読んだ本;
橋口譲二著『ひとりの記憶 海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち』(文芸春秋2016.1刊行)
戦争前後に海外に渡り、戦後もその地に留まり暮らしている日本人へのインタビュー記録
合計10人の記録が収められている。
一番最初に収められているインドネシア(スマトラ)の笠原さんという方の記録の中にある、敗戦直後の日本兵の荒れ方、従軍慰安婦に関する記述(証言)を、読書メモとして残しておく。
笠原さんは東京で薬局を経営していたが、軍隊に徴用され、敗戦間際にインドネシアで現地召集。
敗戦後は朝鮮人慰安婦を故郷に送り届けることを命じられるが、集合地点に行く前に逃亡。
その後、インドネシア独立軍に従軍。
従軍中には、独力で種痘を培養して何万人もの命を救うなどの働きをする。・・・
インタビュー当時、膨大な量のインドネシアの薬草(研究)資料の完成途上であった。
(引用)アンダーラインは引用者による。
・・・、終戦になってすぐにシンガポールから逃げてきた日本軍の特殊部隊がスマトラに現れたこともあった。「奴らは大量のダイヤモンドやドル紙幣や兵器を持ってきてですね。言っちゃなんですが滅茶苦茶な連中でしたよ。戦争を止める気なんてなくてですね、あっちこっちで騒ぎを起こすもんだから、同じ日本人なんですが討伐命令が出たりしてゴチヤゴチャしちゃったですね」。
日本の兵隊の中には戦争が終わり帰国船に来るまでの間、生き残ったという解放感に加えて軍隊の規律が有名無実となり、投げやり的な無頼に走る姿も目についた。「引き揚げまで用がないでしょう。勝手に方々の村を歩き回ってですね、村の娘たちを家から連れ出し乱暴してですね。農民相手に博打の胴元をやる兵隊もいたです。もう規範も何もなかったですね」と笠原さんは嘆いた。
八月二八日に連合軍がスマトラに入って来た。
スマトラに上陸してきたイギリス軍主体の連合軍の最初の命令は「日本人の女を出せ」。自分たちの欲望処理と戦勝国の自己顕示だった。「もう負けちゃったもんだから我々は命令に従うしかない」。しかし戦争が終わり連合軍が上陸してくるまでの一〇日間に、大半の日本人女性は医療船で日本に引き揚げていた。「料理屋の女の人とか待合の人とか軍政府の事務員とか、皆に白衣を着せて、看護婦の恰好ですね、医療班として陸軍病院に入れて、負傷兵と一緒に日本に戻した後だったんです」。笠原さんの話を聞きながら、戦勝国の軍隊がまず何を求めるのか理解できた。きっとどの国の軍隊も同じことを繰り返してきたに違いない。日本兵相手のオランダ人慰安婦の存在を思い出した。日本軍もインドネシアの地で同じことをやってきていたのだと思う。分かっていたからこそ日本人女性に看護婦の恰好をさせて、初めに日本への引き揚げ船に乗せて帰国させたのだ。日本人女性の代わりを務めたのが送還前の朝鮮人慰安婦だった。
(略)
笠原さんの記憶によると、終戦時の北スマトラには二〇〇〇人余りのインドネシア人慰安婦と四五〇人余りの朝鮮人従軍慰安婦がいた。笠原さんは医療班ということもあり慰安婦は割と身近な存在だった。「おかしな話ですけどインドネシア人慰安婦は自分から志願した人が多く、戦争が終わった後もお土産を持たせれば喜んで帰ったわけですけど、朝鮮人の方はこれは酷いんですね。朝鮮では慰安婦とか言わないで、日本軍の補助か何かをすると募集されて、中国南部から兵隊と一緒に仏印からスマトラにずっと付いて来た連中で、酪かったですよ。荒れちゃってですね、酷かったです」。戦争が終わると慰安所は閉鎖され、朝鮮人慰安婦たちは帰国までの間、ナツメヤシの実を入れる倉庫に閉じ込められた。
医療班の笠原さんは何度か倉庫に慰安婦の様子を見に行く。「あぐらを掻いて博打はするわ酒を飲むわで酷いんです。日本語にすると言っちゃなんですがアバズレなんですわ」。笠原さんは「アバズレ」と形容したが、誤った情報で集められたうえに、戦争が始まると同時に香港の黄埔に上陸をした日本兵たちと一緒に海岸沿いに南下し、ベトナムからジャワ島に移動してきた。長い間気が遠くなるほど兵隊たちの相手をさせられた上に、何時解放されるか分からない状況下で、気持ちが荒(すさ)むのは自然なことのような気がする。むしろ慰安婦の人たちは荒むことで命を保っていたような気がする。
それにインドネシア人慰安婦の人たちも、日本側からみた印象と当事者のインドネシア人側からみた慰安婦像では、違った印象が残るのも確かなことだった。日本側から見ると自主的に映る行動も、インドネシア人側からすると、鉄砲をもってインドネシアに上陸してきた日本兵を見ているだけに、見えない恐ろしさを感じていたのだと思う。喜んで帰ったというのも、解放された喜びに加えて、自分の国でのことだっただけに生まれ故郷の村に戻れる実感を掴めていたのだと思う。
スマトラに残された朝鮮人従軍慰安婦の朝鮮への移送は二度に分けて行われた。一班の移送が終わり二班目の移送が準備される。その二班の朝鮮までの付き添い送り人に、日本側の責任者として笠原さんが指名されたようだと士官に耳打ちされた。笠原さんが選ばれた理由は英語とインドネシア語に堪能だったから。だがそのとき笠原さんは、船に乗れば殺されると思った。「日本人は恨みをかっていますから、移送船に乗れば途中で船から海に投げ込まれるか、朝鮮に着いたら間違いなく殺される」と。
一班の輸送責任者は佐久間という通訳が指揮官の役を担った。「佐久間さんはおそらく殺されちゃったと思うんですけど、行方不明になって未だに消息はわかりませんですね」と笠原さんは佐久間さんのことが今でも気になっている様子だった。責任者といえば聞こえがいいが、ようは日本の軍政部が通訳や医療班に責任を押し付けたのだ。
一九四六年四月一日に、日本軍政部の最後の引き揚げが決まった。最後の引き揚げ船が出る二日前に集結地に来るようにとの軍政部の特命を笠原さん一人が受け取った。その時、朝鮮で殺されるぐらいならスマトラで生きようと思い逃亡を決意する。
(略)
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