2016年6月10日金曜日

天正2年(1574)1月1日~2月28日 武田勝頼が美濃の明智城を陥落 信長はこれを救援できず 越前一向一揆(越前は「悉大坂(石山本願寺)ノ手ニ」「一統」され「一揆持」の国となる) フランスで第5次ユグノー戦争始まる [信長41歳]

小石川後楽園 2016-06-06
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天正2年(1574)
この年
信長41歳、光秀47歳、秀吉39歳、家康33歳
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・秀吉、筑前守を名乗る。石田三成、大谷吉継(16)を召抱える。
春、秀吉、今浜に築城し長浜と改名。
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・中国の海賊リ・マ・ホンの大船隊、フィリピンを攻撃、パンガシナン地方を一時支配。
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・キューバ、ユグノー教徒の襲撃、78年にかけて続く。トリニダー、バラコア、レメディオス、バヤモの町が襲われる。
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・ポルトガルのユダヤ人(マラーノ)、ボルドーに亡命。
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1月
・~2月、津田宗及、岐阜城に滞在。信長自らご飯のおかわりを与えるなどして歓待。
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・信長、以前焼き払った京都上京中へ、復興建築が開始されたため織田軍の寄宿を禁止し、市中再興を努める旨を通達(「京都上京文書」)。
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・信長、唐人の座(唐物を商う座)・軽物座を足羽郡三か荘のほか三国湊にも認め、役銭として絹1疋を徴収する特権を認める。また、前年には足羽郡北庄の橘屋に同郡の三か荘における軽物座を先規どおり安堵している。
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・信長、美濃分尾城(岐阜県海津市平田町、長島上流20km、木曾・長良・大榑・揖斐4河川に囲まれた高須輪中の要地)の拠点固めに着手。
守将高木貞久(駒野城主、海津市南濃町、高瀬輪中対岸)。
川内世界(長島一揆)解体のための軍事的楔。
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・霧島山噴火。天地震動す。
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1月1日
・信長、岐阜城で諸将の参賀を受ける。
祝賀の後、馬廻衆の酒宴で、朝倉義景、浅井久政・長政父子の首を漆で固めて金泥などで彩色したものを飾り酒の肴にする(と言われている)

実際には髑髏を盃にするようなことはしていない。
「薄濃(はくだみ)」(漆塗りして金粉で色付けした)髑髏を7年間、安置して祀れば、8年目に髑髏に魂が甦り、神通力を与えるという、中世に大流行した真言立川流(しんごんたちかわりゆう)の秘儀によったもの。
この真言立川流は、淫教・邪教として真言宗から否定されるが、民間信仰として広がり、髑髏を祀って、その霊魂を供養するという風習が残った。
信長は、彼らの髑髏を祀り、その霊力を受けて活力としたい、という思いがあったと思われる。
時代の先取性がある反面、こうした土着信仰を信じていたところに信長という人物の不可解さと面白さがある。
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1月3日
・覚恕(天台座主)、没(異説1592年)
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1月5日
・家康、正五位叙任。
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1月6日
・信長、幸若の八郎九郎(義重)に越前国内に100石を安堵。詳細は長俊が申すとする。新知配分は長俊の差配。
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1月8日
・信長に背いたのを赦された松永久秀、礼のため岐阜に参上。
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1月9日
・上杉謙信(45)、西上野の経略のため、信長・家康に甲斐・信濃への出兵を要請。
26日、関東出陣の触れ。
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1月11日
・明智光秀、松永久秀降参後の大和多聞山城に入る。
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1月12日
・信長、陶工加藤景茂(加藤市左衛門尉)へ、「瀬戸焼物釜」(竃)は加藤景茂が尾張国瀬戸でだけ使用することを許可し、他所の陶器の竃は一切許可しないことを通達(「加藤彦四郎氏所蔵文書」)。
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1月18日
・越前門徒の初めての決起。
越前の有力地侍元朝倉家重臣富田長秀(長繁、越前府中城将)、越前守護代(元朝倉家重臣)桂田長俊(前波長俊)と対立。
志比衆・大野衆(吉田郡志比庄・大野郡)の一揆。

