2017年4月27日木曜日

明治39年(1906)8月1日~31日 関東都督府官制公布(9月1日、大島義昌を関東都督) 韓国駐箚軍司令部条例公布 東京市電値上げ反対運動 漱石夫人がデモに参加とのデマ 「電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。」 東京小石川砲兵工廠スト 呉海軍工廠スト     

エドヒガン 皇居東御苑 2017-04-13
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明治39年(1906)8月
・三土忠造、韓国政府学部参与官(教科書編纂)
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・横浜正金銀行、漢口に出張所設置。
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・清国、新聞紙条例公布。
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・荒畑寒村、京都荒神口の菅野宅で1ヶ月過ごす。
この夏、東京の荒畑のもとへ、田辺から京都に戻った管野須賀子から京都へ逢いに来いと手紙が届く。荒畑は正則英語学校の夏期講習会に出るつもりで、堺に教科書を買ってもらっていたが、須賀子の手紙を受けとると、口実を設けて堺家を飛び出した。
彼は京都、河原町荒神口の須賀子の家に8月一杯を過した。東京の堺家にいる大杉栄や深尾韶からは冷やかされ、堺利彦からはいい加減に帰るようにとの手紙が来た。
須賀子が、自分も近く上京して同棲すると約束したので、荒畑は1月ぶりで堺家に戻った。
その間、大杉栄は、深尾韶と親しかった堀保子を口説いて2人で一家を構えていた。
保子は堺利彦の亡妻、(旧制堀)美知子の妹。
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・石川「堺兄に与えて政党を論ず」を発表。
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・日本留学生団体、東京基督教青年会創立。
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・東洋硝子製造株式会社創立(大阪)。日・英・仏・ベルギー4ヵ国の共同出資。1909年2月解散。
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・京都府の舞鶴海軍工廠の職工、相互救済の目的で、京都に共済会病院設立。1907年2月開院。
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・宮沢賢治、大沢温泉で開催された夏期仏教講習会に父と参加。この後もしばしば参加。
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・漱石『猫』最終回(「ホトトギス」)
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・近事画報社を独歩社に改める。
この年の春頃、近事画報社はいよいよ立ち行かなくなって、社長の矢野龍渓は解散を決意。戦争が終り、戦況に関心を持っていた読者が離れるとともに、新聞の写真製版術が発達して写真を載せるようになり、対抗できなくなっていた。
だが社員たちは解散を残念がり、自分たちの手で続刊しようと言い出し、編輯長の独歩(36歳)が押されてその中心になった。
独歩は自分が経営に当る決意をし、独歩社という新社を興して、8月号から社名を改めた。刊行物は、「近事画報」「婦人画報」、「少年知識画報」、「少女知識画報」、文芸雑誌「新古文林」であった。
「新古文林」は前年の明治38年5月創刊。創刊号には、広津柳浪、小栗風葉などの硯友社系作家の小説、独歩の友人である田山花袋の小説「帰航記」を掲載した。
「新古文林」は、この頃の主要な文芸雑誌である博文館「文芸倶楽部」、春陽堂「新小説」、金港堂「文芸界」と並んで、一応は文芸雑誌の面目を保っていたが、近事画報社が経営不如意になるに従って、稿料を払うことができなくなり、稿料なしでも作品を発表したがる新作家にその舞台を提供するようになっていた。
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・8月初め、河東碧梧桐(34歳)の全国俳句行脚行の送別会。
碧梧桐は正岡子規没(明治35年9月19日)の翌36年1月から、新聞「日本」に戻り、子規のあとを引き継いで俳句欄の選者になった。「日本」の俳句欄は、虚子の主宰する「ホトトギス」と並んで、子規の系統を曳きながら、ともに俳壇で重きをなしていたが、碧梧桐が新しい形式や新しい着想や発想の発見に努力するのに較べて、虚子の方は子規以来の写実主義の中に落ちついていた。碧梧桐は、感覚的写実主義とも言うべき自己の新傾向の俳句を、この旅行によって天下にひろめようとした。
碧梧桐の全国俳句行脚は、俳人たちにとって大きなニュースであった。碧梧桐は新時代の芭蕉をもって自ら任じているように見えた。地方の投稿者たちは彼の歓迎の支度をし、また東京の俳人たちは、彼の積極性に敬意を払った。彼のために経済的援助をしたのは本願寺法主の大谷句仏(くぶつ)だという噂が流れていた。"
