『朝日新聞』2016-05-25
*憲法を考える
自民改憲草案義務(上)
権利に条件「国家の従業員」か
(『朝日新聞』2016-05-25)
自民党憲法改正草案と現行憲法を比べると格段に増えているものがある。個人に課される「義務」の数だ。
現憲法が定める国民の義務は「勤労」「納税」「子女に普通教育を受けさせる」の三つ。伊藤真弁護士はこう解説する。
「憲法は国民の権利を守るための法なので、本来、義務を入れる必要は全くない。それでも主権者たる国民が国を維持し、次の世代に引き継いでいくために、主権者の責任として、この三つを義務としているのです」
だが草案を見ると、「国民は、○○しなければならない」との条文が新たに置かれたほか、もっと直接的に「住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う」(草案92条2)などとする条文も新設された。
なぜこれほど、義務が前面に出てくるのだろうか。
自民党の憲法改正推進本部長を務めた船田元・衆院議員は、自身のホームページに「現行憲法の欠陥のひとつとして、権利に比べて義務の記述が少ないと言われている」と記す。安倍晋三首相も、第1次政権の2006年、教育基本法改正の議論に絡み、国会で「自由に対しての責任、権利に対しての義務、そうしたものもしっかりと子どもたちに教えていく必要がある」と述べている。
世耕弘成内閣官房副長官はさらに直接的だ。
野党時代の12年、「東洋経済」で生活保護の給付水準引き下げについて、「見直しに反対する人の根底にある考え方は、フルスペックの人権をすべて認めてほしいというものだ」「(生活保護受給者は)税金で全額生活を見てもらっている以上、憲法上の権利は保障した上で、一定の権利の制限があって仕方がない」と述べた。
工業製品の性能を意味する「スペック」という言葉で、人権を表現する感覚。人権を認めて欲しければ、まず義務を果たせ - 。草案に感じる息苦しさの正体は、義務の数の多さではない。いつの間にか、義務を果たすことが、権利を行使することの条件にすり替えられてしまっていることにこそある。
敗戦翌年の46年。後に自民党総裁から首相になる石橋湛山は、現行憲法の草案要綱を見て「(国民の)義務を掲げることが非常に少ない」と批判した。
なぜか。
「(国家を営む)経営者としての国民の義務の規定に注意が行き届いていない憲法は、真に民主的とはいえない」
現憲法の義務の少なさを問題視する点は、いまの自民党と同じだ。
だが石橋は、天皇主権の明治憲法下にあった1915年当時でさえ「(国家の)最高の支配権は全人民にある」と書いている。「フルスペックの人権を認めてもらいたければ、まず義務を果たせ」と、上から国民に迫る昨今の政治家の姿勢とは明確な一線を画す。
自民党の改憲草案のもとでは、国民は「国家の経営者」ではなく「国家の従業員」に成り下がってしまうのではないか。
そんな疑問を携えて、長野県の人口5千人の村に出かけた。日の丸に一礼しない村長に、会ってみたいと思った。
(藤原慎一)
義務(中)
空気読み黙る「和」 いまも
(『朝日新聞』2016-05-26)
長野県の山あいにある人口約5千人の中川村。小・中学校の卒業式や入学式では、壇上に日の丸が掲げられる。ただ、曽我逸郎村長(60)が一礼することはない。
どうしてですか?