19日、坂井郡・足羽郡の一揆も引き連れ、総勢3万3千で桂田長俊の一乗谷(福井市城戸ノ内町)に攻め込み、一族殺害。次に、富田長繁は鳥羽(鯖江)城主魚住景固を討ち滅ぼす。
20日、桂田長俊の桂田館落城。桂田長俊殺害。
21日、富田勢は3万に増え北ノ庄織田奉行所包囲。安居景健・織田(元朝倉)景胤の仲裁により、和約を結び、織田方3奉行津田元秀・木下祐久・明智光秀、岐阜へ戻る。

信長の権威を背景に、越前国内で朝倉氏と同じ地位に立とうとし、新知配分を差配した長俊に対して、元同輩の国侍達が反感。
長俊と同じ時に朝倉氏を裏切って信長方となり、10月の北伊勢合戦で与力毛屋猪介が奮戦して手柄を挙げた富田長繁は、長俊が信長に長繁や与力の給地を削るよう求めたことを聞いて長俊を討つことを決意、国中一揆を味方にすべく働きかけを始める(「朝倉始末記」)。

富田・桂田の対立を利用して、朝倉遺臣と本覚寺らの門徒が連合、加賀の援助のもとに惣国一揆を形成、最初に桂田、次いで富田と2大勢力を滅ぼし、門徒領国を樹立。
しかし、本願寺が下間頼照を守護として派遣、杉浦玄任・下問頼俊・七里頼周などの坊官を大野・足羽・上郡などの郡司に配置して支配体制を固めると、在地諸勢力はこれに反発し、「十七講」、「鑓講ノ衆」など本願寺領国に反抗する一向一揆が蜂起。
文明・長享の一揆から大小一揆にいたる総過程を、越前では短時日のうちに経験しながら、本願寺領国の内部矛盾を露呈し、1575(天正3)年には信長の再度の侵攻の前に崩壊。
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1月19日
・秀吉(38)、敦賀へ出陣。一向一揆に備える。(「信長公記」)。
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1月23日
・秀吉、竹生島神社に浅井長政の預けた材木の引き渡しを求める。
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1月27日
・この日、越前桂田長俊討たれるの報、奈良に伝わる。
信長に背くものではないとされ、2月18日、富田長繁が信長の許に出頭、越前国侍も信長に人質を出し、騒動は収まるかにみえる(「尋憲記」)。
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1月27日
・武田勝頼、美濃岩村へ侵攻。その後、明智城を攻撃(「信長公記」巻7)。

武田勝頼3万、東美濃岩村口に出陣、小城18を攻略(岩村城は既に武田方、宿将秋山信友が守備)。
27日、岩村南西の明智城も陥落。明智守将遠山友信が勝頼に通じ城中に武田軍を入れる。出陣した信長父子は引き上げるが、東美濃回復の布石として、神箟城(瑞浪市)を修復して河尻秀隆を、小里城(瑞浪市)に池田恒興を入れ置く。
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1月28日
・越前一揆勢、加賀より七里頼周を大将として招き(「朝倉始末記」)、長繁と袂分かち自立した本願寺の軍事力であることを明確にする。
一方、府中の富田長繁は、南条郡慈眼寺に屋銭を徴収するなどの乱妨狼藉を禁止し、代官などの非法があれば土民であっても直訴せよという制札を下して人々の支持を得ようとし、府中町人と三門徒寺院(横越証誠寺・鯖江誠照寺・中野専照寺)に知行を約束して味方につける。
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2月
・北条勢、下総関宿城(簗田氏)を包囲する軍勢とは別に、簗田氏支城水海や反北条勢力の諸城攻略のため北条氏繁(綱成嫡男)が活発に動く。
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2月初
・越前吉田郡河合の八杉を指導者とする一揆が乙部勘解由左衛門を攻撃。
西庄(丹生郡)の一揆が丹生郡三留の朝倉孫六を討つ。
河北(坂井郡)の一揆は黒坂与七を攻め滅ぼす。

