが、江戸の大打ち毀しの直接の前ぶれとなった。

この月、江戸・大坂をはじめ岩槻・甲府・駿府・福井・和歌山・大和郡山・奈良・堺・淀・伏見・大津・尼崎・広島・尾道・下関・博多・長崎と、各地の主要都市にほぼ同時的に打毀しが起り、1ヶ月間に30件余と、江戸時代最高の都市打毀し件数に達し、さらに翌6月、熊本・久留米・伊勢山田・小田原・神奈川・石巻・弘前へと波及した。
幕臣森山孝盛は、日記に「同時之諸国騒動之段不審」と記す。

打ち続く天候異変や災害・飢饉のために、1786年の全国収穫は平年作の1/3となり、加えて86年冬から87年春にかけて飢饉が深刻化したことから米価や諸物価が高騰した。
商人の買い占めや売り惜しみが横行し、江戸の米価は、田沼失脚直前の86年6、7月に1両=7~8斗であったのが、暮れまでに4斗~4斗3升、翌87年春には3斗3升~3斗6升まで上がった。4月に少し落ち着いたものの、5月には再び急騰し、1両=1斗ほどまでになった。物価も高騰し民衆は大いに困窮した。
これに対処すべき幕閣は何の措置も取らず、奉行所もまた動かなかった。

20日、江戸の本格的蜂起が始まり、以後24日頃迄昼夜の別なく、南は品川、北は千住まで江戸中の米屋・富商の家々を打毀し、全くの無政府状態となる。逮捕者のうち職業等の判明する者30名についてみると、左官・足袋・挑灯張・蒔絵・髪結・屋根茸などの小職人、前栽・肴・傘・真木・建具などを売る小商人、船乗り・日雇などで、この打毀しの主体的勢力は、裏店借の小職人や天秤棒をかついで野菜や魚を売り歩く「棒手技」小商人などの江戸下層民である。30名中23名が江戸生れ、7名は関東近在の農民出身で江戸への流入者である。
打毀しの対象は、同一町内か近隣の町の米屋・富家で、江戸の夫々の地域内における上層町民層と下層貧民層との矛盾対立が、表面化したことを物語る。
また領主権力と癒着する御用商人に対してほ、特に容赦ない打毀しをかけ、田沼意次の囲米の襲撃をも意図したりしており、その底には、反権力・反田沼意識が読み取れる。

5月20日江戸深川六間堀町(東京都江東区)の裏長屋に住む提灯張職人の彦四郎ら8人は、近所の富裕な米商人に施米を要求し、聞き入れられない場合には打ちこわしを行うことを密かに決定した。その夜彼らは深川森下町の米商人伝次郎の店に押しかけ施米を要求した。しかし、店側がこれに応じなかったため、8人は家の中に踏み込み、商品、建具、家財などを散々に打ちこわして引き揚げた。そのさい1品1粒とも盗みはしなかったという。
同じ頃、赤坂、四谷、青山などでも米屋が打ちこわされた。
翌21日昼ごろには芝金杉付近から本芝、高輪付近、新橋、京橋が襲われ、また、夕方には日本橋から浅草蔵前の札差と神田、本郷一帯の米屋が襲われた。
以後24日まで昼夜の別なく江戸の町全体で打ちこわしが展開した。米屋のほか升屋善太郎、丸屋三郎兵衛など幕閣と結託する関八州の独占的な御用油屋、さらには質屋、酒屋なども打ちこわされた。

22日から騒動は殆ど全市に広がり、特に麹町など山の手の被害がひどかった。
この日までに府内の米屋980軒が打ちこわされ、その他、酒屋・質屋・菓子屋・木綿屋・紺屋・薬屋・油屋・味噌屋・蕎麦屋などの、日用品を売って暴利をえていた商家約8千余軒も襲われた。

なお明和5年(1768)の大坂家質奥印差配所の設置反対騒動を扱った絵草紙『梅花香二王ノ門日』では、仁王が打ちこわしの先頭にたって大暴れするが、この江戸の打ち毀しでは、何者とも知れぬ十七、八歳の美麗な前髪姿の大若衆、または六尺ゆたかの大入道が先にたち、無双の大力で大八車を軽々とふりまわして戸をつきこわしたり、土蔵の金網を片手で引きやぶったりして大活躍したと伝えられる。これは打ちこわしの勇敢な指導者を偶像化しようとする民衆心理の生んだ創作であろう。

