2013年7月7日日曜日

1769年(明和6)10月~12月  モーツアルトの第1回目のイタリア旅行(1769年12月13日~1771年3月28日) 【モーツアルト13歳】

江戸城(皇居)東御苑 2013-07-02 ヤブカンゾウ
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1769年(明和6)
10月
・モーツアルト、ザルツブルクのモーツァルト家の家主ハーゲナウアー4男新任司祭ドミニクス(カイェタン・ルーペルト・ハーゲナウア)のためにK.66 ミサ曲第3番(ハ長調、通称「ドミニクス・ミサ」)作曲。
幼なじみのカイェタンは1764年修道院入り、この時、新任司祭として初めてミサを行うことになった。 他のミサと違い、友情溢れる作品、管楽器を多く入れて音を豊かにしている。

10月15日に初演。評判がよく、その後も各地でのミサに使われる。

(ドミニクス師の日記)
「今日、初ミサを行った。ミサの音楽は14歳の少年モーツァルトによって作曲されたものだが、皆の意見ではまことに美しいものだった。 ミサは2時間以上続いたが、これは供犠が多大だったからで、献金は656フローリン55クロイツァーもあった。 食事は12時に行われた。それからヴォルフガング・モーツァルト氏は半時間も大オルガンを弾いて、一座の者を驚嘆させた。 」
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10月12日
・青木昆陽(72)、没。
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10月30日
・徳島藩主蜂須賀重喜(しげよし)、藩政改革による長年の君臣間の抗争のため幕府から隠居を命じられる
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10月30日
・賀茂真淵(73)、没。
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11月
・この頃、モーツアルト、ザルツブルクで、K.66b (141) テ・デウム(ハ長調)作曲。
ミハエル・ハイドンの作を模倣、父レオポルトが添削。
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11月14日
・モーツアルト、ザルツブルク宮廷楽団の第3ヴァイオリン奏者(無給のコンツェルト・マイスター)に任命。
さらにイタリア旅行の許可も降りて、旅費(120ドゥカーテン=600グルテン)が支給。
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11月27日
・この日のザルツブルク大蔵省の記録
「モーツァルトとその息子のイタリアへの旅行費用として120ダカットを与える」。

同日、ハーゲナウア(モーツァルトの家主)のカレンダー・メモにはラテン語で、「今日14歳の若者ウォルフガング・モーツァルトはイタリア旅行の許可を得た。また、彼にコンサート・マイスターの称号を与える公式の手紙を送り、イタリア旅行後に報酬を与えると約束した」と書かれている。
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11月28日
・法律家兼自然科学者デインズ・パリントン、英国学士院にモーツアルトに関する報告書提出('69/9/28提出、11/28受理、'70/2/15学士院で朗読、'71/6「哲学紀要」掲載)。

「パリントン報告」
(直接にモーツァルトの楽才ぶりをテストした様子が詳細に記録されており、幼い頃のモーツァルトに関する貴重な証言)

「きわめて注目すべき幼い音楽家についての報告
イギリス学士院会員デインズ・バリントン卿より学士院書記医学博士マシュー・マティへの書簡一七七〇年二月十五日朗読
拝啓
私が貴下に、八歳たらずのときに身の丈七フィートもありました一人の少年についてのはっきりと証明された報告をお送り申し上げたとしましても、英国学士院のご注目を受けるに値しないものではないものと判断してよいでありましょう。
貴下がかの学会に報告してくださることを今私が希望しております、まことに非凡な楽才の早期の発揮についての実例は、おそらくは同様に出席者の注目に値するものと思われます。
ヨアネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオーフィルス・モーツァルトは、バイエルンのザルツブルクで、一七五六年一月十七日〔原文のまま〕に生まれました。
(略)                                     」
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12月13日
・[清・乾隆34年11月16日]清のビルマ遠征。両軍撤退と通商復活の協定を結んで終結。
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12月13日
・モーツアルト(13)、第1回目のイタリア旅行(1769年12月13日~1771年3月28日)
1年3ヶ月滞在。

この日、モーツアルト、父とザルツブルク出発。
午後1時、カイトゥルで昼食をとり、午後7時過ぎ、ローファーに到着し、同地の管理官宅に泊まる。
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12月14日
・モーツアルト父子、正午にザンクト・ヨハン、夕方にヴェルグルに到着。

ヴェルグルから故郷宛の第一信。
「路はたいへん悪いと聞いていたが、だいたいずっと眠っていられました。御者がなかなかうまいことが分かったからです。この地方、とくにローファーからザンクト・ヨハンまではびっくりするほど雪が多い。」 