一揆が黒坂一族の首を七里頼周の許に持参、頼周は勝手に武士を殺すことは言語道断として、首持参者を成敗(「朝倉始末記」)。
一揆は武士支配に抵抗する農民一揆としての性格を持つが、武士も含め反信長勢力糾合を図ろうとする本願寺の意図とは矛盾する。
この頃、丹生郡末野村立神清右衛門や府中の商人板屋を一揆が「理不尽」に討ち果たしたことを訴える文書も伝わっているが、これも一揆が本願寺の統制を離れて支配層を攻撃した例とみなしうる。
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2月1日
・信長、武田勝頼が攻囲の美濃明智城へ尾張衆・美濃衆から編制された援軍を派遣(「信長公記」巻7)。
4日、佐久間信盛、明智城救援に出陣(「荻野由之氏旧蔵文書」)。
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2月1日
・信長、美濃吉村名字中・木村十兵衛・田中真吉・西松忠兵衛へ、高木貞久に美濃今尾城を守備させるので協力を命令(「高木文書」)。
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2月3日
・信長、岐阜を訪ねた津田宗及に秘蔵の茶器を披露する茶会を催す。
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2月5日
・上杉謙信、沼田城に入る。家康と呼応して武田勝頼を討伐しようする。
3月、信長はこれに警戒して加納永徳筆「洛中洛外図屏風」一双を謙信に贈り機嫌をとる(という説あり)。
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2月5日
・信長父子、出陣。御嵩(可児郡御嵩町)に陣取る。
この日、武田勝頼、飯羽間右衛門の内応により明智城攻略。
6日、信長父子、山中行軍。
24日、信長、岐阜へ戻る。明智救援は空しく終わり、神篦(瑞浪市)に河尻秀隆を、小里城(瑞浪市)に池田恒興を入れおく。
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2月7日
・トレド、ペルー鉱山開発に関する包括的政令を発する。
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2月8日
・徳川家康(33)次子於義丸(秀康)、誕生。辰刻(午前7~9時)遠江敷智郡宇布見村の郷士、中村源左衛門宅で誕生。正室築山殿の嫉妬を恐れたため。母は築山御前侍女で永見淡路守吉英娘(1547~1619、お万の方・長勝院)。容貌がギギ(魚)に似ていることで兄信康がオギイ丸と呼んだため「於義丸」とする。
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2月10日
・加賀の門徒勢、越前侵入。
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2月11日
・十市遠長、大和九条城を攻撃。
23日、内膳城を攻略、城将藤田左近以下7人を討取る(「多聞院日記」2)。
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2月14日
・越前国中の一揆勢力、七里頼周の指示に応じて敦賀郡・南条郡の一揆2万余、丹生郡と越前海岸辺の一揆3万5千余、大野郡・足羽郡・吉田郡の一揆5万余、南条郡・今立郡の一揆3万3千余、計13万8千余の国中の一揆が長繁攻撃に蜂起(「朝倉始末記」)。
府中城富田長秀(長繁)、兵4千を率い北の庄に進撃、水落~長泉寺山付近で一揆軍と大激戦。
18日、長繁は小林吉隆の裏切りにより敗死。
後、一揆勢は三門徒派寺院や武士の居館を次々と襲う。土橋城(大野郡)の朝倉気鏡、織田城(丹生郡)の朝倉景綱、会津城(坂井郡)の溝江長逸、平泉衆徒(大野郡)、旧守護家(義廉流)斯波氏の流れを汲む鞍谷氏の居館(御所)・千福・真柄・千秋など有力国人衆を攻撃、追放。

