2017年6月28日水曜日

永享3(1431)年1月~6月 義教初期(1430年代初め)、将軍直轄軍としての奉公衆体制が整備固定 ジャンヌ・ダルクの宗教裁判~焚刑

平川濠と紫陽花
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永享3(1431)年
・この年、飯尾為種以下12人の奉行人、2ヶ条の起請文を提出。
①御成敗の趣が理に叶わなかった場合には遠慮なく言上すべきこと、
②他人奉行の件であっても裁許に相違があると聞いた時には担当奉行にその由を申すべきこと。
管領制に代るべき役割を担う奉行人層に対し、御前沙汰の公正さを期すための実効的手段。
将軍直属の吏僚体制の整備は、将軍権力専制化には不可欠の制度的所産であるが、その官僚機構は、制度的にも実体的にも管領ー守護を統御し得るものではない。
結果として、幕府将軍権力の立脚基盤の矯小化に連なり、幕府が山城中心の地域権力と化す第一歩ともなっていく。

また、吏僚機構の整備と共に、将軍権力の軍事的基盤の強化に努め、将軍直轄軍としての奉公衆体制が、義教初期、1430年代の初めに整備固定される。
この期は守護の領域支配の展開期でもあり、これに対抗する国人は、安芸の小早川氏や武田氏のように、中央将軍権力との結合を指向する。義教はかかる国人層も積極的に軍事的基盤に編成していく。

①奉公衆は室町幕府の御目見以上の直勤御家人。
②文安・永享・長享の各番帳にみえる人員構成は、
(a)足利氏一門・守護大名の庶流、その被官=又者、
(b)足利氏の根本被官、家僚的奉行人層、
(c)有力国人領主、の3者に大別出来る。
③所領所在国の地域分布は、近江・三河・尾張・美濃4ヶ国に集中、ついで北陸・山陰・山陽諸国。
④奉公衆体制は、将軍義教の初期(おそらく永享初期)に整えられ、応仁・文明の大乱を経た後の将軍義材の延徳3(1491)年の江州動座の頃までは、ほぼ健全に機能。
⑤奉公衆の番所属は家毎に殆ど譜代化・固定化されていて、各署衆は番毎に強い連帯感情をもって行動。
⑥奉公衆は室町幕府の料所を頂け置かれ、幕府の経済的基礎をなす。
⑦守護大名の一族庶流が個々に将軍直勤の奉公衆としてとらえられ、奉公衆中の多数を占めるのが守護から独立して将軍に直結する有力国人領主であることは、有力守護大名を牽制・統制して中央への依存性を強めさせる機能を果すことになる。
⑧特に有力国人において、奉公衆は地方における将軍権力の拠点。
⑨奉公衆体制の実質的崩壊が、将軍権力の没落を意味する。
⑩奉公衆は東山文化の主要な担い手。

五味文彦の指摘:
①奉公衆は、六波羅所轄下西国御家人によって勤仕されていた在京番役をする「在京人」(在京御家人)を継承したもの。
②奉公衆体制は斯波義将の管領期に成立。

奉公衆体制は、義教政権下の永亭初期に一段と整備され、15世紀末まで有効に機能。
将軍直属吏僚体制が整えられ、管領制に替って将軍権力の立脚基盤となったのも義教政権初期で、正長・永革期以降この15世紀末頃までの時期を、立脚基盤と支配地域を縮小しつつもなお将軍権力が一定の地位を維持しているという室町幕府権力の一つの段階と捉えることが可能。
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・山田庄の百姓が強訴逃散。
幕府は周辺14ヶ所の庄園諸領主に「逃散許容」を禁ずる命令を発す。