こうして江戸は3日間、無政府状態におちいり、幕府も一時は鎮定のすべを失った。
家持たちは各町ごとに自警組織をつくり、竹槍で武装して不穏分子の潜人を防ごうとしたが、打ち毀しの参加者はみな町内のものだったから、なんのための自衛組織かと嘲笑される始末。
この騒動は当時の記録にも、江戸中の町々が同日同時にいっせいに蜂起したのは、不思議なことだと述べているように、横の連絡がなかったとは思われないふしがある。

打ち毀し参加者の統制もよくとれ、道に散乱した物を盗んで逃げるものがあれば、それを取り返して捨てておくというように、町火消の掟によく似ていたという。また目的の特定の商家だけを襲い、打ち毀しをかける前に行燈を消させて火災に注意するなど、「誠に丁寧礼儀正しく狼籍」したと『森山孝盛日記』は伝えている。

幕府では、23日になってやっと老中・三奉行らが協議し、町奉行や先手見廻り組を巡廻させて治安の回復に当たらせる一方、町内ごとに騒動参加者を召し捕り、あるいは密告させている。また金2万両と米・大豆各2万俵を窮民の救済に投じて民心の安定をはかった。

結局、24日まで昼夜の別なく江戸の町全体で打ちこわしが展開した。
米屋のほか升屋善太郎、丸屋三郎兵衛など幕閣と結託する関八州の独占的な御用油屋、さらには質屋、酒屋なども打ちこわされた。

この間、幕府は有効な対策が打てず、江戸は無警察状態になった。町奉行が与力・同心を従えて出動したが、多数の打ちこわし勢には効果がなかった。
5月24日に、長谷川平蔵ら御先手十組が巡察を行う一方、大手門外にお救い小屋を設置して窮民を保護し、騒動はようやく鎮静化した。

打ちこわしの参加人数は不明であるが、一説では5千人と言われる。
彼らのほとんどは、裏長屋に住むその日暮らしの庶民であった。
蘭方医の杉田玄白が著した『後見草』によれば、
「誰頭取といふことなく、此所ここに三百、彼所かしこに五百、思ひ思ひに集りて鉦(かね)・太鼓を打ちならし、更に昼夜の分ちなく、穀物を大道に引出し切破り」
と、だれが指導者ということもなく、自分の判断で行動していたと記されている。

しかし、彼らの行動は、高度に規律化・組織化されたものであった。
たとえば京橋南伝馬町の米商万屋(よろずや)作兵衛の店を襲った一団は、鉦や拍子木で合図をし、中休みをとりながら打ちこわしを行ったという。
その他の場合も、打ちこわし勢は、目指す特定の豪商だけを打ちこわし、隣家には害を及ぼさないようにし、特に火の用心には注意していた。また、打ちこわし勢には、めざす家の建具や家財は打ちこわし、米や雑穀を道に散らかすが、盗みはしないという規律があった。『津田信弘見聞集』に
は、「誠に丁寧、礼儀正く狼籍に御座候」と記されている。
この規律について、『蜘蛛の糸巻』には、「同類盗みを禁じたるは、いはゆる江戸っ子なるべし」とあり、「町火消の掟によく似たり」と、首都江戸を代表する江戸っ子や町火消の作法が用いられたことが記されている。打ちこわしは、当時禁止された徒党ではなく、喧嘩扱いとなるよう工夫していたのである。

逮捕された総数は不明であるが、現在残っている町奉行所の記録では37人(うち9人吟味中病死、5人逃亡)についてだけ、その行動と判決内容を明らかにすることができる。

階層は、人宿寄子(ひとやどよりこ、奉公先がきまらず口入れ人の家に寄宿している者)1人を除くと、あとは全部店借(たながり、借家人)と店借同居人である。職業は、商人17、職人9、日雇2、無職・船乗り各1である。商人といっても魚・野菜などを行商して歩く棒手振りであろう。出身地をみると、江戸生まれが23人で圧倒的に多く、残る7人も江戸近国の農民の子弟で、江戸に奉公・出稼ぎにでて小商人や職人になったものが殆どで、既に数年以上江戸に住んでいる。年齢は20代・30代が24人で大部分を占めている。

彼らはみな法廷で、騒動の様子をみて、ふっとおもしろくなって参加したと述べているところをみると、打ち毀しの指導者とは認められないようである。
判決も入墨のうえ重追放が20人(うち1人吟味中病死)、重敲(じゆうたたき)のうえ重追放1人、重追放1人、垂敲のうえ中追放6人(うち1人吟味中病死)、入墨1人、敲1人となっていて、死刑になったものはいない。