信長は朝倉氏を滅ぼしたが、国中の一揆は、朝倉氏が築き信長が継承し武士による戦国大名的支配秩序を解体。

2月上旬、加賀より七里頼周を招請、旧朝倉系降将を次々と攻め滅ぼす。
2月中旬、新道・杣山・葉原・鯖波の南条郡や敦賀勢、八社荘(社荘か)や織田荘・栗屋(厨)・本郷・棗三郷の坂井・丹生郡勢、本覚寺・専修寺率いる北袋・南袋・足羽・志比荘・河北の大野・吉田・足羽郡勢、宅良・三尾河内・真柄・北村の南条・今立郡勢らが、富田長繁や府中三門徒衆らを滅ぼす。
一揆の別動隊の河北一揆は坂井郡金津の武将溝江宗天・長逸父子を攻撃。
加賀より一揆軍指導者として派遣された本願寺坊官杉浦玄任の工作により和平が結ばれかけるが、一揆勢は和平儀式の場に乱入して溝江親子を討ち取る。

2月下旬~4月中旬、杉浦氏を大将として、和田本覚寺や細野の道観兵衛や嶋田将監らの北袋一揆勢、大町専修寺勢、志比荘一揆、若林(本願寺坊官下間頼充被官で当時金沢御坊へ下向)勢、照厳寺ら坂北勢、大野郡北谷一帯の七山家の一揆勢らが平泉寺と朝倉景鏡を攻め滅ぼす。

かくして、越前は「悉大坂(石山本願寺)ノ手ニ」「一統」され「一揆持」の国となる(「信長公記」巻7)。

本願寺、朝倉を裏切って延命した武士支配層を一掃し、越前を加賀と同じ「一向一揆体制」にするため、一向一揆総大将として坊官下間頼照を越前に下向させ、主戦派代表軍師七里頼周(もと石山本願寺の青侍、元亀2年加賀に派遣、主戦派、「加州大将」と呼ばれる)を金沢より越前に移らせる。
本願寺指図により、下間筑後法橋頼照を越前守護(代)・杉浦玄任を大野郡司・下間和泉法橋頼俊(頼照の子)を足羽郡司とする。要職は全て本願寺顕如の指令。
(坂井郡豊原寺を本拠に下間頼照が総大将として差配し、杉浦が大野郡を、下間和泉が足羽郡を、七里頼周が府中以西を分割支配する体制)

「一揆持ち」の理想。
①百姓・下人:領主・主人からの解放。
②在村の道場坊主:門徒勢力の拡張。
③大坊主(一揆の指導):領主権力を奪取しわがものにする。

法王国のしめつけ。越前を加賀と同じく本願寺法王国の拠点化・法王国化する政策(自決自治⇒大坂領国化)。大坂中心の石山戦争体制化。

一揆の暗影 「一揆内一揆」:
①2月半ば、河北一揆の人々、坂井郡国衆黒坂一家の首を白山豊原寺(坂井郡丸岡町)の七里頼国のもとに持参。七里は「我等が下知にあらず。一揆ら、私として武士を殺すこと、言語道断」と激怒し河北一揆の人々を斬殺。加州大将(大坊主)と国中一揆の矛盾。
②別派の地方小教団(和讃門徒又は真宗三門徒派)は富田氏に加勢して一向一揆と対立。この年閏11月以降、一揆内一揆激発。

「越前国、一揆持ちにまかりなる」との一向一揆による織田分国奪取の飛報。

一揆は杣山・真柄・織田荘・志比荘・河口荘などの中世の荘郷を単位とするものと、河北・大野・北袋などのように荘郷よりやや広い地域を単位とするものがみられる。しかし、いずれの場合も一揆は内部では惣代を指導者とする村規模の結合がある。
室町期より荘郷のもとで村が形成されつつあり、朝倉氏時代末には村の指導者として惣代が知られるようになり、村堂を中心とする自立的な集団に成長、このような村が一揆の基礎単位となり13万余いわれる大規模な国中一揆が蜂起。