・この年、蓮如、青蓮院で剃髪。
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・ヴラッド・ツェペシュの父ヴラッド(2世)、オスマン・トルコに対する戦いにより、神聖ローマ皇帝よりドラゴン騎士団の騎士に叙任。
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・仏、マギステル・フランソワ・ヴィヨン、誕生(1432年説もあり) 。中世随一の詩人、「形見分け(小遺言書、1456年)」、「遺言詩集(大遺言書、1461年)」。1464年以降、行方知れず。
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1月3日
・この日付で、ヘンリ6世、ジャンヌを異端裁判にかけるためボーヴェー司教ピエール・コーションに託す。パリ大学は代表6名をルーアンに送る。
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1月9日
・ジャンヌ・ダルク宗教裁判の「予備審理」開始。~3月25日。
裁判長ピエール・コーション、イギリス勢力下の地域から陪審判事となる諸修道院長・教会法学博士らが召集され、趣旨説明が行われる。コーション手下のジャン・デスティヴィが検事となり論告文を作成。書記ギョーム・マンション、補佐ギョーム・コル(ポアギョーム)、ニコラ・タケル。これら3人は処刑判決破棄裁判の時には生存。
異端裁判の形式をとりながら、被告には弁護士が付かず、戦争捕虜として扱われる(城塞の牢獄に収監)。
~3月10日ルーアン城塞礼拝堂。10日~ジャンヌの牢獄にて非公開。
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1月18日
・酉刻、地震あり。
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2月
・ニュルンベルク帝国会議、ジギスムント皇帝、第5次異端撲滅十字軍の召集を欧州世界に布告。
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2月20日
・教皇マルティヌス5世、没。(位1417~1431コロンナ家出身)
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2月21日
・ジャンヌ・ダルクの宗教裁判。
午前8時、北仏ルーアン城内国王礼拝堂、裁判長ピエール・コーション。諸修道院長・神学博士ら聖職者42名陪席。この日ジャンヌは始めて出廷。人定尋問、ジャンヌは宣誓拒否。公開審理6回、牢内での小規模尋問7日を含む予備審理。裁判は5月24日にジャンヌが信仰の迷いを認める宣誓書に署名して終了。終身禁固刑。
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2月22日
・ジャンヌの第2回審理。
パリ大学神学博士ジャン・ボーベール、「神の啓示」について供述。「神の啓示」により、近くの町ヴォークールールの町の守備隊長で王太子派のロベール・ド・ボードリクールの許に赴き支援を取り付け護衛人と共にシノンを目指す。ブルゴーニュ派勢力圏を10日余り潜行、ロワール川を越えて味方の勢力圏ジアンに着く。これ以降、自己の使命を高らかに語り始める。
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2月24日
・ジャンヌの恩寵に関する供述。
「神様の恩寵に浴していないことが解るなんて、こんな悲しいことはありません。」との「良識」ある供述に、訊問側は戸惑う。
27日(火)、3月1日(木)、3日(土)と続き、1週間中断し、10日に再開。
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2月27日
・一色義範、将軍義満の代から恒例の将軍の訪問を受ける(「満済准后日記」同日条)。
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3月
・イングランド、ジャック・シャープの乱。
アビンドン、ロンドン、中部地方等の各地でロラーズの騒乱事件。第3期ロラーズの最大の事件。政治的性格強く、教会領の再配分をうたう綱領は、ウィクリフ本来の主張からはれている。
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3月3日
・教皇エウゲニウス(ユージェーヌ)4世、即位。(位1431~1447)。ヴェネツィア出身、ベネディクトゥス12世の甥。オルシニ家出身枢機卿の工作。即位後1ヶ月、コロンナ家と教皇との内戦開始。
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3月10日
・ジャンヌ・ダルクの牢内での非公開審理開始。~25日。
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3月26日
・ジャンヌ裁判「普通審理」開始。検事ジャン・デスティヴェが70ヶ条の論告文朗読。
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3月31日
・改めて教会への服従に関する訊問。
パリ大学のニコラ・ミディ(ジャンヌ処刑直前の最後の説教を引き受ける)作成の要約された12ヶ条の告発文提出。
