2016年6月18日土曜日

應永29(1422)年1月~12月 クトナー・ホラ、ニェメツキー・ブロットの戦闘(フス派勝利) フス派の独裁者・説教師ヤン・ジェリフスキー暗殺 ヘンリ5世(34)没 ヘンリ6世(9ヶ月)即位(英仏に摂政をおく) 第3次異端撲滅十字軍失敗 シャルル6世(54)没 シャルル7世(19)即位

鎌倉 明月院 2016-06-14
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應永29(1422)年
この年
・ヴェネツィア、人口19万人。
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・フィレンツェ、ジョヴァンニ・デ・ピッチ(61)、ゴンファロニエーレ・デッラ・ジュスティツィアに選出。
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1月
・クトナー・ホラ、ニェメツキー・ブロットの戦闘。
ジシュカのフス派、ジクムント王軍をクトナー・ホラで破り、ニェメツキー・ブロッド(現ハヴリーチュクーフ・ブロッド)まで追跡、壊滅させる。
その後、ジシュカはターボルから出て、北東チェコに「小ターボル」をフラデッツ・クラーロヴェーの拠点とともに建設。小ターボルには東チェコの都市連合と大勢のフス派下級貴族も参加を表明。
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3月
・プラハ、フス派の独裁者・説教師ヤン・ジェリフスキー、旧市街の参次会員により暗殺。

新市街のジェリフスキーのシンパによる旧市街攻撃で、市街地の多くが破壊。
暴動2日目には旧市街参事会員5名が「ジェリフスキー謀殺」の罪で処刑、多くの保守的な大学の教授達が投獄、その他の者も「罪の償いのため」と称して急進派の支配する都市フラデツ市に送られ、強制労働。
しかし、市政運営には旧市街の経験豊富な人々が不可欠で、追放や処罰にも関わらずプラハでの旧市街の人々や穏健派の勢力は除々に大きなものとなっていく(プラハの支配権、裕福市民層に移る)。
プラハの政治的右傾化の後、プラハとターボル、その他のフス派都市との連帯は途切れ始める(時として戦争となり、後、一時的な妥協)。
しかし、本質的にはフス派軍がリパニの戦いで究極的敗北を喫するに至る展開の方向が、既に1422年に決定されている。
フス戦争は、過去3年間の社会革命の戦争が、民族防衛戦争の性格を強める。

市政はジェリフスキーの支持者が引き継ぐが、ジェリフスキーほどの強力な指導者が現われなく、旧市街と新市街は再び分かれ、全体としては旧市街の優位のもとで穏健なフス派の拠点としての道を歩む。
急進派拠点になるのは、プラハ以外の都市で、特にターボルは、ジシュカという優れた指導者を得て発展し、これ自体が都市同盟の盟主となる。

