2015年8月19日水曜日

藤田嗣治 『アッツ島玉砕』 国立近代美術館(常設展示 「誰がために戦う?」) : 「「戦争記録画」を単なる戦争賛美画ではなく,戦争の悲惨さを表現した戦争画であると見直す動きが出てきた。しかし,総力戦であった大東亜戦争・アジア太平洋戦争を一副の絵で表現するのは困難で,画家の戦争観の影響した主題が問題となると思われる。」







▼鳥飼行博研究室(Web)より長い引用

◆戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕◇ War Pictures

(略)

6.戦争画には,戦争賛美,戦争殉教,戦争記録,反戦画などさまざまな側面がある。最近,藤田嗣治の「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」のような「戦争記録画」を単なる戦争賛美画ではなく,戦争の悲惨さを表現した戦争画であると見直す動きが出てきた。しかし,総力戦であった大東亜戦争・アジア太平洋戦争を一副の絵で表現するのは困難で,画家の戦争観の影響した主題が問題となると思われる。

図(右):藤田嗣治1943年作「アッツ島玉砕」;最期の一兵まで戦い捕虜を出さないことを誇りにした日本軍にとって,殉教画にも等しいと感じてもらえれば,その意図を達成したことになる。日本軍は,勇ましい勝利しか戦争画として認めないというのは,あまりにも単純化した見方である。荘厳な死を迎える「殉教画」を高く評価する日本の軍事的指導者も少なくないはずだ。

凄惨な体当たりに,神風特別攻撃隊「敷島」「大和」「朝日」「山桜」部隊という国学者本居宣長の短歌由来の典雅な部隊名を考案しているのであるから。これは源田実中佐が軍令部で「愛国百人一首」を眺めて命名したのであろう。1943年「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」が波平暁男/伊藤武雄/伊藤久男によって歌われた。作詞 裏巽久信,作曲 山田耕筰。

藤田嗣治は,1943年5月29日、アラスカのアリューシャン列島西端での『アッツ島玉砕』を描いた。アッツ攻防戦は,米軍の戦死550名に対して日本軍の戦死は2,638名という殲滅戦であるが,日本の大本営は翌日,「玉砕」と呼んで公表し,国民の士気を高めようとした。守備隊長山崎保代陸軍大佐は「軍神」とされ,死後,中将に二階級特進した。敗北を糊塗するために「玉砕」という美名を冠して,英雄叙事詩を作り出そうとした。この戦いに感動したのか,芸術家として活躍の場を嗅ぎ取ったのか,3か月後開催された「国民総力決戦美術展」に藤田嗣治は「アッツ島玉砕」を出品した。


写真(右):アッツ島で万歳突撃して殺害された日本軍将兵;藤田嗣治の戦争画では,日本軍が追い詰められて最後を全うした姿が非情に描かれている。実際,野ざらしになった戦死した日本兵が,米兵の前に晒されている。勇敢に最期まで国体護持の使命を全うした日本軍といった構図は真実を表したものなのか。40名の日本兵の遺体が積み重なっている。U.S. Army Signal Corps引用. The photo shows just where the soldiers fell. Later these bodies were removed and buried. 藤田嗣治「アッツ島玉砕」は,この米国陸軍の公式写真とそっくりな構図である。米軍が大勝利として陸軍週報などで公開した写真を藤田が日本陸軍から手渡されて参考にしたのであろう。もし,この写真を基にしているのなら,無残に敗れたという印象を拭い去るために,最期まで徹底抗戦したという構図に変更したことを意味する。これは,のちの全軍特攻化の前触れである。少なくとも,現在,多くの識者が指摘するように,藤田嗣治「アッツ島玉砕」が軍の意向に沿わなかったということは,まず,ないであろう。白兵戦の真価を発揮するかのごとき,降伏しない徹底抗戦は,軍が強調したかったことである。日本軍こそが「玉砕」の語を広めたのである。

戦争画を、戦争協力のためのプロパガンダとして糾弾するのはやさしいが、戦争画を読む(11)藤田嗣治と戦争画でも、藤田嗣治「アッツ玉砕」について,次のような評価している。

