2015年9月3日木曜日

藤田嗣治 『哈爾哈河畔之戦闘』 (はるはかはんのせんとう) 国立近代美術館の常設展 ~9月13日 : 荻洲(制作依頼者、荻洲立兵中将)の手元に、別ヴァージョンの<哈爾哈河畔之戦闘>があったという証言が残されています。





藤田嗣治 『哈爾哈河畔之戦闘』
(はるはかはんのせんとう)

美術館の説明
藤田嗣治 1886-1968
『哈爾哈河畔之戦闘』1941昭和16年

 この4mを超える大画面は、1939(昭和14)年7月に満蒙国境をめぐって日本軍とソ連軍が衝突した「ノモンハン事件」を描いたものです。
 澄み切った青空を背景に、ソ連軍の戦車部隊と奮闘する日本兵の姿が描き出されています。
 しかし実際の戦闘は、双方が多大な犠牲を払う凄惨なものでした。
 こうした事実は当時の国民には伝えられていません。
 この作品の発注者である予備役中将荻洲立兵(おぎすりっぺい)はノモンハンで戦死した部下の鎮魂のために藤田に制作を依頼しました。
 その荻洲の手元に、別ヴァージョンの<哈爾哈河畔之戦闘>があったという証言が残されています。
 そこには日本兵の死体が転がる凄惨な光景が描かれていたということです。
 この二つのヴァージョンの存在から、藤田の戦争に対する醒めた認識をうかがい知ることができます。


「戦争画リターンズ 平山周吉」によれば、二つのヴァージョンは次のようなものだったという。

(1)銀座の日動画廊の主・長谷川仁の回想録『洋画商』(昭和39年)

 太平洋戦争がはじまって間もないある夕、私は招かれて、店のお客さんの一人、内務大臣の湯沢三千男さんなどとともに、麹町の藤田さんのアトリエにいった。壁には二枚つづきの大作が掛けられてあった。ただ広大な草原に、見渡すかぎり死屍るいるいという酸鼻な場面――それはノモンハン事件のハルハ河戦闘直後の光景だった。

〝これは戦争記録画にはちがいないが、軍の唱える「国民の士気を鼓舞する」記録画とはちょっと違う。その背後には戦争否定に通じる精神がかくされているのではないか。〟――いや、こうしたことは戦後もずっとのちになって思いかえした感想で、そのときは息をのむ凄惨な画面を前にして、みんな押しだまっていた。すると藤田さんが微笑を浮かべていった。

「みんなには分らないだろうが、これから五十年ぐらいたてばこの絵は博物館ものだよ」

(2)読売新聞の美術記者・美術評論家の田中穣が書いた伝記『藤田嗣治』(新潮社)

のち三彩社社長でそのころ美術雑誌「アトリエ」の編集者だった藤本韶三からの伝聞

 藤本韶三は、フジタに呼ばれて麹町六番町を訪れたことがあり、その時のハナシ。

 そこに、藤本は、恐るべきものを見た。つい先刻まで、軍の高官たちがうつつをぬかしていた『ハルハ河之戦闘』とカーテン一枚をへだてただけの場所に、同じフジタが描いたとは決して思いも及ばないもう一つの『ハルハ河之戦闘』の図がかくされていたとは?

 画面全体をおおうように、そこには赤黒く燃える焔が描かれていた。その下に日本兵の屍が累々と横たわっていた。半裸体になった腹や足には、蠅がとまり蛆虫がはいだしているのさえ見えるその上を、ソ連軍の戦車が冷酷無惨に踏みにじる図だ。

 二人は息をつめた。生理的にやりきれなかった。思わず目をそむけずにはいられなかった藤本は、平安末に描かれたあの『地獄草紙』も、この悲惨残酷にくらべればはるかに救いがあると思った。

「どうだ、傑作だろう」とフジタはにやりとした。「これだけリアリズムのかけるおれの腕をわかってくれればね、それでいいんですよ」

「…………」

「すくなくとも、君らだけには、わかっていてもらいたくてね」

 藤本にはことばもなかった。

 「さあ、しまうよ」とフジタはいった。「人目につかないうちに、早くかくれていただかないと、あぶない、あぶない」

 ふたたび歌うように急速調な拍子木の音をつぶやきながら、人にはさわらせられぬ大切な品を、そのくせちらりとだけ見せておいて得意がる子供よりもっと単純な得意さで、フジタはカーテンをしめていった。

 そのときだった。藤本は得意なフジタの横顔にギクリとした。そこには無邪気そのものと、神を恐れぬふてぶてしさとが、天使と悪魔とが、二つながら同じ顔にのぞいているのに。

(3)1999年9月23日放送の「NHKスペシャル空白の自伝・藤田嗣治」に、荻洲立兵中将の四男・照之が登場し、確かに荻洲家にあったが、戦争中に行方不明になったと語った。
番組ディレクターだった近藤史人の大宅壮一ノンフィクション賞受賞作『藤田嗣治「異邦人」の肖像』(講談社、2002)にこの証言は再録されている。

  その絵は残念ながら終戦の混乱の中で失われてしまったが、しばらく荻洲家に飾られていたという。(略)

 若い照之の心に鮮烈な印象を焼きつけられていたその絵には、すさまじい光景が描かれていた。

 巨大なソ連の戦車から絶え間なく銃弾が降り注いでいる。阿鼻叫喚の声を上げる日本兵。死体は累々と積み重なっている。その死体の山を踏みつぶしていくソ連の戦車……。凄惨きわまりない戦争の実像である。それは、聖戦美術展に出品したものとは全く異質な、もう一枚の「哈爾哈河畔之戦闘」であった。

 当時まだ十代だった照之は、父親の荻洲中将から絵の制作の詳しい経緯を聞かされていたわけではない。だが、自宅を訪ねてきた藤田と父親が二人だけで話し込む姿を、よく目にしていたという。(略)

「父が、たくさんの命を失わせてしまったと嘆いていたことを強烈に覚えています。父と藤田は、二人で何か一緒に表現したかったのではないかと思います」

なお、この戦争画は、
「絵画は一九四一年初夏までに完成し、六月に天覧に供せられて、七月の第二回聖戦美術展に展示された。陸軍は他に作戦記録画一六点を公開しているが、他の絵が御府献納用につくられていたのに比べ、藤田の絵は最初から、靖國神社の遊就館へ寄贈されることが決まっていた」
という。


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