2016年12月20日火曜日

12月20日は岸田劉生の命日。 岸田劉生(1891-1929) 《児童肖像》 《村嬢於松立像》 《村嬢於松之坐像》 《ほろよい》 《自画像》1908 《自画像》1913 《自画像》1914 《古屋芳雄像》 《古屋君の肖像(草持てる男の肖像)》 《麗子尚蔵(麗子五歳之像)》 《麗子六歳之像》 (国立近代美術館MOMATコレクション2016-12-08) 




▼国立近代美術館MOMATコレクション2016-12-08

岸田劉生(1891-1929)
《児童肖像》1921大正10

《村嬢於松立像》1921大正10

《村嬢於松之坐像》1920大正9

《ほろよい》1910明治43年頃

《自画像》1908明治41年

《自画像》1913大正2年
20歳の頃、劉生は複製図版を通してファン・ゴッホの作品に出合い、衝撃を受けます。
悲劇の画家への若者らしい共感もあったでしょうが、もう一つ彼を惹きつけたのは、それまで日本にはなかった分厚く絵具を盛り上げる描き方でした。
劉生はさっそくこの技法を用い、自分や友人の肖像を次々と制作します。
まだ乾かない絵具にどんどん絵具を塗り重ねるこの技法により、制作のスピードは極端にあがり、湧き起こる感情を素早く捉えることが可能になりました。
ちなみに劉生にとって、ファン・ゴッホの絵具のぺちゃぺちゃと、その苦労多い生涯に流した血や汗は、分かちがたく結びついていたようです。
以下、劉生のゴッホ評です。
「彼は痛ましい程にその画布におのが血をちぬった。彼の絵には生き物のきたなさが露骨に出て居る。彼の画には化粧がない。汗がだらだら流れて居る。」

《自画像》1914大正3年
この作品が描かれたのは1914年(大正3)4月9日。
長女、麗子が生まれる前日です。
22歳だった劉生は、制作中、妻、蓁(しげる)のうめき声にいら立ち、怒鳴りつけたといいます。
成長した麗子は、数えで5歳から16歳まで劉生のモデルをつとめました。

《古屋芳雄像》1916大正5年

《古屋君の肖像(草持てる男の肖像)》1916大正5年

《麗子尚蔵(麗子五歳之像)》1918大正7年
劉生は生涯に三度、大きく画風を変えました。
最初はファン・ゴッホ風、次にひたすら細かく描く「細密描写」、最後に中国や日本の古い絵画を参照した東洋画風です。
その三つともが日本近代美術の歴史に大きな影響を与えたのですから驚きです。
この作品は細密描写の時期のもので、愛娘、麗子を描く有名なシリーズの最初の1点です。
上部にアーチ状の額が描かれていて、よく見ると全体が「『額に入った麗子の絵』を描いた絵」というだまし絵になっているのがわかります。


《麗子六歳之像》1919大正8年


国立近代美術館HPより
MOMATコレクション
3室
響き合う劉生
 日本の近代美術を代表する画家のひとりである岸田劉生(1891-1929)。彼の作品の楽しみ方のひとつは、じっくりと見比べてみることです。
 たとえば一年違いの自画像。色彩やタッチやサインが違います。1914(大正3)年の方が渋い男に見えるのは陰影のつけ方のせいでしょう。日付から、この絵は娘の麗子が生れる前日に完成したことがわかります(ちなみに1913年の方は結婚から約4カ月経った頃の絵)。
 医師である古屋(こや)君を描いた作品では、水彩画と油彩画とで人物の印象が異なります。油彩画では手に草(カヤツリグサ)を持たされていますが、違いはそれだけではないはず。見比べているうちに、髪型や左目のまぶた、顔の角度も微妙に変わっていることに気づくでしょう。
 「草」は他の絵の中にも見られます。たとえば5歳の麗子が手に持っているのは、赤まんま(犬蓼:いぬたで)という植物。古屋君とは持ち方が違いますが、どちらが大人っぽい持ち方に見えるでしょうか。壺の絵の中にも草は見られ、紋様としての草とサインとを見比べてみると、形がさりげなく響き合っていることに気づきます。


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