訊問は、被告を矛盾に陥れる為、前後の脈絡なく行われる。悪魔、分派、妖術という観念にとり付かれた判事を前に、ジャンヌの敬虔な信仰心は明晰。
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4月5日
・ジャンヌ・ダルクの12ヶ条の罪状が決定される。
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4月13日
・ヴェネツィア、アッダ川を渡ることをカルマニョーラに指令。ヴィスコンティに対する新たな戦い
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4月30日
・ヴェネツィア、ポー河のヴェネツィア艦隊司令ニコロ・トレヴィザンに訓令
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5月12日
・土曜日、ジャンヌを拷問にかける討議。賛成・反対12。
13日、ルーアン城内で関係者が夕食会。ウォーリック伯リチャード、ピーチャムは、早く裁判を終らせるようにとの意図を伝える。
翌日、パリ大学で12ヶ条の告発文を討議し、イギリス国王に書簡を送る。
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5月24日
・ジャンヌの改悛事件。
サン・トゥーアン墓地で公開集会。ピエール・コーションが最終判決の朗読を始めると、ジャンヌはこれを妨げ、「被告は、すべて教会が命ずること、我ら判事が述べ、決意すること、すべて我らの命じ、望むところに従う旨を申し立てた」(裁判記録)。
ジャンヌは改悛の誓約書に署名を命じられる。
ジャンヌは服従の誓いを繰り返させられるが、署名は拒否。最後には、署名の代りに十字を記す。
ピエール・コーションは、ジャンヌを破門から解放する判決文を読み、「キリストのご受難を偲ぶパンと水のみによる永久入牢」となる。
午後、異端検察官代理はジャンヌのもとに赴き、女の服に着替える様に命じる。
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5月28日
・ジャンヌが再び男の服装を着たとの報告を受けて、コーションが牢獄で訊問、(望み通り)戻り異端とする理由にする。
当時、ジャンヌは獄中で暴行の対象となり、また、イギリス人獄吏が故意に女の服を隠したことが、後の処刑判決破棄裁判で明らかになる。
コーションは、陪席者38人を召集。再度ジャンヌを説教するというフェカン修道院長の意見に、2人以外が賛成するが、コーションはこれに耳を貸さず、ジャンヌを戻り異端とする。
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5月29日
・教皇エウゲニウス4世、ローマでの党派抗争による動乱のためフィレンツェに移住。就任当初、コロンナ党により数週間閉じ込められる。
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5月30日
・ジャンヌ・ダルク(19)焚刑
ルーアンの中心ヴィユー・マルシェ広場でジャンヌの最終判決。
教会裁判後、世俗裁判所に移されて処刑宣告する慣例を無視して処刑執行。焚刑。
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5月31日
・ジャンヌ裁判は誤りと述べたドメニコ会修道士ピエール・ボスキエ、水とパンのみの1年の禁錮刑。
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6月
・大内盛見(義弘の弟)、筑前深江(福岡県二丈町)で少弐満貞と戦い敗死。
甥の持世が後継、幕閣の支援を得て少弐満貞父子を秋月城(福岡県甘木市)で斬殺。
大内氏と九州。
1379年、筑前の糟屋郡が大内氏に与えられる。大内義弘は九州探題の地位を狙うが、1395年、今川貞世の探題更迭後は、渋川満頼となる。
義持の晩年、大内氏は筑前守護に任命。
1441年嘉吉の乱後、少弐氏が一旦筑前守護に返り咲き、後、大内氏がこれを奪回。
少弐氏の筑前における勢力は強く、歴代大内氏は筑前分国維持確保に苦しむ。
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・ポー河におけるヴェネツィア艦隊の敗北
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・~7月、オスマン・トルコ軍、トランシルヴァニア侵入、ブラショフ付近で略奪。
トルコの庇護により公位についたワラキア公アレクサンドル1世アルデアの先導。
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6月2日
・イギリス軍、戦闘再開。
「乙女の魔力」という脅迫観念から解放される(摂政ベッドフォードの書簡)。
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6月8日
・ジャンヌの破門判決・処刑を通知するイギリス国王の書簡、神聖ローマ帝国皇帝・諸国国王・キリスト教世界の諸侯に出される。
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6月12日
・伏見宮家の根本所領の山城伏見荘の政所小川浄喜、同家領の遠敷郡松永荘の代官となる(「看聞日記」同日条)。
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