 絵は、凄惨な殺し合いがあるだけの残酷な(ある意味で戦争の実態を描いた)絵画である。この頃から藤田の戦争画は酸鼻なだけで、かえって国民の戦意を喪失させるだけだ、との意見が軍部から出始めていた。軍部の考えていた戦争画とは、戦争記録画であり戦意高揚画(=プロパガンダ絵画=《英雄譚》)だったからである。

 しかし、軍部の意見とは逆に、国民からの藤田の戦争画の人気はかえって高まっていく。藤田の『アッツ玉砕』の前には賽銭箱が置かれている。そして作者がその横に立ち、賽銭が投じられるたびに頭を深く下げる。---これは美術展ではなく、宗教行事の場なのである。---美術展を訪れる人々は、アッツ島で戦死した人々に対して、鎮魂の儀式を行っているのである。---自分の《絵画に対して》ではなく、《絵画を通して戦死した人々に対し》敬意が払われている。これはまさしく「殉教画」なのである。

 『この絵は、確かに俺が描いたのだが、俺が描いたのではない。死者の霊が、俺の腕を借りて、それを描かせたのだ』。

藤田を代表とする力量のある画家たちは、軍部のプロパガンダの意図を乗り越えて、あるいは制約にもかかわらず、美術の持つ力を見せてくれた。----近代日本で初めて普遍的な「宗教画」を描いた。それは、特定の宗教ということではなく、「人の死を悼む」という宗教的感情を率直に示したものだった。ただ、それが戦争中だったことが、美術界にとっても、画家個人にとっても不幸だった。(→戦争画を読む(11)―藤田嗣治と戦争画引用終わり)

図(右):ウィリアム・ドラッパー1942年作「平和の休息:アムチトカ島上陸作戦」Rest In Peace (Solders Pause During Landing Operations)William F. Draper、Oil on board; 1942;シービーズと呼ばれた飛行場設営部隊がアリューシャンAleutian列島アムチトカAmchitka島に飛行場を建設する様子を描いている。戦闘部隊だけでなく設営部隊もが過酷な環境の中で頑張っています,お国の役に立っていますということを訴えているようだ。

藤田嗣治は、「絵画が直接にお国に役立つと言う事は何と言う果報なことだろう」、「いい戦争画を後世に残してみたまへ。何億、何十億という人がこれを観るんだ。それだからこそ、我々としては尚更一所懸命に、真面目に仕事をしなけりやならないんだ」 といったという。

「絵として美術史的に重要なら、フジタ自身としても最高のもの」との美術評論家(洲之内徹氏)の評価があるという。『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を全うす』などは、プロパガンダ絵画としての「戦争画」を越えて,普遍的な「宗教」、人の死を悼むという宗教的絵画の域にまで達しているという。

問題は、画家本人が体制に追随しているにもかかわらず、描いた作品が、彼らの意図すら乗り越えたものになってしまうという、ある意味で矛盾した、皮肉なプロセスだと評している。(戦争を背負った画家/藤田嗣治引用終わり)

 真珠湾一周年を期して開かれた第一回大東亜戦争美術展の様子を、夏目漱石や与謝野鉄幹などと交わった洋画家、石井柏亭は次のように語っている。「藤田(嗣治)氏の画を前にして、私は観客の一人が感謝の頭を下げて居るのを見て、戦争美術展の公衆に対する特殊な意義のあることを思わざるを得なかった。」また太平洋戦争における日本軍玉砕として大々的に報じられたアッツ島守備隊の全滅を描いた藤田嗣治の「アッツ島玉砕」(193×259㎝)は、陰惨な死闘の情景が描かれたものであるが、国民総力決戦美術展に出品された作品の前には、賽銭箱が備えられていたという。

 敗戦の四ヶ月前まで美術雑誌が出版され、美術展覧会が一ヶ月前まで開かれていた特殊な戦時下における美術優遇は、奢侈品等製造販売制限規則(1940年)から美術品が除外されたときから運命付けられていたという。(→さまよえる戦争画――従軍画家と遺族たちの証言引用終わり)

