鎌倉 長谷寺 2016-06-01
*(その5)より
1965(昭40)39歳
1月、第三詩集『鎮魂歌』思潮社刊。
作品
花の名
汲む - Y・Yに -
あるとしの六月
りゅうりぇんれんの物語
■詩集のあとがき
あとがき
第二の詩集を出してから五年たち、不惑の年にだんだん近づいてきたが、惑いはかえって深くなり、自分の魂をもよく鎮め得ない。
(略)
古い詩を読み返してみて、もう少しどうにかならなかったものか・・・と痛切に思うが、このどうにもならず残ってしまったものが、つまりは自分自身の消しようもない足跡なのだろう。
『りゅうりぇんれんの物語』は朗読のための詩として書き、ユリイカに発表した。薄い雑誌の大半を占めてしまい、伊達さんが「特別ですよ」と秘蔵の中国の剪紙をカットに使って下さったこともありがたく思い出される。
名前は失念したが、或る小さな劇団が、卒業公演の朗読に読んでくれた。後に、川崎洋氏との合作で、このテーマを書き改め、「交されざりし対話」として、ニッポン放送の「ラジオ劇場」から放送した。出演は宇野重吉氏、山本安英さん。
(略)
■『清冽』
茨木のり子にとって第三詩集に当たる『鎮魂歌』(思潮社)は一九六五(昭和四十)年、三十九歳の年に刊行されている。冒頭、収録されている「花の名」は長編である。この二年前に亡くなった父・宮崎洪の追悼詩であるが、茨木の代表作のひとつであろう。告別式の帰り道での追想と、列車に乗り合わせた「登山帽の男」との会話が交互に登場する。出だしはユーモラスである。
・・・この詩集には「りゅうりぇんれんの物語」も収録されている。
劉連仁。中国・山東省の出身。戦時中、日本軍によって強制連行され、北海道の明治鉱業昭和鉱業所の炭鉱労働者となる。終戦のひと月前に炭鉱を脱走。以降、日本の敗戦を知らず、十三年間、道内の山中で逃避行を続けた。穴ぐらに潜んでいるのを発見され、保護されたのは一九五八(昭和三十三)年である。グアム島での日本兵の発見とは別の意味で、戦争の傷痕の深さを知らしめるニュースだった。
「りゅうりぇんれんの物語」はこの数奇な運命をたどった一中国人の歩みを詩句に構成した長編詩である。茨木の詩のなかでは最長編のもので、ページ数でいえば四十七ページにも達している。一中国人の奇談といえばそれまでであるが、戦争というものが引き起こしたまがうことなき一断面を記す、という気概が溢れている。
劉はその後、中国に帰国、老齢になってから損害賠償を求める裁判を起こした。提訴中に本人は死去し、息子が原告となって裁判は継続された。東京地裁は訴えを認めたが、控訴審の東京高裁では逆転敗訴、その後上告棄却されている。
《一九五八年(昭和三三)北海道で、りゅうりぇんれん氏が発見された時、新聞の報道は大々的で、当時誰もかこのニュースを知っていた。その渦中であえて書く必要があるだろうか?という逡巡もありながら、内部から衝きあげてくるものがあって、どうしても書かねはならぬという思いに従った。
人間の記憶の風化はおそろしく遇い。今頃になって、「これは現実にあった話なんですか?」と、半信半疑の様子で、質問してくる人が多くなった。
やはり書いておいてよかったのかもしれない。(中略)
一九四五年八月十五日の日本国の負けっぷりの悪さが、今に尾を引いていると思い知らされることが実に多い。
五十六年間という歳月は何たったのだろうか。
苦い苦い思いを噛みしめながら、まだ二十代の若い編集者 - 渡辺とものさんとともに、改めて校正刷に目を通したところである》
(『清冽』)
■岩波文庫版詩集の解説
昭和十九年、日本軍に攫われ、北海道雨竜郡の炭坑まで強制連行、過酷な労働に従事させられた中国人、劉連仁を描いた叙事詩である。便所の汲取口から汚物にまみれて這い出し脱走、以後十三年、山の中を逃げ続け、やがて日本人の猟師により発見された彼は、母国へ戻って妻子と再会する。小野田寛郎さんのような人が中国にもいたのだ。長い詩だが、「ふるさとの黒い土を一すくい舌の先で嘗めてみた」など、詩の簡潔な表現だからこそ、胸に流れ込む哀しみと憤怒がある。
(小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)
5月、「五月のうた」(『装苑』掲載)
12月、「櫂」復刊。
1967(昭41)40歳
11月、詩人評伝『うたの心に生きた人々』さ・ら・え書房から刊行
1968(昭43)42歳
「わたしが一番きれいだったとき」(作曲ピート・シーガー、翻訳片桐ユズル)CBSソニーレコード"
1969(昭44)43歳
3月、『現代詩文庫/茨木のり子詩集』(思潮社)が刊行
作品
あいなめ
伝説
5月愛知県民話集『おとらぎつね』さ・ら・え書房から刊行
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(その7)に続く
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