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・中央電気株式会社創立。
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・日本エスペラント協会、『日本エスペラント』創刊。
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・富士製紙、北海道江別工場の建設に着手。
8月1日
・関東都督府官制公布。
遼東半島の旧露租借地を関東州と命名し旅順に関東都督府を設置する勅令を公布。
都督は陸軍大将または中将。
清国の関東州を管轄し満鉄線路の保護取締り・満鉄業務の監督を行う。旅順に関東都督府設置。9月1日、大島義昌を関東都督に任命。
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8月1日
・日本側陸軍少将中村愛三、露側ドウイッチ、東清鉄道公主嶺~寛城子間授受終了に関する公文書交換。1907年4月1日同鉄道を満鉄に引き渡す。
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8月1日
・韓国駐箚軍司令部条例公布。司令官は陸軍大将または中将、天皇に直隷、統監の命令あるときは兵力を使用。
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8月1日
・内務省、東京市内電車3会社合併、9月11日より4銭均一値上げを認可。
日本社会党、ボイコット運動「乗らぬ同盟」提唱。
8月7日、日比谷公園で反対市民大会開催。
9月5日、再び反対市民大会開催。市民数千人が日本橋・神田付近で暴徒化。
12日、4銭均一実施。
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8月1日
・日米海底電信線開通。日米間で電報直接取扱開始。
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8月1日
・米独、互恵関税条約調印。
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8月2日
・日本、遼陽に領事館設置。
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8月3日
・萬歳生命保険株式会社創立(東京)。資本金100万円。
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8月4日
・清国、女学教育章程制定。
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8月4日
・徳富蘆花(健次郎)、トルストイと会ったあと、シベリア経由で帰国。この日、敦賀に上陸。
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8月4日
・日露通商条約交渉開始(ペテルブルグ)。
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8月5日
・イランのカージャール朝、憲法の詔勅発表。
イラン国王、大臣アイノッ・ドーラを解任し、国民議会(マジュリス)開設に合意。
10月7日、初議会。自由憲法起草。
12月30日、国王、草案に署名、31日没。
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8月6日
・廃兵院条例公布(勅)。陸軍大臣の監督下で、所在地所管師団が管理、入院資格など規程。
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8月7日
・清国の各省留学生の日本派遣停止。
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8月7日
・8月1日に内務省が東京の市電4銭均一値上げを認可したことを受けて、日比谷公園で東京市電値上げ反対市民大会開催。
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8月7日
・啄木(20)、文芸雑誌「小天地」発刊に絡む大信田落花への負債を「委託金費消」事件として告発され取り調べを受ける。落花の証言により不起訴処分。啄木は一禎の宝徳寺再住問題に絡む捏造事件だろうと推量。
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8月10日
・清国、日本の関東都督府設置に抗議。
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8月10日
・電車ボイコット運動、行進ビラ配布。
午前9時、社会党員14人、「乗らぬ同盟」運動のため党本部(神田三崎町、森近経営ミルクホール平民社)出発、
午後5時、数万のビラ配布終る。
20日、再度、行進ビラ配布。