プロレタリア美術と戦争画における「国民」的視覚 :小林俊介(山形大学教育学部)2003では、映像的・瞬時的な国民的視覚に基づく戦争画が、歴史画的な時間性を表現し切れなかった理由として,報道写真を写したような、国民に周知の映像に依存したことを指摘する。他方,藤田嗣治の戦争画が歴史画的な時間性を獲得したのは、画法だけではなく、玉砕戦の描写が、軍と藤田がかくあるべしと想像する「絵空事」であったことに依存すると考える。戦局の悪化した時期、報道写真の入手は困難であり、物語性を復活させ、「殉教図」として「礼拝」の対象にさえなったとする逸話を紹介する。

「玉砕」の出典は,北斉書元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(人間は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」とされるが,最初に使われたのは、1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が壊滅した負け戦の時である。日本軍敗退は明らかであったが、敗北の責任を回避するために「玉の如くに清く砕け散った」と喧伝した。藤田嗣治が「アッツ玉砕」を描いたのも、それに触発されたのであろう(あるいは軍から要請されたのか)。それ以降,守備隊殲滅という日本軍敗退は,1943年11月22日タラワ戦(ベティオ島),1944年2月5日クェゼリン環礁,7月3日ビアク島,7月7日サイパン戦,11月24日ペリリゥー戦,1945年3月17日硫黄島,1945年6月23日沖縄と続く。これらはみな「玉砕戦」と呼ばれた。

「玉砕」のこのような見解も成り立つかもしれないが,web鳥飼研究室では,戦争の具体性に触れつつ,独自の見方を提供してみたい。軍民ともに運命をともにし,最後の一人(一兵でなく)まで戦うという「一億総特攻」「玉砕戦」は、「戦争殉教」そのものである。したがって、戦争殉教画が、戦争協力を訴える側面も指摘できる。「悲惨な末路を描いた戦争殉教画であるから,戦争協力画ではない」との見方には賛同できない。

画家であっても,戦時中に活躍の場を与えられるどころか,徴兵され,戦地に赴任し,戦病死した元画家・画家志願者もたくさんいた。語りつぐ戦争(15)「戦地に散った若き画家たち」には,次の画家たちの言葉が紹介されている。渡辺武27歳「せめて、この絵具を使い切ってから征きたい」沖縄で戦死

蜂谷清22歳「ばあやん、わしもいつかは戦争に行かねばならん。そうしたら、こうしてばあやんの画も描けなくなる」レイテで戦死。

結城久30歳「自分は、這いずってでもきっと還ってくる」

岡田弘文28歳「絵はもうやめる。戦争が終わったら、子どもを集めて絵を教えよう」

現在も,生き残った,元飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊)伊藤直之氏のように,当時のスケッチを参考にして航空戦の様子を描いた戦争画がある。戦死者を追悼するとして,戦死者追悼画家 松本武仁氏のように特攻隊や沖縄戦などの戦争画を写真を参考にして書いておられる方もいる。

7.1943年5月,アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が全滅,1944年7月にはサイパン島が陥落した。日本の大本営は即座に「アッツ島玉砕」「サイパン島玉砕」を公表した。藤田嗣治「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」は,陰惨で戦争殉教画であるとの評価も受けている。軍部が厭戦画(反戦画)であるとの烙印を押したという伝説まである。しかし,戦争殉教は,死ぬまで戦う,降伏し捕虜にならないという徹底抗戦,民間人も含めた一億総特攻の戦略には,整合的である。玉砕戦を英雄譚,英雄叙事詩とすることこそ軍の要請であった。実際には,捕虜や投降者も少なからずいた「敗戦」を「玉砕」とするために,悲劇的な戦争画は有益であった。

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究極の戦争画-藤田嗣治 @NHK: 極上美の饗宴 7.11

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 アッツ島はアリューシャン列島の最西端の島。日本軍は、飛行場建設のため、ここに2600人の守備隊を置いていた。昭和18年5月12日に米軍が上陸し、指揮官の山崎保代大佐は大本営に増援や物資弾薬の補給を依頼したが、まったく返答がなかった。このため、アッツ島守備兵は最後の夜襲を行った。