ジシュカは北ボヘミアで占領した砦を「カリフ」(聖杯)と名付け自分のものとし、自ら「聖杯のジシュカ」と名乗り騎士身分を自称。
またターボルは、都市に集まる人々の生活の為に、周辺の農村から地代を徴収。
ジシュカは負けを知らない指揮官として非常に尊敬されている。
ターボル派諸都市から集められた軍隊は、彼の指揮下に都市毎に編成され、野戦軍としてフス派軍隊の主軸となり、勇猛な戦いぶり、優れた装備、戦争技術で敵を圧倒。
農民主体の歩兵が、多数の銃や大砲を備え敵騎馬軍の攻撃を打ち砕き、混乱に陥ったところを斧やクロバーチ(とげのついた鉄の球を鎖で棒の先端に結びつけた武器)を持った歩兵が襲いかかり打ちのめす。
戦車を使った砦も、ターボル派の戦闘方法で有名。馬に引かせた多数の戦車を連ねて戦場に赴き、適切な場所で戦車で囲いを作って鎖で繋ぎ、短時間で即席の城塞を構築し、内側から至近距離で銃撃や砲撃を浴びせる。リパニの戦いでは戦車360~480を連ね砦は5~10ha程と云われる。
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3月3日
・フランチェスコ・スフォルツァと妻ビアンカ、ヴェネツィアで歓迎
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4月23日
・ヴェネツィア、ヴェネツィアに好意的なエジプトのスルタンに特権を与える
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5月
・中旬、リトアニア大公ヴィタウタス(チェコ語ではヴィトルト)の甥のコリブート、「国王の代理」としてプラハ着。
チャースラフ議会でジクムントを拒否しポーランド王家(ヤゲウォ)ヴワディスワフ2世を王として迎える決議をしている。
王位就任要請を受けたヴワディスワフは、これをリトアニア大公ヴィタウタスに提供し、ヴィタウタスが甥コリブートを代理として派遣。
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5月16日
・幕府、小早川則平に、西国の菊池兼朝と大友親著の私闘をやめさせる。
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5月19日
・ヴェネツィア、イモラ君主ロドヴィーコ・アリドーシに通商特権を与える。
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5月26
・ヴェネツィア、女中より生まれた子供は大議会に加入を許されぬ
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6月
・オスマン・トルコ、全く不意にコンスタンティノープルを包囲。
スルタン、ムラード2世(位1421~1451)、包囲を解く。
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6月30日
・ミラノ公傭兵隊長カルマニョーラ、アルベトでスイス軍を破る。
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7月9日
・ヴェネツィア、大議会議場の修復のため、一人の画家が、年俸支払いで引き受ける
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8月3日
・ランカスター家イングランド王ヘンリ5世(34)、転戦中のヴァンセンヌ城で没(赤痢?)。
31日、ヘンリ6世(9ヶ月)、即位。

ヘンリ5世弟ベッドフォード公ジョン(33)がフランス王摂政となりヘンリ6世を補佐。政治・軍事面で指導力発揮。パリ防衛強化、ノルマンディーのオージェ地方やセーヌ川沿い地域でのゲリラに対決。

イングランド摂政は弟グロスタ公ハンフリー(グロスタ公ハンフリーは王族・諸侯の信任を得られず、評議会内部で支持基盤獲得できず、常にウィンチェスタ司教派(ヘンリ・ボーフォート)におされる)。
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9月27日
・ドイツ騎士団、ポーランド・リトアニアと和平締結。
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10月
・イングランド摂政グロスタ公ハンフリー(前国王ヘンリ5世弟)、エノー・ホラント・ゼーラント伯ウイリアム娘ヤコバと結婚。
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10月3日
・佐竹上総入道、比企谷で上杉憲直(詫間上杉)討たれ、法華堂で自害。
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10月13日
・第3次異端撲滅十字軍、失敗。
ニュルンベルク帝国国会で決議。ブランデンブルク辺境伯フリードリッヒ指揮権の軍、この日チェコに侵攻。合流する手筈のその他の侵攻軍は僅かで、軍勢は防御の手薄なピルゼンを攻略したのみ。プラハに入った「国王代理」コリブートの仲裁の労もあり、翌年3月までに全十字軍が退却。
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10月21日
・フランス国王シャルル6世(54)、没。
王太子シャルル(19)、シャルル7世として即位。
ヘンリ5世の嬰児がヘンリ6世として「仏国および英国王」を呼称、仏王太子シャルルもロアール河の南で王位(シャルル7世)を名乗るが、いずれも王位継承に欠かせぬランス教会における聖別・戴冠の儀式は挙げていない。

フランス摂政ベドフォード公ジョン(33)ブルゴーニュ候と同盟。
シャルル7世アルマニャック派の援助でブールジュ・ポワティエ以南を持ちこたえている。
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12月
・「国王代理」コリブート、リトアニア大公ヴィタウタスの命令でプラハを去る
その後1424年に再び援軍を連れてプラハに戻り、ボヘミア統治者としてフス派を率いる。
1427年4月、ローマ教皇との和解を企てたことがもとで捕われ故国に送還。その後も何度かフス派として戦いに参加。1435年故国リトアニアで戦死。
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