■夏目漱石と電車ボイコット運動
翌日の『都新聞』記事。見出し「電車値上反対行列」。

電車賃値上反対の旗幟を標榜して其の絶交運動(ボイコット)を市民に促す為め、開催されたる日本社会党有志者の行列は、昨日午前九時五十分、神田区三崎町三丁目一番地の同党本部を出でたり。行列の一行は出来得るだけ質素に且つ静粛ならん事を期したるより、総数を十人と限り、堺枯川、森近運平、野澤重吉、菊江正義氏外四名と、堺氏の妻君、夏目(漱石)氏の妻君、是れに加り、各自浴衣に尻端折、或は筒袖に草履穿といふ遠足式軽装を為し、婦人連も小褄(こつま)をキリと引上げて、頗る身軽に見受けられたり。(略)

『都新聞』を読んで驚いた美学者の深田康算(やすかず、後の京大美学教授)は、すぐにこの記事を切り抜いて漱石へ郵送したらしい。
それに対して漱石は、8月12日に深田に返事を書く。

拝啓、今頃は仙台の方にでも御出の事と存候処、突然尊書飛来、都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候。電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。ことに近来は何事をも予期し居候。新聞位に何が出ても驚ろく事無之候。都下の新聞に一度に漱石が気狂になつたと出れば、小生は反つてうれしく覚え候(略)

このデマは1匹の猫が引き起こしたもの。
事件の5ヶ月後、大杉栄が『家庭雑誌』(1907年1月号)に「飼猫ナツメ」という文章を書いている。

一九〇六年の春、由分社(=堺家)に一匹の可愛い子猫が加藤時次郎の病院からもらわれてきた。雉子色でよくじゃれる元気な猫だった。その名前が「ナツメ」。命名したのは飼い主の堺利彦である。かの『吾輩は猫である』の著者の夏目漱石と発音が同じだというので、由分社に出入りする人たちの間でこの子猫は有名になったが、大杉によれば、そのために「遂に一大事件を惹起した」。

昨年の夏、社会党の人達が電車賃値上反対のチラシを配る為めに、隊を組んで市内を歩るき廻つた事があった。其の日、之等の人達は中食をする為めに、由分社に立ち寄った。そしてナツメ君を見て、『アゝ之れがあの有名なナツメさんですか』などゝ云って、皆してナツメ君を玩弄にしてゐた。すると、翌日の或る新聞紙に、どうこれを聞き違えて探訪(新聞社のネタ集めの記者)が報じたものか、『漱石夫人社会党のチラシを配る』と、麗々しく書いてある。サア大変だ。

当時、漱石は東京帝大で教鞭をとっている名士である。堺は自分の飼い猫が原因で、漱石に迷惑をかけては申し訳ない、と思ったに違いない。堺はすぐに新聞社に取消文を送ったという。

小説「野分」(『ホトトギス』1907年1月号)のなかの会話
(最初が主人公の白井道也、次が妻)

『社のもので、此間の電車事件を煽動したと云ふ嫌疑で引っ張られたものがある。 - 所が其家族が非常な惨状に陥つて見るに忍びないから、演説会をして其収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ』
『そんな人の家族を救ふのは結構な事に相違ないでせうが、社会主義だなんて間違へられるとあとが困りますから・・・』
『間違へたつて構はないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいゝのさ

堺と漱石が直接会う機会はなかったが、文学好きな堺が、作品を通じて漱石に好感を抱いていた。
『吾輩は猫である』を読んだ堺は、未知の漱石に宛てて、平民社で作成したエンゲルスの肖像入りハガキに次の文章を書いて送っている(『漱石全集』第1巻月報1)。
ハガキの消印は、『猫』上篇出版語すぐの1905年10月28日。
堺はこの本が出るとすぐに読み、漱石に感想を伝えた。

新刊の書籍を面白く読んだ時、共の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。小生は貴下の新著「猫」を得て、家族の者を相手に、三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。  堺利彦

三馬は、江戸時代の草双紙・滑稽本作者として有名な式亭三馬、『浮世風呂』はその代表作。
ちなみに、漱石は、この感想から刺激を受けて、『猫』第7に『吾輩』が銭湯を観察する場面を入れたのではないかとの見方もある
(水川隆夫『漱石と落語 -- 江戸庶民芸能の影響』)。

