鎌倉 長谷寺 2016-06-01
*應永26(1419)年
10月
・関東で大地震。
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・仏、ブルゴーニュ公フィリップ善良公(23)、ヘンリ5世との同盟交渉開始。
ブルターニュ候もフィリップ善良候に誘われてイングランド派になる。
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・プラハでは穏健路線が定着し旧市街と貴族側とに一種の同盟が成立。
急進派はセジモヴォ・ウースチーの近くの要害堅固な丘の上に本格的防備を施した街を造り、聖書にちなんで夕ーボルと名付け、その中でヤン・ジシュカや説教師アンプロシュなどの指導者が頭角を現わす。
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11月
・フス戦争開始(1419年11月~1436年7月、17年間)
反カトリック、反ドイツ、反封建農民一揆の性格。
プラハ4箇条(説教の自由、両形色による聖体拝領の自由(俗人聖盃の自由)、聖職者の世俗財産・支配権の放棄、世俗権執行者による大罪者の処刑)。
フス派:
ウトラキスト(穏健派・聖盃派・カリクスト、貴族・商人)。
タボル派(過激派・急進派、農奴制廃止・土地共有などの社会革命も企図)。
この年1419年蜂起、翌1420年皇帝ジギスムントは十字軍10万を派遣するがヤン・ジシュカ率いるタボール軍に敗退、ベーメンから退却。
1421、1426、1427、1431年と合わせて5回の十字軍が派遣されるが、悉く敗退。
1428年頃からフス派は攻勢に転じドイツ各地へ遠征軍を派遣。
1428年シレジア、1429年ザクセン、1430年シレジアとハンガリー、1431年シレジア、スロバキア、ハンガリー、オーストリア、1432年ラウジッツを襲撃、1433年ドイツ騎士団領を横断してバルト海に至る。
1434年フス派穏健派がカトリック派と和解、共同してフス派急進派タボール軍をリパニの戦いで破り、フス戦争は終結。
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11月4日
・~9日。前国王異母弟神聖ローマ皇帝ジギスムント、戴冠式の用意のため軍勢(数は少ない)プラハの王城に送る、プラハ市は拒否、小競り合いの後、本格的戦闘に激化。
ジギスムントは一旦軍を引く。
しかしこの事件がもとで、前国王妃ジェフィエが摂政を辞任、ジギスムントとフス派の間を取り持つ者はいなくなる。
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11月6日
・ヴェネツィア、トルコのスルタン、メフメト一世と条約
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12月
・ボヘミア、モラヴィアのブルノで皇帝ジギスムントはチェコ王国代表団と会見。
ジギスムントはフス派教徒の暴力行為を容認してきたプラハ市の責任を咎め、カトリックの聖職者や市民の帰還、市が構築した防御施設を破壊などを求める。
また、8~9月のプラハ議会も、国王の承認を得て開かれたものではないとして、ジクムントはその決議無視。フス派は窮地に追い込まれ、クトナー・ホラではフス派聖職者達が捕われ坑道に投込まれ殺害される。
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12月2日
・ヴェネツィア、ボローニャと条約
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12月2日
・仏、英とアラスの予備会議。
21日、英とルーアンの予備会議。
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12月12日
・庶民の雲脚茶会。
「雪霙降、・・・今夜また台所において男共、連歌張行す、暁天百韻し畢ぬ。当年月並次一度も闕怠せず。珍重なり」(「看聞御記」同日条)。
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12月25日
・ブルゴーニュ公フィリップ、シャルル王太子に対抗。ヘンリー5世と同盟締結
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應永27(1420)年
この年
・フィレンツェ、ジョヴァンニ・デ・メディチ、コジモとロレンツォに事業を任せ、財界から引退。
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・ナポリ女王ジョヴァンナ2世(ジャンヌ)、アラゴン・シチリア王アルフォンソ5世をナポリに招請、ナポリ王国王位継承者として養子縁組を約束。
ミラノのフィリッポ・マリア・ヴィスコンティ(ジェノヴァを獲得した直後)と、教皇マルティネス5世(アンジュー支持)のアルフォンソ5世に対する敵意が増大。
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・皇帝ジギスムント(ハンガリー王)、ダルマツィアをヴェネツィアに割譲。ハンガリーのアドリア海進出に幕を下ろす。
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・オスマン・トルコ、モルドヴァを攻撃。
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・ハンザ同盟とデンマーク開戦。
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1月
