2015年9月15日火曜日

新海竹太郎 『ゆあみ』(ブロンズ) 東京国立近代美術館所蔵

新海竹太郎『ゆあみ』(ブロンズ)1907年明治40年





文化遺産オンライン
新海竹太郎 (1868-1927)
シンカイ、タケタロウ
明治40年/1907
石膏・1
189.0×46.0×39.0
台座上後ろに署名、年記(刻銘)
1回文展 竹之台陳列館
ブロンズ 高190cm

 1907年に開設された文展では、それまで伝統的彫りものや洋風彫塑といった新旧各派に分散し制作していた彫刻家たちにも、総合的な作品発表の場が与えられた。この第1回文展で、新海竹太郎は審査員として参加し、〈ゆあみ〉を出品(石膏原型)して新帰朝洋風彫刻家の熟練のほどを披瀝した。

 新海は当時としては珍しくドイツのベルリン美術学校でへルテルに就き、官学派の本格的な写実彫塑の技術を学んだ。この作品は、そうした基調をもとにして、東洋的テーマと北欧ロマン主義様式の融合を求めて新古典的作風の典型を示そうとしている。

 天平風のまげを結い、薄布をまとった裸婦の体躯は多分に理想化されたラテン型のプロポーションである。しかしこのような和洋混合の取り合わせながら、清楚な姿態は格調高い趣をたたえている。これは明冶期のまだ彫刻造形という意識の低かったなかにあっては格段に高度な彫塑技術の成果であった。そうした意味では、わが国の純粋な本格的裸婦彫刻の先駆的な遺品であり記念すべき作品ということができよう。

 なお、この作品のブロンズ像は現在二体あり、双方とも1957年はじめて作者の甥にあたる彫刻家新海竹蔵監修により鋳造された。一体は山形市にある。


新海竹太郎(Wikipedia)
新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(1868年3月3日) - 昭和2年(1927年3月12日)は、山形県山形市生まれの彫刻家。息子に画家の新海覚雄がいる。

 仏師の長男に生まれる。
 初めは軍人を志し、19歳で上京後近衛騎兵大隊に入営。士官候補生試験に失敗し失意の日々を送っていたが手遊びで作った馬の木彫が隊内で評判を呼び、上官の薦めもあり彫刻家志望に転じた。
 初め後藤貞行に師事、次いで浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学び1896年に軍の依頼により北白川宮能久親王騎馬銅像を製作。彫刻家としての第一歩を示す。
 1900年に渡欧、パリを経てベルリンに移りベルリン美術学校彫刻部主任教授ヘルテルに師事、当時のドイツのアカデミックな彫刻技法を身につけた。1902年に帰国。同年中村不折らによって創設された太平洋画会の会員となり、以後同会の中心的な存在として活躍する。また1904年に同会研究所が創設されると彫刻部の主任となり、朝倉文夫・中原悌二郎・堀進二など多くの後進を育てた。甥の新海竹蔵も竹太郎に師事し彫刻家として活躍している。

 竹太郎は騎兵科の出身である経験から馬の像を得意とし、前述の北白川宮能久親王騎馬像のほか有栖川宮威仁親王、大山元帥、南部伯爵などの著名な軍人の騎馬像を手がけている。アカデミックで質実な作風で知られるがアール・ヌーボーの要素を取り入れたり、日本的・東洋的な題材を扱った異色作も数多く残している。
 1907年の第1回文展以来審査員を務め1917年6月11日に帝室技芸員[1]、1919年に帝国美術院会員となった。


 この像、明治40年作というような古いものとは思わなかった。
 新海竹太郎は、慶応4年生まれというから、坪内祐三さんの『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲がり』に取り上げられた7人、漱石、外骨、熊楠、露伴、子規、紅葉、緑雨、の一年あとということになる。彼らと同世代の人なんだ。

 また、工芸館(旧近衛師団司令部)近くにある、個人的には非常に見慣れた「北白川宮能久親王騎馬像」が彼の作品というのも、知らなかったとはいえ、驚いた。画家だったら、裸婦も描くが戦争画も描く、というところか。
 
 なお、北白川宮能久親王像については、以前に記事にしたことがある。 ↓
 東京 北の丸公園 北白川宮能久親王の銅像








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