 藤田の《アッツ島玉砕》では、この時の肉弾戦の様子が描かれ、立ち上がって号令をかける日本の指揮官、米兵に銃剣を刺す日本兵が描かれている。

 米軍の捕虜となってアッツ島から生還した佐々木一郎氏の証言では、「圧倒的に性能の良い米軍の鉄砲に向かって突撃していっただけで、とても肉弾戦といえるものではなかった」とのことである。

 昭和18年5月30日の大本営発表は、「山崎部隊は増援や補給の依頼を全く行うことなく、全員玉砕した」と伝えた。「全滅」に対して「玉砕」という美化した言葉が使われたのは、この時が最初である。

 藤田は20日余りで、まったく想像でこの画を描いた。「戦地に赴かなくても、ちゃんとした絵描きならチャンバラは描ける」と豪語していたとのことである。

 三か月後に、上野でこの画が公開された。画の前には賽銭箱が置かれ、人々はこの画の前で手を合わせた。藤田は軍装で、直立不動の姿勢で画の傍に立っていた。何かが乗り移ったようだったとのことである。藤田は、自分の画が拝まれたことを見て、「これこそ快心作だ」といったともいう。

 菊畑茂久馬氏は、この画から崇高な祈りが生まれてくるのを目撃して、自分自身、感動に立ちつくした記憶があるとのこと。「藤田は、絵描きの業として、西洋人に匹敵する歴史的名画を描く好機が到来したと思ったのであり、この画はプロパガンダといったものを突き抜けた名画である」というのが菊畑氏の意見である。

 東京国立近代美術館美術課長の蔵屋美香氏は、「西洋で位の高いとされている歴史画に挑戦してみたかったのでは」という説明をされた。「藤田がフランスで描いていたのは、乳白色の肌の裸婦像だったので、戦争が歴史画としての格好の画題だったのだ」という一般的な見方を紹介された。

 「山崎部隊合同慰霊祭」では、2638名が「軍神」として祀られ、アッツ島玉砕が紙芝居や顕彰国民歌のテーマとなった。

 藤田の描いた《アッツ島玉砕》は、全国を巡回展示し、「玉砕を美化する」という軍部のプロパガンダの一翼を担った。

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中村研一 『コタ・バル』 国立近代美術館(常設展示 「誰がために戦う?」)

東京 国立近代美術館で荻原守衛のブロンズ『女』に遭遇した

津田青楓 『犠牲者』 『ブルジョア議会と民衆生活』(下絵) 東京国立近代美術館の常設展 : 小林多喜二虐殺に触発されて描かれた。津田は、「十字架のキリスト像にも匹敵するようなものにしたいという希望を持つて、この作にとりかかつた」(『老画家の一生』)と記す

【美術館】「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。」 当時の雑誌の中から藤田嗣治の言葉を30回に分けてご紹介していきます。 / 「フジタは細部が勝負」《自画像》《五人の裸婦》《武漢進撃》《シンガポール最後の日(ブキテマ高地)》《アッツ島玉砕》《神兵の救出到る》 / (企画担当者) — 【公式】東京国立近代美術館 広報

藤田嗣治 『哈爾哈河畔之戦闘』 (はるはかはんのせんとう) 国立近代美術館の常設展 ~9月13日 : 荻洲(制作依頼者、荻洲立兵中将)の手元に、別ヴァージョンの<哈爾哈河畔之戦闘>があったという証言が残されています。

(NAVERまとめ) 藤田嗣治 / Léonard Foujita 作品まとめ / オダギリジョーが映画で演じることで話題の画家「藤田嗣治」とは

東京国立近代美術館 藤田嗣治《武漢進撃》をじっくり鑑賞した 2017-09-22 / (年表)昭和13年10月27日 日本軍の武漢三鎮占領 ~ 10月30日 蒋介石「全国官民に告ぐるの書」








1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

藤田自身、どういう思いで描いたのか( ^ω^)・・・
考えれば考えるほど奥深いテーマですね