「『国旗には黙って敬礼せよ』という空気が嫌だからです。嫌だと自由に表明できてこその民主主義だと思います」
国旗・国歌について、自民党憲法改正草案は、現行憲法にはない規定を新たに設けている。
「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」
草案のQ&A集は「国旗・国歌をめぐって教育現場で混乱が起きていることを踏まえ、規定を置くこととした」と記す。
東京や大阪などでは、卒業式で、君が代の起立斉唱を拒んだ教員が懲戒処分を受けた。国旗掲揚や国歌斉唱をしない国立大学が国会で問題視されたことも記憶に新しい。
国の方針は明確だ。小中高校には学習指導要領で「入学式や卒業式などでは国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導する」。国立大については、安倍晋三首相が昨年の参院予算委で「新教育基本法の方針にのっとって、正しく実施されるべきではないか」と答弁している。
日の丸を掲げお辞儀をする。
君が代を大きな声で歌う。
草案が想定する「尊重」は、おそらくこういうことだろう。
しかし曽我さんは憤り、危惧する。「政治家によって、憲法や国旗・国歌が国民を服従させるための道具にされている」と。「型にはまった思考や行動様式を押しつけられ、自由にものが言えない社会で、どうしてのびのび暮らせるでしょうか」
曽我さんが草案越しに見ているのは、戦中のこの国だ。思考も行動も型にはめられ、若い兵隊を突撃させて華々しく死なせることが目的化してしまった。国をあげて称揚された「和」とは結局、国民が世間の空気を読んで黙ることでしかなかった。
日本の立憲主義は、そうした戦争の記憶と傷痕の上に立つ。
その要諦は、憲法で権力を縛り、人々が自由に意見を述べ、批判し合える空間を確保することだ。
だが、空気を読んで黙ってしまう感じは、今も身の回りにあふれている。東日本大震災のあと。東京五輪招致に際して。国や国民が「一丸」となることを求められ、「ちょっと待って」と異論を差し挟むことすらためらわせる、同調圧力。
なるほど、草案には国旗・国歌を「尊重しなければならない」としか書いていないし、Q&A集も「国民に新たな義務が生ずるものとは考えていない」と説明する。
しかしどうだろう。草案の前文に盛り込まれた「日本国民は・・・和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」の一文。和を尊ぶことと和を乱す者への嫌悪は裏表だ。
憲法に「和」と国旗・国歌の尊重がともに書き込まれた時、どういう響き合いをするだろう。曽我さんのような人が「のびのび暮らせる」社会は、保たれるのだろうか。
(藤原慎一)
義務(下) 国民にも「尊重せよ」何のため
(『朝日新聞』2016-05-27)
自民党憲法改正草案は、ダメを押すかのごとく、最後の102条でも、国民に新たな義務を課す。
「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」
草案Q&A集は「憲法の制定権者たる国民も憲法を尊重すべきことは当然」と条文を新設した理由を説明。尊重義務の中身は「『憲法の規定に敬意を払い、その実現に努力する』といったこと」だとしている。
おかしい。
憲法によって権力を縛るという立憲主義の考え方に基づき、現憲法は政治家や官僚に対してのみ憲法を尊重し擁護する義務を課していたはずだ。
立憲主義をひっくり返そうとしているのか?
そんな疑念に駆られつつQ&A集をめくると、「自民党の憲法改正草案は、立憲主義を否定しているのではないですか?」との問いがあった。答えは「否定するものではありません」。この問答は当初のQ&A集にはなく、増補版から追加された。
さらに「立憲主義は、憲法に国民の義務規定を設けることを否定するものではありません」とも記されている。たしかに、憲法に義務規定を置いている立憲主義国家はある。たとえばドイツは国民に対し、「尊重」よりも強い「憲法忠誠義務」を課している。なぜか。
1933年。ドイツは当時最も民主的なワイマール憲法下にあった。ところが国家緊急権を乱用され、ナチス独裁に道を開いてしまった。その反省から戦後、「自由の敵に自由は与えない」という考え方を憲法に定め、国民に忠誠義務を課しているのだ。
翻って、自民党改憲草案は何のために、国民に憲法尊重義務を課そうとしているのか。
ドイツ流の歴史への反省?
いや、草案は、現憲法前文にあった「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」という一文を削除している。
「尊重は当然」では到底、答えにならない。憲法はいわば、主権者たる国民が政治家や官僚に対して突きつける「命令書」だ。そこに、主権者も憲法を尊重せよと書き込むのであれば、極めて強い合理的な理由がいる。上から一方的に尊重義務を押しつけるだけなら、「臣民は此の憲法に対し永遠に従順の義務を負う」とした大日本帝国憲法の発布勅語と変わらない。
憲法尊重擁護義務を課せられている政治家が「憲法を変えよう」と声高に言う時、私たちはよくよく注意しなければいけない。どんなに素晴らしい人たちでも権力を持てば、その力を濫用する危険性は常にある。
現行憲法12条を読み返す。
「自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」
そう。わたしたちの「不断の努力」は、権力者に憲法を守らせるためにこそ求められる。そしてそれは、「戦争の惨禍」を経てようやく手に入れた自由と権利を、自分たちの手で「保持」することに他ならない。
(藤原慎一)
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