大正12年(1923)9月2日(その2)
午前中、警視庁へは昨日来の火事は不逞鮮人の放火によるものとの流言飛語が伝わる。
午後3時頃、富坂署から暴行・放火の鮮人数名を検挙したとの報せがあり、正力松太郎官房主事が急行。
同時に、神楽坂署からも不逞鮮人の放火現場を民衆が発見したとの報告が入る。
4時頃、大塚署長から不逞鮮人が大塚火薬庫襲撃の目的で集合中との訴えありと、応援を求めてくる。
5時、警視庁は、「鮮人中不逞ノ挙ニツイデ放火ソノ他強暴ナル行為ニイヅルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。コノ際コレラ鮮人工対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ」として各署に厳重取締りを命ずる。
6時頃、渋谷署長から「銃器・兇器を携えた鮮人約二百名、玉川二子の渡しを渡って市内にむかって進行中との流言あり」との報告が到着、世田谷・中野署長からも同様報告が入る。
警視庁は、渋谷・世田谷・品川等の各署に対し、不穏の徒あれば署員を沿道に配置してこれを撃滅するよう命令。
個々の朝鮮人の放火・暴行から部隊での来襲へと流言が成長する。
実際は、神奈川県高津村で警備の為に在郷軍人や消防夫を集めて半鐘を乱打したことが、対岸の世田谷方面での流言となり、世田谷署から警官隊が急行した事が、更に流言を大きくしたと、後日の調査でわかる。
昼 神楽坂下[東京都新宿区] 神楽坂、白昼の凶行
「ともかく、神楽坂警察署の前あたりは、ただごととは思えない人だかりであった。自動車も一時動かなくなってしまったので、わたくしは車から下りて、その人だかりの方に近よって行った。群集の肩ごしにのぞきこむと、人だかりの中心に二人の人間がいて、腕をつかまれてもみくしやにされをがら、警察の方へ押しこくられているのだ。(中略)
突然、トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった二人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振り方ろしかけた。あたくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぷい音がして、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振りおろしたのである。ズブリと刃先が突きさきったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声をあげて、目をつぶってしまった。
ふしぎなことに、その兇悪な犯行に対して、だれもとめようとしないのだ。そして、まともにトビ口を受けたその男を、かつぐようにして、今度は急に足が早くなり、警察の門内に押し入れると、大ぜいの人間がますます狂乱状態にをって、ぐったりした男をなぐる、ける、大あばれをしながら警察の玄関の中に投げ入れた。(中略)
人もまばらになった警察の黒い板塀に、大きなはり紙がしてあった。それには、警察署の名でれいれいと目下東京市内の混乱につけこんで「不逞鮮人」の一派がいたるところで暴動を起こそうとしている模様だから、市民は厳重に警戒せよ、と書いてあった。トビ口をまともに頭にうけて殺されたか、重傷を負ったかしたにちがいないあの男は、朝鮮人だったのだな、とはじめてわかった。」(中島健蔵『昭和時代』)
中島は当時20歳、旧制松本高等学校の学生だった。被害のなかった駒沢の自宅から、親類の安否確認のために車で小石川に向かう途中、この出来事に出会う。神楽坂署は、現在の神楽坂下、牛込橋のたもとにあった。
その後、西大久保の親友の家に立ち寄ると、そこはまだ平和そのものの雰囲気で、彼が神楽坂で見た光景を訴えても、友人たちは誰も本気にせず、笑って取り合わなかった。
だがその日の夕方には、「『不逞鮮人』さわぎ」は彼の住む駒沢まで波及してくる。半鐘が打ち鳴らされ、「朝鮮人が爆弾を持って襲ってくる!」という大声が響く。村会の指示で自警団が組織され、彼もまた短刀をもって動員された。
「やがて世田谷の方から、一台の軍用トラックがゆっくりと動いてきた。本物の軍隊の出動である。そのトラックを囲むようにして、着剣した兵士が、重々しく走ってくる。これでもう疑う余地がなくなってしまった。今にも銃声が起り、爆音がとどろきそうであった。そのころには、東京中が、恐慌状態にまっていたのである」
警視庁などの要請を受けて、軍は1日より展開を始めていたが、2日の夕方(4時、あるいは6時)、東京市と府下五郡に戒厳令が布かれると、本格的に各地に展開し始めた
(戒厳令は翌3日には神奈川、4日には埼玉・千葉に拡大)。
流言の拡大には、これを事実と誤認した各地の警察の果たした役割も大きかった。警察官がメガホンを手に「朝鮮人の襲来」を告げる光景もしばしば見られた。そして戒厳令に基づく軍の出動は、人々に「朝鮮人暴動」の実在を確信させることになった。この日から猛烈な勢いで各地に自警団が誕生する。その数は東京府内だけで1000以上。街角で道行く人を誰何しては、制鮮人の疑いがある者は殴ったり殺したり、よくて警察に突き出した。
午後 警視庁(東京都千代田区) 警察がデマを信じるとき
「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常を不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして一日夜ごろから朝鮮人が不逞の計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し2、3時間後には何れも確証なしと報告しましたが、2日午後2時ごろ冨坂警察署からまたもや不穏鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え直ちに同署へ赴きました。(中略)
折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川県川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。(中略)
しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うているうちようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。この馬鹿々々しき事件の原因については種々取沙汰されておりますが、要するに人心が異常なる衝撃をうけて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第であります(後略)」
(正力松太郎「米騒動や大震災の思い出」読売新聞社1944年2月)
