小石川後楽園 2016-06-06
*(その6)より
1971(昭46)45歳
5月、第四詩集『人名詩集』山梨シルクセンター出版部刊。
(収録作品)
あそぶ
トラの子
くりかえしのうた
(解説)
茨木のり子の詩 大岡信
(略)
それにしても、何という人間に対する関心の強さであろうか。私は茨木さんの詩を読むと、かえりみてお前は何と人間に対する関心の乏しい男か、と驚きながら自分自身に語りかけることが時にある。私だとて、人間に対する関心や興味をもたないわけではないが、茨木さんの詩にあらわれる人間への興味は、いわばそのあらわれ方においてわたしの虚をつくような性質のものなのだ。たとえばこの詩集の中の「あそぶ」、「兄弟」、「王様の耳」、「箸」、「売れないカレンダー」、「トラの子」などの詩は、私だったら決して作ることのできないものだということを感じる。それらの作のモチーフになっている日常生活の中での人間関係は、茨木さんが書きとめなかったら、たぶんたちまち挨とともに消え去っていったであろう種類のモチーフである。いささか大時代な言葉を使えば、いずれも、詩的感興なんてものとはまず無縁といっていい、日常茶飯の断片といっていいものである。・・・
(略)
「わたしが一番きれいだったとき」というよく知られた詩の中でもうたわれているように、茨木さんは、感受性がもっとも鋭く豊かに世界にむかって開かれていこうとする青春時代が、ちょうど最も社会的に閉ざされた戦中だったという点で、まざれもない戦中派に属している。けれども、その初期詩篇のいずれをとってみても、むしろ戦後の青春の希望と夢に輝いていないものはなかった。第一詩集『対話』の前半をなす詩篇辞には、青春を戦争の渦中ですりへらしてしまった - しかもそれを自らは自覚することさえなかった - 若い女性の、くやしさと悔恨と、それゆえの、未来への夢、願望が、溢れ出るさわやかな呼びかけの口調でうたいあげられていた。同時代の男の詩人たちが、幻滅と絶望と悲哀をうたいつづけているときに、彼女のうたはひときわすこやかに響いたし、響かざるをえなかった。
(略)
「青春への愛惜なんて、今さら」という人がいるかもしれない。でも私は思うのだが、「青春」なんてものは、その中にいると、どう仕様もなくやりきれないもの、生臭くて、嫌味で、早くおさらばしてしまう以外にないものではないのか。人がほんとに「青春」と呼べるものは、実は過ぎた青春を愛惜する心のうちにしかないのではないか。少くとも、私は茨木さんの詩をそういう観点から眺めるとき、いろいろの豊かな陰翳を詩句の中に見出すことができると思っている。
12月、「櫂の会」連詩はじまる(78年まで)
1972(昭47)46歳
5月、「金子光晴 - その言葉たち」(『ユリイカ』1972年5月号)
茨木は・・・金子光晴の存在の意味をこう押さえている。
《彼は徹頭徹尾、みずからの趣味嗜好に生きた。どんなときでもそれを崩さず、外部から注入される如何なる<生き甲斐の麻酔>をも拒否したと。みずからの趣味嗜好を貫いて、いつもありのまま、大いなるだらしなさのまま生きたそのことが、日本人と日本の社会に抵触し、離反し、鋭く照射することになる、その関係。
これが金子光晴の本領ではないだろうか》
(『清冽』)
1975(昭50)49歳
1月、「木の実」(『本の手帳』1975年1月号)
「自作について」(『現代の詩人7/茨木のり子』中央公論社、一九八三年)のなかで、「木の実」をこのような形で締め括ったことをこう記している。
《書きはじめて頓挫し、草稿はそのままにしておいた。時を置いてまた読み返し、三、四行書いて頓挫し、またそのままにしておくというくりかえし。
戦後間もなくのことだったら、日本帝国主義を弾劾して事足れりだったかもしれない。しかし私の年齢は、と言うべきか、私の今まで感じ考えてきたことの総和は、と言うべきか、いずれにしてもありきたりの日帝批判に陥ることを許さなかった。