・相次ぐフス派の事件に憂慮した教皇マルティヌス5世、フィレンツェで「十字軍勅書」発令。
全キリスト教諸国に対し、異端撲滅のために十字軍に参加し、参加者には「贖罪」特典が付与されると宣言。聖職者に対してはこの十字軍についての説教をし、参加者を増やすことを求め、かつ多数の説教者がヨーロッパ各地に派遣。特に教皇特使ルカ、司教フェルディナントの尽力は大きく、十字軍参加者は増大。
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・初頭、ボヘミア南部ピーセクでタボル派(ルスニツェ河畔の丘をタボル山と名付けたことに由来)が共同生活復帰の最初の実験を開始。
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2月
・神聖ローマ皇帝ジギスムントは密かに軍勢を召集。
(前年末「正統な王位継承者」としてチェコのカトリック諸侯及び聖職者に重税を課し、彼と友好的な宗教的な領地から十分の一税を徴集)。
2月、プルゼニ、フラデツ、ピーセクなどへウィリクフ派処刑を命じ、ローマ教皇にウィリクフ派及びフス派教徒への「十字軍」宣言を求める。
穏健フス派路線をとりジギスムントと妥協するプラハの方針は行き詰まる。
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2月21日
・タボルにフス派拠点構築
ボヘミアのフス派の急進グループ(ヤン・ジシュカ)、タボルに要塞を築く。
(司令部をプルゼーニからタボルに移す)
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3月
・前年、施進卿(パレンバンの華僑の頭目、明朝よりパレンバン宣慰使に補任、応永15(1408)6月若狭に来航)の後継施済孫の派遣と推定される南蛮船、南九州に着岸。
8月~この年2・3月、九州探題渋川道鎮と探題職を継いだ子義俊は、領内に南蛮船が停泊したと推測される阿多氏に対して南蛮船を博多へ回航させるよう促す。
この月(3月)、島津氏が来襲し急遽南蛮船は出航、4月博多に廻航。廻航途中か帰国出航の前後かに破船。
琉球の外交文書を編集した「歴代宝案」によると、翌28年渋川道鎮はパレンバンの施主烈智孫が派遣した使者一行を琉球に送り、琉球より逓送帰国させることを琉球側に求めるが、琉球・パレンバン間の国交はなく、暹羅(タイ)への遣船に便乗させ暹羅より転送することになる。
施進卿は永楽14年(応永23年)春頃の後、まもなく没。
同17年(応永26年)頃、子済孫が頭目の地位を継ぎ、同21年(応永30年)、宣慰使補任を明朝に請願。
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・この頃、皇帝ジギスムント、タボル派に属さないプラハのフス派を攻撃。
ヤン・ジシュカ、プラハのフス派支援に向かい、9月迄、タボル山に帰らず。
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・仏、パリ大学、「教養学士兼教会法学士」ピエール・コーションらをシャルル6世・王妃イザボーのいるトロワに派遣。
パリ大学は、イギリス・フランスをランカスター王家の下におく「二元王国」の理論を準備。
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初め
・仏、王太子シャルル(後の7世)、ムラン、モントロー、コンピエーニュ、モーなど北フランス拠点を腹心に委ね、前年19年12月末、南の王領(ラングドック)に向かい、ブールジュ、リヨン、アルビと廻り、この頃、トゥールーズ入り。パルルマンを設定してラングドックの支配を確立。
ラングドック地方三部会、王太子シャルルの20万フランの援助金可決。スコットランドも王太子を支援。
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3月1日
・教皇マルティヌス5世、フス派に対する十字軍の派遣提唱。
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4月
・プラハの城伯チェニック・フォン・ヴァンテンベルク、ポーランド王ブワディスワフ・ヤギェヴォに密かに使者を送り、ボヘミア(チェコ)王国の君主就任の内意を確かめる。同年8月再び使者派遣。
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4月3日
・プラハ、ジェリフのヤン、ジギスムント皇帝を「黙示録の赤い龍」に例えた演説。
武力対決不可避の状況。
3日、旧市街・新市街のフス派教徒が集結、命がけで二種聖餐を守ることを誓い、両市街に4人ずつの執政官を任命。
20日、ジェリフのヤン、ボヘミアとモラヴィアの全ての身分と共同体に決戦呼びかけ。
フス派の貴族、ヴァルテンベルクのチェニェクとロジュンベルクのオルシトフ参加。
ジギスムントの王位継承破棄を目的とした共同防衛を宣言。
5月の会合でフス派に属する様々な意見の代表者達の間で「プラハ4箇条」が取り決められる。
①説教の自由、
②両形色による聖体拝領の自由(俗人聖盃の自由)、
③聖職者の世俗財産・支配権の放棄、
④世俗権執行者による大罪者の処刑。
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4月19日
・ベルーノ市、ヴェネツィアに降伏
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4月21日
・朝鮮の回礼使の宋希環(45)、京都に到着。
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