正力は、当時は警視庁の官房主事(特高警察トップ)で、警視総監に次ぐナンバー2。
1日の震災発生直後、警視庁は炎に包まれた。正力は現場指揮を取って重要書類だけは運び出し、午後には日比谷公園隣の府立中学校校舎を仮庁舎として移転させることができた。だが、電信電話による通信網は途絶し、各地の警察署との連絡は自転車をど人力に頼らざるをえない状況。
そうしたなか、各地の警察署から次々に上がってくるのは、朝鮮人による「爆弾計画」「井戸への投毒」という報告であった。情報が隔絶し、避難民が管内を津波のように大移動するなか、現場の警官たちは流言の渦に飲み込まれていった。
画家の伴敏子(1907~93)は1日夜、巡査が「朝鮮人が暴動を起こして井戸に毒を投げる」と触れ回るのを目撃している。
翌日にはこうした傾向はさらに拡大し、警官たちは各地でメガホンを手に朝鮮人暴徒への警戒を叫んでいた。警察ではいっさい記録を残していないが、目撃証言の多さや、その後の新聞や知識人の告発などを見ると、至るところでそうしたことがあったようだ。巡査が自警団と一緒になって朝鮮人を追いかけるといった事態さえあった。
現場から上がってくる「朝鮮人暴動」の報告を最初は疑っていた正力たち警視庁幹部も、あまりにも多くの報告に翻弄されて、次第に流言を信じるに至る。
恐慌をきたした彼は、ついに「朝鮮人暴動」鎮圧のために動き出す。首都を防衛する第1師団司令部に赴き、軍もまた軌鮮人暴動を信じていることを確認すると、軍人たちに「こうなったらやりましょう!」と腕まくりをして叫び、警視庁に駆けつけた新聞記者たちには「朝鮮人が謀反を起こしているといううわさがあるから触れ回ってくれ」と要請する。
2日午後5時ごろ、警視庁は各警察署に向けて号令を発する。
「災害時に乗じ放火其他狂暴なる行動に出つるもの無きを保せず、現に淀橋、大塚等に於て検挙したる向あり。就ては此際之等不逞者に対する取締を厳にして警戒上違算(いさん)なきを期せらるべし」
流言はこうして、警視庁のお墨付きを得た。
オートバイや自転車に乗った巡査たちが「女子どもは危険だから避難せよ」と宣伝して回る。猿江裏町(現江東区猿江〉住民で青年団員だった高梨輝憲は3日、「今日不逞鮮人が京浜方面から押し寄せてくるという情報が人づているから、団員に連絡をとって警備にあたるよう手配してくれ」と巡査に頼まれたことを手記に書き残している。巡査は「警察の上部からの情報だ」と言ったという。正力ら幹部の恐慌が、各地の警察署に還流していった。
午後2時~夜 亀戸駅付近(東京都江東区) 騒擾の街
「そして「敵は帝都にあり」というわけで、実弾と銃剣をふるって侵入したのであるから仲々すさまじかったわけである。ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは9月2日の時刻にして正午少し前であったろうか。とにかく恐ろしく急であった。(中略)
2日分の糧食および馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発。将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮命令をしたのであるからさながら戦争気分!。そして何が何やら分からぬままに疾風のように兵営を後にして、千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。
亀戸に到着したのが午後の2時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先ず、列車改め、というのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ回った。どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蝿のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声 - 国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!
ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにし、その日の夕方から夜にかけて本格的を朝鮮人狩りをやり出した。」(越中谷利一「関東大震災の思い出」(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編 「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」収録))
軍の記録によると、習志野の騎兵13連隊と同14連隊380人は、2日午前9時に徒歩編成で出発し、午後1時に亀戸に到着。この時期、軍は「朝鮮人暴動」を事実と考え、各地で幻の朝鮮人暴徒を求めて走り回っていた。記録には「避難民の収容」や「電話線の架設」といった行動に混じって、「不達の輩を掃蕩」「鮮人を鎮圧」といった文字が見られる。
本所・深川を全焼させた火災は、亀戸の西を南北に走る横十間川で止まった。焼失をまぬがれた亀戸駅周辺は避難民であふれかえった。そうしたなかで、「不逞鮮人」が襲ってくるという流言が広がり、街の随所で騒ぎが起きた。
「殆んど狂的に昂奮せる住民は良否の区別なく鮮人に対し暴行するのみならず、或は警鐘を乱打し或は小銃を発射するものあり」(「騎兵第十三連隊機関銃隊 陸軍騎兵大尉 岩田文三外五十二名」勲功具状(現代史資料6))
亀戸駅内も「秩序全く乱れ、悲鳴喚叫修羅場の如し」であった。
2日夜に亀戸に到着した騎兵13連隊の機関銃隊は喚声のする場所から場所へと走り回り、越中谷らは翌日朝まで一睡もできなかった。
亀戸で青年団の役員をしていた岡村金三郎(21歳)は、9月2日、「一般の者も刀や鉄砲を持て」と軍に命令されたという(『風よ鳳仙花の歌をはこべ』)。
「それでみんな家にある先祖伝来の刀や猟銃を持って朝鮮人を殺(や)った。それはもうひどいもんですよ。十間川にとびこんだ朝鮮人は猟銃で撃たれました。2日か3日の晩は大変だったんですよ」
上海に拠点を置く朝鮮独立運動機関紙の「独立新聞」特派員による調査でも、亀戸周辺は状況がもっともひどかった場所の一つにあげられている。ただ、軍が直接手を下した虐殺については、亀戸駅構内で騎兵連隊が1人を刺殺したという公式記録と、同じく駅構内で憲兵が1人を射殺したのを目撃したという証言しか残っていない。
しかし同書は「この時点では軍隊、警察も朝鮮人暴動の流言を信じこんでいた。9月2日の夜に朝鮮人を殺傷したのが一般の民衆だけだったとは考えにくい」と指摘している。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