激越な言葉を連ねれば連ねるほど浅薄になった。では、どう言えるだろうか? 思いは複雑に錯綜して、そして言葉は出てこなかった。
詩を書くとき、すんなり出来あがることは珍しく、常に烈しい内部葛藤を伴うが、「木の実」の場合、それが一層熾烈だった。
一年たっても二年たっても三年たっても一筋の詩を成すことができなかった》
難産の果て、さらに言葉は舞い降りてこなかった。
《生涯かかっても、私には最後の一行を置くことはできないかもしれない、たぶんそうなるだろう、それならば「遂に成らず」というままで投げ出すしかない。(中略)
言いつくせなかったせいだろうか、青い頭蓋骨は私の胸に棲みついてしまい、折にふれ、いまだに対話を挑んでくる存在と化した》
・・・。戦後三十年、茨木にとって戦争はなお、通り過ぎた過去ではなく、逃れようとして逃れられない、(死者からの視線)がまとわりつく身がらみの出来車であった。「四海波静」を書かざるをえなかった理由が胸に落ちてくるのである。
(『清冽』)
4月18日、山本安英の会主催「ことばの勉強会」の鼎談(岩波ホール)。茨木、金子光晴(79歳)、谷川俊太郎。
5月22日、夫、三浦安信が肝臓がんで他界。
25年を共にし、戦後を共有した一番の同志を失った感を痛切にして「虎のように泣く」。
この頃(*4月の岩波ホールでの鼎談の頃)、茨木の夫・三浦安信は、糖尿病と肝臓障害の治療で北里病院に入院中であった。
「最晩年」(「現代詩手帖」一九七五年九月)によれば、当初、三カ月で退院の見込みであったものが、入院は長引いた。鼎談があった日の翌日から容態が悪化し、やがて肝臓癌が判明する。「おそろしい地獄を共に闘ったが、アッという間に逝かれてしまった」とある。五月末のこと。
ごく内輪の告別式をすませた日の夕刻、金子が現れた。朝十時に家を出たものの、茨木の家を見失い、七時間もほっつき歩いた未の訪問であったという。香典を供えると、茨木の方を向いてこういった。
「いまは八方ふさがりに思うでしょうが、そんなことは何でもないの、心配しなくっていいの、僕だって八方ふさがりばかりだったけどね、こうして生きてきたんだから。その人間になんらかの美点があれば、かならず共同体が助けてくれるもンです」
それからひと月後、金子自身が他界する。
「最晩年」は、二つの死を重ねつつ哀惜を込めて綴ったもので、ラスト、茨木はこう締め括っている。
《金子さんの笑顔を私は愛していた。性格には仙と俗とが入りまじり、その配分は絶妙だったが、あの笑顔は仙そのものだった。沈思の表情を捉えた写真には傑作が幾つかあるが、笑顔のあの一瞬の美しきを捉えきったものにはまだお目にかかっていない。レンズでは捉えきれない何かがあったようにも思う。
夫の笑顔も私は好きだった。五月末と六月末とに、二つながらに消え失せてしまい、もう二度と接することができないのだという思いは、足もとのぐらつくほどの哀しみである》
(『清冽』)
11月、エッセイ集『言の葉さやげ』花神社から刊行
11月、「四海波静」(『ユリイカ』1975年11月号)
昭和天皇の在位が半世紀に達した一九七五(昭和五十)年十月、天皇ははじめて - また唯一ともなった ー 公式の記者会見を皇居内で行なっている。日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
《天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします。
天皇 そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます》(朝日新聞、一九七五年十一月一日)
茨木のり子の 「四海波静」 (「ユリイカ」一九七五年十一月号) は、この天皇発言への直截な憤りを込めた作品となっている。
(『清冽』)
(その8)に続く
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