このように、江戸打ち毀しの主体的勢力は地借・店借といわれる九尺二間の裏店住いの小商人・小職人、あるいは日雇などの町方小前層であったことがわかるが、この傾向は別に江戸打ちこわしにかぎったことではなかった。

打ちこわしの直後にある武士が書き、数年後に松平定信に献じたといわれる改革意見書「夢物語」は、1733年(享保18)の江戸最初の打ちこわしに比べ、今回の打ちこわしは100倍も恐ろしいと述べ、もし打ちこわし勢に知恵のあるリーダーが出現したり、武士が共鳴して武力を用いたならば、よほどしっかり対応する必要があると述べている。
松平定信もまた「先年関八州の中上州の民家騒動せしさへ、将軍の御威光薄く御恥辱と思召給へしに、此度武陽の騒動御膝元まで此ごとく其罪を赦捨置事、政務の取計ひ違ひといへながら、上を見透しぬいたる事、前代未聞、世の衰ひ此上有べからず、誠に戦国よりも危き時節と予は覚へたり」と、首都江戸の騒乱状態を、戦国時代をひきあいに出して深刻な危機感を表明している。
辻善之助『田沼時代』
「天明の打こわしの騒動は、まず大坂から始まった。七年五月十日から十二日に及んで、大坂の市中において、町人数十人が蜂起して米問屋二百余軒を打毀わした、なおまた富豪の家にも闖入して乱暴を働いた。中にも尾長谷屋というのが最も酷く打毀わされた。これと同時になお、京、奈良、伏見、堺、山田、甲府、駿河、広島その他中国・九州の国にもかような騒動があったそうである。が、その中最も激しかったのは江戸の騒動であった。天明三、四年の頃から年々の凶作で米価が非常に騰貴した、そのために人民が大に苦んでおった。七年の春に及んでは江戸の御蔵前の張紙が三斗五升入が百俵について百八十両、夏の張紙が三斗五升入百俵について二百二両という相場であった。その頃の普通の米相場は天明前後に一石について五十匁か六十匁の間であった。二百二両というのは、これを銀に換算すると天明の七年の相場で一両が五十七匁であるから、十一貫五百十四匁になる。即ち一俵がおよそ百十五匁余になる、一石がおよそ三百三十匁ばかりに当るので普通の五倍乃至六倍以上に当っている。そういう相場であったので町民どもは一同大に困窮に及んだ。

しかるに町々の米屋らは諸人の苦みをも顧みず、各々米を買い占めた。幕府では、その買占めた家を取調べて封印をつけて勝手に売ることを許さず、伊勢町において五日の間庄屋・名主の切符を以て売渡すべしということにした、幕府が人民保護のつもりで出したこの令はかえってますます売買の道を塞げて、人民を苦めた。飢死せんよりは、その米屋らをやっつけろというので、ついに、暴民の蜂起を見るに至った。騒動は五月十八日に始った。その日、本所扇橋辺、深川六間堀辺で玄米屋・春米屋(つきごめや)を夥しく打こわした。一日を隔てて、二十日に至り、赤坂辺から、山の手、四谷、青山辺の玄米屋・春米屋を残らず打こわし、翌二十一日には、芝金杉辺から、本芝、高輪辺の米屋を残らずたたきつぶし、次に新橋辺から京橋辺、南伝馬町の米屋は申すに及ばず、乾物屋まで打こわし、さらに進んで、日本橋に及んだ。本船町の白子屋仁兵衛という玄米屋の二階には、あとで見たらば大八車が二輌もちこんであったという。夜に入っては、小網町、小舟町から鎌倉河岸に及び、一方には、大伝馬町、油町、馬喰町辺から御蔵前の蔵宿残らず打こわし、また神田明神から湯島・本郷辺にも及んだ。二十二日までに打こわされたという処は、あらまし、左の通りであった。

日本橋、中橋、京橋辺、新橋、尾張町、霊岸島、亀島、本所、深川、本石町、白銀町、堺町、元大坂町、難波町、和泉町、高砂町、乗物町、長谷川町、橘町、富沢町、両国近辺、横山町、小伝馬町、大門通、橋本町、柳原、浅草馬道、山の宿、山谷、坂本、箕輪、千住、駒込、巣鴨、小石川、牛込、大久保、市ケ谷、麹町、麻布、白銀、三田通、芝、築地、鉄砲洲、八町堀、新川新堀、茅場町

