2016年12月18日日曜日

正長元(1428)年11月~正長2/永享元(1429)2月 イングランド軍のオルレアン攻囲の第二段階 将軍義教の仙洞御所包囲(義教、独裁・専制に傾く) ジャンヌ・ダルク出現し王太子シャルルと会見

新宿御苑
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正長元(1428)年
11月6日
・仏、ノルマンディー地方に最初の召集。
翌1429年3月29日、再び召集。
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11月8日
・オルレアン攻囲のイングランド軍の一部、撤退。
攻囲戦は第2段階に入る。
主な兵力をトゥーレル城塞に残し、大部分が冬の陣営をマン・シェル・ロワール、ジョルジーの町に設営。春までは、オルレアンを餓えと心理的不安に追い込む作戦。
イギリス側は、ジョン・フォルスタッフが兵1万2千と武器・食糧と共に到着。
オルレアン側は、この間に周辺地区の建物(サン・マルク、サン・ジェルヴェー、サン・トゥーヴェルトの諸教会)を包囲側の攻撃拠点とさせない為に破壊。
この間、オルレアン側には、ルイ・ド・キュランが若干の騎兵とジョン・スチュアート指揮のスコットランド兵が加わる(のちジョン弟ウィリアムも加わる)。
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11月9日
・この日付け中納言中山定親の日記の抄録『薩戒記』に、

武士、仙洞を囲み奉るの由、浮説あるの事。
(幕府の軍勢が仙洞御所を包囲したのではないかとの噂が、洛中の一部に流れている)

幕府が、仙洞と外部(関東か伊勢か)との連絡を遮断する目的で、秘かに警備線を敷いたと推測できる。

義教はこれまで、朝廷に対して事を荒立てない方針で来ていた。しかし持氏への将軍宣下の噂が頻りに流れた10月頃から、次第に強硬策を採用し、この仙洞包囲(単なる噂か実行したか不明だが)前後がそのピークであった。
そして、後小松上皇の抵抗も以降は影をひそめ、上皇と結びつこうとする反乱者の動きは絶たれることになる。

義教は、「仙洞包囲」という強硬策によって、政権基盤を固めることに成功した。
この頃を境に、義教は衆議にはかる政治から、次第に独裁的、専制的な指向に傾きはじめた。
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11月16日
・フス派遠征軍に対抗するアルブレヒト・フォン・コルディッツ、援軍を得て遠征軍を追い詰め、この日クラツァウ付近の戦闘でフス派遠征軍に対して大勝利。要塞ツォブテンは再奪還。
シュレジェンでも「反フス派」の防衛同盟が結成。
しかし、その後「復讐」にもえるフス派軍の侵攻をうけ、ミュンステンベルク公は敗北。オーラウ公領は強掠。
1429年、オーストリアが遠征軍の「火の洗礼」を受ける。
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11月22日
・幕府、管領畠山満家(57)の名で、徳政を求める一揆の禁止令を出す。
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12月1日
・オルレアン包囲の英軍指揮官ジョン・タルボットが任命(ソールズベリー伯トマス・モンタギューの後任)、この日到着。側近はトマス・スケールズ、サフォーク伯ウィリアムの弟ジョン。トゥーレル城塞の隊長はウィリアム・グラスデール。
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12月21日
・北畠満雅の子の北畠教具ら、雲出川で土岐軍を大破、土岐持頼は近江に退却。
足利義教は土岐持益を筆頭に細川・佐々木・仁木・一色・世保・大館諸氏総勢6万、後詰として赤松満祐・山名宗全ら2万を差向ける。
満雅は陣頭指揮して戦うが、岩田川の戦いで山名宗全・赤松満祐の側面攻撃をうけ、一族精鋭数100と共に戦死。小倉宮は、嵯峨に戻る。
北畠氏の一志郡・飯高郡の所領は没収され、幕府についた長野・雲林院氏に与えられる。
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12月末
・美濃羽崎村に隠棲の義仁親王(35、天基天皇)、土岐持益により殺害。
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12月末
・ジャンヌの2度目のヴォークールール訪問。クリスマスの数日後。
ジャンヌは、守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに案内をつけて国王の許に連れて行くよう要請。拒否されるが、再々度町に戻る。
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正長2/永享元(1429)年
この年
・和市(米の相場)の成立。
和市が荘園領主の荘園支配における重要問題となり、この年以後の代官職請文には、和市のことが「御代官の一大事只これに在るか」と特別に重視される。

貨幣経済の発展によって代銭納が一般化するようになり、地方市場で貢納物の売却が頻繁になると、そこに和市が成立する。
農民が米で年貢を納め、代官は米を銭に換えて荘園領主に銭納。
従って、代銭納が一般化するなかで和市が荘園支配の重要な問題となり、和市の正確な報告、米を有利に売却する情報を売人(商人)から得ることが代官の重要な任務となる。