一揆指導者は北袋一揆の島田将監のような武士もみえるが、坂井郡本庄の宗玄、吉田郡河合の八杉木兵衛、同郡志比の林兵衛、丹生郡天下村の川端などは、惣の農民的指導者で、河合の八杉は、義景の女を教如の室とする為に大坂に送り届けた人物とされ、本願寺門徒と思われる。
七山家一揆の指導者は、伊知地の庵室兵衛、坂口才六左衛門、洞の孫右衛門、山下道場の左近太郎・同掃部太郎・同入道道清、岸陰弥次右衛門とされ(「朝倉始末記」)、有力農民、道場の名を冠する者、隠居でその家屋が道場の役割を果たしたとされる庵室がみえ、彼等も本願寺門徒と思われる。
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2月18日
・秀吉、八幡宮に社領160寄進。
20日、今浜(この春、長浜と改める)の八幡宮に社領160石の寄進。
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2月18日
・ネーデルランド軍、ゼーラントを占領。
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2月20日
・一揆の惣大将・本願寺坊官の下間頼照、坂井郡竜沢寺にの安堵状を発給。
頼照は軍事最高指揮者(惣大将)のみならず、寺領安堵などの政治的支配権も認められている。
「朝倉始末記」は頼照を「守護」と呼ぶ。
6月下旬、木ノ芽城の信長守備兵を退却させ、本願寺・一揆勢が越前嶺北部を支配するようになると、足羽郡司に下間和泉、大野郡司に杉浦玄任、府中辺の郡司に七里頼周が任命される。郡司は郡内の軍事動員に当たる。
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2月21日
・丹羽長秀、若狭西福寺に寺領を安堵。この頃には長秀は若狭支配権を手中にする。
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2月23日
・仏、第5次ユグノー戦争始まる。肉食日(四旬節前の3日間)の陰謀
アランソン公フランソワ、ユグノーと共にシャルル9世・母カトリーヌ襲撃を計画(ユグノーのショーモン・ヴィトリー、シャルル9世・カトリーヌ虐殺後、アランソン公がユグノーを率い一斉蜂起する計画)。
アンリ・ド・ナヴァールとマルゴが背後からアランソン公を操る。
ショーモン・ヴィトリー、共謀者もなく攻撃に不十分な1部隊だけでサン・ジェルマン宮殿前に現れ、国王衛兵に逮捕。失敗に気付いたマルゴ、陰謀を母カトリーヌに通報。母が陰謀情報を得ていることを知ったアランソン公、全てを告白、仲間達を全て売る。
アンリ・ド・ナヴァール、陰謀計画は自分の自由を取り戻す手段、謀反意図はないと弁明。
コンデ公、現場にいなかったため陰謀にも不参加として許される(恩赦を知らずドイツに逃亡、再び新教に帰依。ルートヴィッヒ・フォン・ナッサウやセダン大公と、カトリック王政への雪辱戦を準備開始)。

ガブリエル・ド・モンゴメリー、ノルマンディ諸都市を王権に対して蜂起させ農村地帯での掠奪開始。

カトリーヌ、陰謀関係者として(王権に忠実な)モンモランシー元帥 (フランソア・ド・モンモランシー、モンモランシー大元帥長男、44、1530~1579)とその一族コッセ元帥を逮捕。弟のダンヴィル伯アンリ・ド・モンモランシー(モンモランシー大元帥次男、ダンヴィル伯、40、1534~1614)は公然とユグノーの味方となる(モンモランシー家は、代々、分離独立を指向する地方ラングドック総督)。
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2月28日
・越前国中一揆勢、大野郡平泉寺と逃げ込んでいる土橋(朝倉)信鏡(景鏡?)を攻撃。杉浦玄任・下間和泉・若林長門守と、越前の本願寺派有力寺院(大坊主)の本覚寺・専修寺などが一揆を指導。この攻撃は一揆勢大敗に終わる。
4月、平泉寺は焼かれて衆徒は壊滅、信鏡は戦死。
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