北の丸公園
*1770年(明和7)
6月
・福井藩主松平重富、実弟一橋徳川治済を通じて幕府を動かし大坂商人に借入を強要。
明和5年の一揆後、藩主帰国費用にも事欠き、江戸の富商11人に頼談するも用立てを拒否される(「国事叢記」)。
この年、老中松平右近将監武元は、大坂東西両奉行が大坂3郷惣年寄を介して大坂の富商15人に頼談するよう命じる。
この月から交渉開始、両替10人・大名貸5人の計15人に3万両の用立てを依頼。
商人達は断り続ける、12月、両奉行は頼談による方法を打ち切り、商人5人を追加した20人に融資を命令。
鴻池善右衛門には2千両が割り当てられ、翌8年2月迄に1千両を融資、4月に500両を免除され、11月に残り500両を納める。
福井藩は、利子率8朱・10ヶ年賦の約束通り安永9年11月迄に元利ともに返済。
鴻池家は幕末までに福井藩に総額6万6千両を貸付ける。
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・ルソー、パリに戻る。
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6月13日
・モーツアルト、ナポリ西方のボッツォーリに向かう。ネロ帝の浴場など多くの遺跡を見物。
19日、ヴェスヴィオ火山に登る。ポンペイとエルコラーノの遺跡を見物。
25日、ナポリ出発。
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6月15日
・明和の敦賀の一揆。
15日夕方、新田河原へ中郷・愛発・粟野・松原方面の百姓が多数集まり、夜4ツ時(午後10時頃)無尽講世話人に命じられている吉田宗右衛門と柴田権右衛門の家を打毀すべしと鬨の声をあげ、笙ノ橋まで詰めかけて無尽講中止を要求。
町奉行久野九右衛門ら敦賀の5奉行は、一揆勢を宥めるが、一揆側は強硬。
敦賀役所には一揆を鎮圧するだけの武力がなく、町奉行等は一揆側要求を受け入れ無尽講中止を請け合う。
16日申刻(午後4時頃)一揆は解散。
「本勝寺歴譜」によれば、一揆参加の村は「近郷四十八ケ村」で、敦賀郡全域にわたるものではない。
町奉行等が一揆側に約束したことは、本来、藩上役の指示が必要な事項であり、中止を請け合った無尽講は藩主自ら敦賀郡の有力者に指示したことであり、翌閏6月、5奉行は専断を咎められ全員更迭。
しかし、約束した無尽講中止は守られ、それまでの5回の郡内掛金銀11貫500匁余の上納金は一部掛戻される。
更に藩は、敦賀町の御用達町人から借りている仕法金返済期限の10ヶ年延長を申し入れ、三方郡の村々に対して上納金差出し意志を確認する。
一揆側の処罰者もなく、全面的に百姓側勝利となった数少ない例。
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6月15日
・鈴木春信(46)、没。
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6月26日
・モーツアルト一家、午後8時、ローマに戻る。
7月10日まで再びパラッツォ・スカティッツィ邸に泊る。
29日、チェーリ公爵オデスカルキからガッレーゼ公爵アルテンプスの音楽会に招待される。
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7月
・7月か8月、モーツアルト、ボローニァでK.73s (85) ミゼレーレ(イ短調)作曲。10〜20小節の小品、マルティーニ神父の指導を受けた対位法の習作。
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7月5日
・モーツアルト、パッラヴィッチーニ枢機卿から、教皇クレメンス14世より「黄金拍車勲章」授与(グルックやディッタースドルフが授与されたものよりも上級)。
これがあると、いつでも自由に教皇庁に出入りでき、裁判権が免除されるなどの特権。
ただし、モーツァルトは生涯この称号を用いていない。
音楽家でこれと同じ勲章をもらったのは200年前のレネサンスの巨匠オルランド・ディ・ラッソ(1532頃~94)だけ。
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7月6日
・[露暦6月25日]第1次露土戦争、チェシュメの海戦。オスマン帝国艦隊がロシア艦隊に大敗
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7月8日
・モーツアルト、サンタ・マリア・マジョーレ宮殿で教皇クレメンス14世に謁見。
ここで後にザルツブルクの大司教となるコロレド伯爵に初めて会う。
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7月10日
・モーツアルト一家、午後6時、ローマ出発。
モーツァルト父子はローマ滞在中、法王庁伝書使ステファーノ・ウスレンギ夫人の住まいに寄宿しているが、夫人は餞別として「千一夜物語」のイタリア語版1冊をモーツァルトに贈る。
11日午前5時、チヴィタ・カステッラーナ到着。大聖堂でミサに列席後、オルガンを弾く。
午後4時半、出発。
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7月14日
・スペイン、小艦隊を送り、西フォークランドの英国人に明け渡し求める。英国人は発見者としての居住権を主張、後、明け渡し同意。
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7月16日
・モーツアルト一家、ロレート到着。
20日、ボローニャに戻り「サン・マルコ館」に宿泊。3ヶ月滞在。
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7月27日
・モーツアルト、正歌劇「ポントの王ミトリダーテ」 (K87)の台本を受取る。
トリーノの詩人ヴィットリーオ・アメデーオ・チャーニャ=サンティ作。
9月29日作曲開始、12月29日初演。
「交響曲第11番」ニ長調(K.84(73q))に着手(2月着手、7月完成?)。
ミゼレーレ「天主よわれを憐れみ給え」イ短調(K.85(73s))作曲。
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8月
・モーツアルト、ボローニァでK.73r 4つの謎のカノン作曲。マルティーニの「音楽史」のカットに使われた習作。
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8月1日
・[露暦7月21日]第1次露土戦争、バルカン半島モルダヴィアの戦い、オスマン帝国軍がロシア軍に敗れる。
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8月10日
・モーツアルト、ボローニャ郊外パッラヴィチーニ=チェントィリオーニ伯爵の別荘を訪問、9月いっぱい留まる。
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8月21日
・モーツアルト、ボローニァから姉へ「ロバに乗ったこと」を伝える手紙。 その中で、ドミニコ会神父ピエトロ・ゼロヴニツキの過剰なほどの飲食を克明に描写。
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8月27日
・ヘーゲル誕生
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8月30日
・モーツアルト、ボローニャの好楽協会(アッカデーミア・フィラルモニカ)のミサと晩課に参列。
18世紀英国の代表的音楽研究家チャールズ・バーニー(1726~1814)も列席。
レオポルトは長時間、彼と語りあう。
バーニー「フランス・イタリア音楽紀行」(8月30日)
「有名なドイツの少年モーツァルトに私は会った。彼は1766年、その早熟な楽才によってロンドンのすべての聴衆を驚嘆させた。・・・少年はずいぶん成長していたが、それでもまだ小さかった。・・・彼は行く先々で、イタリア人音楽家を驚嘆させた。・・・この並はずれた少年が、自国語でない外国語の歌詞に作曲するという仕事をどうやってやりとげるか知りたいものである。しかし、あの父親のような賢明で能力のある指導者のもとで培われたあれだけの理解力と才能なら、どんな音楽的業績でも可能ではないかと思われる・・・」。
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