康正元年(1455)代官中尾幸聡が東寺から和市を偽ったとして罷免され、翌2年代官の報告と農民の報告した和市の違い目が報告されている。
この頃の荘園支配は代官請負制が普及し、荘園領主は荘民の実態を把握することよりも荘園の年貢納入決算書である散用状(算用状)の数字のみに関心を寄せ、代官の和市に関する不正に神経質になり始める。
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・琉球、中山の尚巴志(第1尚氏王朝)が他の二山(北山、南山)を倒し、初めて全島統一に成功。
1469(文明元)年、尚円の第2尚氏王統が政権を握る。
統一王朝は、明朝との冊封・朝貢貿易の独占(王権強化)、中国・朝鮮・日本・南海諸地域を結ぶ仲継貿易に躍進。
南海交易は、15~16世紀初頭、その全盛期をつくり出し、これにより日本にもたらされた南海物資は、室町幕府、諸大名、諸商人が競って求め、一部は朝鮮・中国へも再輸出される。
明朝冊封体制は、海禁政策によって琉球王国の交易活動の場を拡げただけでなく、その政治的秩序により王国の権威を高めた。
明朝は日明通交の仲介役を王国に求め、九州地方の勢力は琉球使節と偽って朝鮮と交易(冊封体制下の琉球王国の政治的地位を利用)。
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・ジョヴァンニ・デ・メディチ(69)、没(1360~1429)。
長男コシモ(コジモ)(40、1389~1464)、メディチ家の当主となる。父から莫大な財産を受け継ぐ。
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・フィレンツェ、ルッカへの侵略戦争(1429~1433)。
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・人文主義者、ギリシア語教師、教育者グァリーノ・ダ・ヴェローナ(55)、フェラーラに落ち着く。フェラーラ候ニッコロが招聘。
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・フス派遠征の再開。
プロコプが軍勢を率いオーベル・ラウジッツを経てドレスデン、グローセンハイン、ツィタウ、バウシェン、ニーデルラウジッツに入り、ブランデンブルク国境沿いを強掠。オーデル河畔を荒らし、ゲルリッツに至る。
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・オックスフォード大学リンカン・カレッジ創立。
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・スコットランド王ジェイムズ1世、フランドルと貿易協定。翌年、大砲を輸入。財源は増税、統治への不信感強まる。
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1月19日
・播磨の土一揆発生。赤松満祐、京より帰国。
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2月
・仁木氏、大和宇陀郡の秋山氏・沢氏の追討に出兵。沢・秋山らは北伊勢の関氏と共にこの月まで抵抗。2月初頭、戦況は土一揆が前面に出る。

4日、「字多土一揆大将ハイ(榛)原ノトネ(刀禰)ト云者兄弟」が討たれ退く。
24日、沢・秋山が「自焼没落」後、宇陀郡に沢・秋山の復帰を防ぐ為に、興福寺大乗院では「宇多の土民らが国中(大和平野部)へ逃れ出ようとするだろうから、方々の口を指し塞ぎ土民を詰めて苦しめよう」との戦術を立てる(「満済准后日記」)。
土民と沢・秋山ら国人の動きが一体と看做されている。
宇陀郡の土一揆は、国人・土豪の郡内一揆と密着して動いている。
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2月5日
・丹波に土一揆。
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2月12日
・鰊(にしん)の戦い。
オルレアンの私生児、オルレアン守備隊とブロアに結集したクレルモン伯シャルル・ド・ブルボンの兵4千と協同で、ジョン・フォルスタッフ指揮の糧秣(鰊)輸送隊を攻撃。
オルレアン側の攻撃が連携を欠いたものになったのに反し、イギリス側は輸送用荷車群を砦として、アザンクールと同様の長弓隊が迎撃し持ちこたえる。
オルレアン側の反撃失敗。オルレアンの私生児負傷、ジョン・スチュアート兄弟戦死。シャルル・ド・ブルボンは戦闘に加わらず。
数日後、シャルル・ド・ブルボン、ラ・イール、ルイ・ド・キュランら武将はオルレアンを去り、オルレアンの私生児ジャンのみが残る状況となる。
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2月13日
・ジャンヌ(17)、ようやくヴォークールール守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに願いを聞き入れられ、護衛(準騎士ジャン・ド・メッス、ベルトラン・ド・ヴーランジー)、従者2人、伝令使ヨレ・ド・ヴィエンヌ、弓兵リシャールをつけて王太子謁見のためシノンへ向う。
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2月16日
・関氏追討の将軍御教書。
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2月17日
・ジャンヌに関する噂が広まる。
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2月23日
・ジャンヌ、シノン到着。
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2月25日(日付は3月6日説と2説あり)
・ジャンヌ、王太子シャルルと初会見。
英軍からオルレアンの町を解放し確保したいシノン城の王太子シャルルのもとへ、数人の騎士に護衛されて予言者と自称するジャンヌ・ダルクが現れる

謁見は2月下旬又は3月上旬。
広間の王座に家臣が座り、王太子は家臣の中に隠れるが、ジャンヌはこれを見破り、王太子との直接対話で信頼を得る。
居合わせたオルレアン守備隊長ラウール・ド・ゴークールは、ジャンヌと王太子シャルルの間で密かなやり取りがあり、その後王太子の陰気な顔が喜びに光輝くという。
王太子はそれでも、ジャンヌをシノン南方で王太子派背汚職者の集まるポワティエに送り、3週間、人柄・信仰を調べせせる。

「ポワティエ査問委員会」(委員長:ランヌ大司教ルニョウ・ド・シャルトル、後、ジャンヌに批判的になり、ジャンヌが捕われた時点で査問記録を破棄)

翌々日、王太子は、側近とジャンヌを連れてポワティエの町に移動。この町にパリから移住している忠誠な聖職者・神学教授にジャンヌを調べさせる。

審理委員会メンバのドミニコ会スガン・スガン修道士は、「前判決破棄審理」でこの最初の審理でのジャンヌの答弁を証言。
①ジャンヌの聴いた「声」は何語を話したかの質問に対し、リムーザン語(南フランスの方言)を話すスガン修道士より「良い言葉」と答える。
②神はフランスを救うなら、兵士は必要なかろうとの詩的に対して、「兵士たちが戦うからこそ、神は勝利を与え給う」と答える。質問した聖職者は満足したとスガン修道士は証言。この審理の間に、国王の義理の母ヨランド・ダラゴンの指示で2人の側近女性による身体(処女)検査が行われる。
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2月下旬
・オルレアン市民、ブルゴーニュ公に使節を送る。ブルゴーニュ侯は包囲中の兵を引揚げるということで応じる。
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