ヴォルフガングの追伸。
「最愛のママ、ぼくの心はとっても楽しくって、すっかり有頂天です。この旅行はとっても愉快だし、馬車の中はとっても暖かいし、それにぼくたちの駁者は愛想のいい男で、道がちょっとでもよければ、とってもスピードをあげて走るからです。パパはもうママに道中記を申し上げたでしょう。ぼくがママに手紙を書いているわけは、ぼくが自分の義務を知っていることをお見せするためですが、その義務によって、ぼくはとても深い尊敬の気持をもって、彼女の忠実な息子なのです。ヴォルフガング・モーツァルト。」

そのあと、イタリア語によるナンネルル宛の手紙が続く。
「カリッシマ・ミーア・ソレッラ(ぼくの最愛のお姉様)。神様のおかげで、ぼくたちはとっても幸せにヴェルグルに着きましたが、本当のことを打ち明けると、旅行するのはとっても愉快だし、ちっとも寒くなくて、ぼくたちの馬車の中は部屋の中とおんなじくらい暖かなことは話しておかなければなりません・・・」
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12月15日
・モーツアルト父子、午後5時半、インスブルック到着。「ツム・ヴァイセン・クロイツ(白十字館)」宿泊。
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12月17日
・モーツアルト、夕方5時、ティロル州副議長キューニグル伯爵邸での音楽会に招待、ピアノ協奏曲を初見で演奏。

「ヴォルフガンクはたいへん綺麗な協奏曲をもらい、その場で初見で弾」き、「いつものように面目をほどこして迎えられた」。この時の謝礼は12ドゥカーテンだったと妻だけに分かる暗号で書かれている。

「今月十四日金曜日、当地の旅館<ツム・ヴァイセン・クロイツ>に、ザルツブルク大司教宮廷楽長レーオボルト・モーツァルト氏が、現ザルツブルク大司教宮廷楽団コンツェルトマイスターの令息ヴォルフガング・モーツァルト氏をたずさえて到着した。この令息はその非凡な音楽上の造詣によって、すでに六歳からオーストリア皇室宮廷においても、また英国、フランス、オランダにおいでも、さらに神聖ローマ帝国全土を通じても有名となったものである。昨日、この人物は貴族の方がたが催された音楽会に招かれ、その場で自分のまことに特別な技量をこのうえなく見事なかたちで実際に示した。この若い音楽家は現在十三歳であるが、当地においても、その名声に新たな輝きを添え、非凡なその才能によって、音楽通の人たちがこぞって声を揃え彼を賞讃した。彼は明日イタリア旅行を続ける予定である。」(12月18日付の『インスブルック月曜一般新聞』)
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12月18日
・モーツアルト父子、インスブルック出発し、ブレンナー峠にあるシュタイナハに到着。
19日、ブレンネル峠越え。
20日、ボーツェン到着。
23日、エニ(ノイマルクト)到着
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12月24日
・モーツアルト父子、夕方、ロヴェレート到着。4日間滞在。トデスキ男爵邸での音楽会に出席。
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12月25日
・モーツアルト、ロヴェレートのサンマルコ教会でオルガンを演奏。
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12月26日
・モーツアルト、司教座聖堂のオルガンを見に行く。
ロヴェレートの町中の人たちが天才少年を一目見ようと教会に集まっていた。

「内陣のところに行くのに路をあけるため、数人の腕っぷしの強い男たちが先頭に立つ必要がありました。内陣では、オルガンのところまで行くのに、七、八分はかかりました。誰もがすぐ傍にいたがったからです。」(1770年1月7日付の手紙)。
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12月27日
・モーツアルト一家、ヴェローナ到着。「ヴェッレ・ドゥーエ・トツリ(二本塔館)」宿泊。約2週間過ごす。

「ヴェローナでは、貴族の方がたが七日経って初めて音楽会、またの名アカデミーを催して下さることになり、私たちはそれに招かれました。それというのも、毎日オペラが上演されているからです。」(1月7日付け手紙) 
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12月27日
・天文方佐々木親子にかねて命じられていた暦書が完成し、「修正宝暦甲戌元暦」「同解義」「暦法新書続録」が献上される。
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12月末
・モーツアルト、テ・デウム(K.141(66b))、交響曲ニ長調(冒頭主題)(K.Anh.215(66c))、変ロ長調(冒頭主題)(K.Anh.217(66d))、変ロ長調(冒頭主題)(K.Anh.218(66e))、(第9番)ハ長調(K.73)、メヌエットニ長調(K.94(73h))作曲。
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冬季のブレンナー峠越えは過酷なものだったと言われている。
特に13歳の少年にとっては。
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