すべて町続の所で、玄米屋・春米屋は、一軒も残らず破壊せられた。『一語一言』にはその米屋の名前がくわしくしるしてある。今度の災を免れたのは、ただ元飯田町ばかりだという。これは、士屋敷(さむらいやしき)が中に交りている上に、屋敷屋敷から手廻しをして、人を配置して、警戒していたからである。千住の伊勢尾長兵衛という家があったが、前年大水の時、日本堤の上に米を出し臼をならべて、つかせ、多くの人を救うた事があるので、暴民らは、この家は前年人を救うた家だからこわすのはよせよという事で、災を免れたという。暴民の数はおよそ二十四組で総計五千人ばかりで鳶の者というふうのものはなくて、皆奉公人或は浪人等の普通のなりのものであった。その人数の中に、十七、八とも見ゆる美少年が一人おって、飛鳥の如くかけめぐり、これが先に立って指揮をしながら、金剛力士の如き大力で、大八車を以て戸をつき破り、或は土蔵造の金網を片手に引破った様子は、目ざましいものであったという。騒動がしずまってから、この少年は何処へいったか、何国の誰という事を知るものがなかったというので、或は暴神の顕われましたのだろうなんかという人もあった。その打潰し方は、米、大豆などは途中へ打散して山のように積出しても少しも盗取らず、家財道具は障子屏風等もひき出して、やぶりちらし、小袖、帳面等もやぶりすて、火の元には念を入れていた。酒屋だとか、または、菓子屋などは、酒とか菓子とかを振舞って、無難に通ったのもある。酒食は貪(むさぼ)ったが、盗は決してしなかった。もし道路に散ったものを取って逃る者があったらは打毀し連はこれを取返して、打擲して、取ったものは、引破り、捨てて置く事は、町火消の掟によく似ていたという。幕府においては、町奉行、作事奉行、勘定奉行、寺社奉行らを召集して、老中らと評議に及び、俄かに出兵に決し先手方を出張せしめて六組に分って巡視し、ついでまた十組に増し、もし手に余る場合には、切捨にすべしと命じた。見付見付では、棒突(ぼうつき)六人に小頭を添えて、夜は高灯燈で張番した。戒厳令が布かれた有様であった。世間では「これ式の儀に、天下の御門番高張にて警固致され侯には及び申すまじく」という批評があった。かようにしてようよう暴動は治まったのである。二十四日に至り、幕府は廉価を以て米、雑穀を売り出して、窮民の食を給し、また金二万両、米六万俵を出して賑救した。この騒動は実に「江戸開発以来未曾有の変事地妖」であった。「却て書付咄しにいたし候は大忩(そう)成るものに御座候処、この度の儀はこの方にてさえ咄に承り候より見候者の方大に驚き入り、中々三ケ一も認め取兼ね候、誠に乱世同様に御座候」といわれた。」(辻善之助『田沼時代』)

「翌年天明七丁未五月、玄米両に二斗五升、麦八戸、大豆六斗。同月十日頃、白米百文に付三合五勺、豆七合。同廿八日頃、百文に付三合。御蔵米三十五石に金二百五両、一両に一斗七升、銭は一両に五貫二百文。ここに至り米穀動かず、米屋ども江戸中戸を閉ざす。同月廿の朝、雑人ども赤坂御門外なる米屋を打毀す。同日同刻京橋伝馬町三丁目万屋佐兵衛、万佐とて聞えたる米問屋を打毀す。此時おのれ十九歳、毀したる跡を見たるに、破りたる米俵家の前に散乱し、米ここかしこに山をなす。その中に引破りたる色々の染小袖、帳面の類、破りたる金屏風、毀したる障子、唐紙、大家なりしに内はすくやうに残りなく打こわしけり。後に聞けば、初めは十四五人なりしに、追々加勢にて百人ばかりとぞ。同夜中、小網町、伊勢町、小船町、神田内外、蔵前、浅草辺、千住、本郷、市ケ谷、四ツ谷、同夜より翌廿二日に至りて暁まで、諸方の蜂起、米屋のみにあらずとも富む商人には手を下せり。然れども官令寂として声なし。廿二日午の刻、町奉行出馬。並に御手先方十人捕へ方の命あり。又竹槍御免、死骸訴へに及ばざるの令、市中に下りし故、木戸木戸を締切り、相議して相言葉をつくり、互に加勢の約なし、拍子木をしらせとす。ここに至りて蜂起もまた寂として声なし。江戸開発以来未だ曾てあらざる変事地妖と謂ふべしと諸人言ひけり」(「蜘蛛の糸巻」)。
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