2013年7月30日火曜日

【グローバリズムという病】第1回 「生態系」を破壊するグローバリズムという病(平川克美 東洋経済オンライン)

東洋経済オンライン
【グローバリズムという病】第1回 「生態系」を破壊するグローバリズムという病
事業家、立教大学特任教授 平川克美

◆あるのはただの「英語熱」「アメリカ熱」

ここ数年の間に、政治の世界でもビジネスの世界で、あるいは教育の世界で、最も頻繁に使われた言葉は「グローバル」だろう。
「グローバリズム」「グローバル人材」「グローバル戦略」。こんな単語が、毎日のようにビジネスマンや、政治家、メディアによって語られている。時代はまさに、グローバリズム一色というわけだ。
ところが、グローバルな人間とはどういうものなのか、グローバル化する世界とはどのような世界なのか、グローバルに生きるとはどういった生活を意味するのかといった問いに対しては、グローバル人材の要を唱えるひとびとは何も答えてくれないか、答えがあったにしても、それは根拠の薄弱な希望であったり、これ以上は間違いようがないほどに、頓珍漢なものだったりする。

たとえば、具体的なグローバル人材の要件とはTOEFLE(英語検定)で何点以上とれるなんていうことであったり、グローバル教育とは小学校の必須科目に英語を入れるなんていう、英語コンプレックスを裏返したような分かりやすくも悲しい認識がまかり通っている。
あるビジネスマンは、会社におけるグローバル戦略を語り、会社の中でも英語でしゃべり、英語で会議をすると宣言する。

あるものは、「バスに乗り遅れるな」「待ったなしだ」と煽りをいれる。ところが、かれはグローバリズムとは何かということに関しては、あまり深く考えることもなく、「世界に伍して闘う」ためには、英語が必要であると説く。
「今や、英語ぐらいできないと世界に乗り遅れる」とか、「グローバル化に対応して日本も鎖国的な状況から脱しないといけない」とか、「このままでは、日本は世界に取り残されてしまう」とは言うが、そこに「乗る」ことのメリットとデメリットとは何なのか、そもそもグローバリズムとは何であるのかについての議論はほとんどなされていない。
あるのはただの「英語熱」。「アメリカ熱」。アメリカへの憧憬と、羨望、へりくだり。
実際のところわたしも、ビジネスの会合などでグローバリズムなる言葉を何度か聞かされてきた。わたしはその度に、またいつものパターンだなと嘆息したものである。

「これからは金融工学の時代だ」「企業の目的は時価総額を最大化することだ」「それが世界の常識だ」と盛んに吹聴されたのが80年代だった。金融バブルはその後はじけて、多くの企業が不良債権を抱え込んだ。
「これからはインターネットだ」「ITを制する者がビジネスの勝利者になる」「シリコンバレーモデルに見習うべきだ」と言われたのが90年代だった。
そのころ、わたしはシリコンバレーの小さな会社の代表をしていたが、ITバブルはミレニアムをまたいで、まもなくはじけ、多くのITベンチャーが倒産した。
そして、今日「今や、グローバル時代」と言われる。
確かに、世界はグローバル化してきているが、それは何か世界の構造が変わったわけでもない。大航海の時代の昔から、いやそれ以前から遍歴する商人たちは国境を越えて商売の種を探し求めていた。ビジネスや情報が国境をまたいで交流するということそれ自体は、自然過程に過ぎない。それをことさら「グローバル時代」というのは、そこに何か特別の意味を付与したいからだろう。

簡単に言ってしまえば、グローバル化という言葉に込められた野望は、脱国家、超国家ともいうべきものであり、脱国家し、超国家する主体とはアノニマスな国民などではなく、国家に登録された多国籍企業に他ならない。多国籍企業は、80年代ごろから急速にビジネスの脱領域化、脱国家化ともいうべき生産システムを展開してきている。

国内においては、中小零細企業を買収したり、傘下に収める垂直統合をすすめている。
この国家と企業というふたつの倫理体系、法体系、経済体系がいま、世界中で激しく衝突しているのである。たとえばTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)において、各企業は進出した相手国を訴える権利を有する(ISD条項)が含まれているという。進出企業は自国内で待遇と同じ待遇を受ける権利を有し、相手国はそれを保証する義務を負うというもので、もしその義務違反があれば多額の賠償を国家が企業に対して支払わなくてはならないということもあるという。
ここで問題なのは、企業の「掟」と、国民国家の「法」という二重の支配力が生じてしまうということである。これはやがて国民国家を崩壊させることになるかもしれないとは、いまのところ誰も言わない。

◆騒ぎ立てることの意味

(略)



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