堺は猫を「ナツメ」と命名した理由を、「夏目ではなく棗(なつめ)」だと述べていた(『家庭雑誌』1906年7月号)。この猫が「ナツメ先生」とか「金之助」と呼ばれるようになったため、名前は可愛らしい形をした茶入れの器の棗から取ったのだ、と弁解した。堺が加藤病院から猫をもらってきたのは、漱石『猫』が人気を博していたときであり、「ナツメ=窺」説はこじつけと思われる。
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8月10日
・後藤新平(台湾総督府民政局長)、満鉄総裁就任の条件を原敬に報告(8月1日就任承諾、11月13日任命)。
総裁の地位は勅令では「関東都督の影響を受けるとともに外務大臣の指揮下に入る」だが、後藤の条件は「関東都督の監督は受けるが、同時に都督の最高顧問」としこれが成功。「・・・武人政治は是れにて一頓挫を示したるものなり・・・」(「原敬日記」8月11日)。但し、後藤は「武人政治」を排除するのが目的ではなく、植民地経営に無知なものの介入を封じるためのもの。
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8月10日
・東京弁護士会、日比谷騒擾事件に対し、動きの鈍い検察を批判するため、本郷座で、検事長の問責演説会を開催。3千人。
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8月12日
・北洋大臣袁世凱、立憲準備を上奏。
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8月14日
・日露漁業協約締結交渉第1回会議開催(ペテルブルグ)
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8月15日
・ファン・チュー・チン、ベトナムの封建君主制批判。政治社会改革要求。
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8月16日
・東京小石川砲兵工廠ストライキ。
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8月18日
・呉海軍工廠スト暴動化。職工500余人、戦時手当廃止に反対してストライキ。暴動化。24日 解決。
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8月18日
・チリの港湾都市バルバライソ、大地震のため壊滅。
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8月19日
・清国、日本の関東州設置に抗議。
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8月20日
・『光』第19号、全号キリスト教批判に充てる。
品性庵人格居士の投稿「耶蘇坊主評判記」で内村が東京市電値上げ問題で反対運動批判したことを非難(批判したかは不明)。
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8月20日
・国定教科書共同販売所(株)設立。
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8月20日
・キューバで反乱勃発。
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8月21日
・東京陸軍砲兵工廠、8月16日に職工100余人が解雇されたことと、不良製品の弁償の給料差し引きに反対してストライキ計画。不貫徹に終わる。
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8月22日
・高橋是清を特派財政委員に任命。英に派遣(9月6日出発)。
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8月24日
・東京地方に大暴風雨。浸水は、本所7,190戸、浅草6,950戸、深川2,960戸。
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8月25日
・福田英子、石川ゆき子と共に谷中村を訪れる。
この時、買収を拒否している残留民は僅か27戸。
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8月28日
・「貧富の戦争」(『光』)、発売頒布禁止処分。
夜、西川光次郎「改革者の心情」、発禁。
29日朝、添田平吉の俗謡「寸鉄」差押さえ。
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8月29日
・清国、天津自治局設置。
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8月31日
・幸徳秋水、中村町発。午後1時宿毛港発、宇和島へ。9月1日宇和島発、3日朝大阪天保山着。4日夕方、京都へ。大道和一、宮崎民蔵らと会う。6日、京都発。
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8月31日
・ノルウェー、アムンゼン、北極海横断しノーム港到着。
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8月末
・漱石3女の栄子が赤痢になって大学病院の隔離室に移される。
この時、長女笹子は数え年8歳、次女恒子は6歳で、2人とも幼稚園へ行っていた。だが下には前年暮に生れたばかりの4女愛子があった。
妻の鏡子が病院に行っている間、漱石は女中とこの子供たちの世話に忙殺された。
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