平川濠と北桔橋門 2013-07-31
*昭和11年3月31日
「晴れて後にくもる。午後小品文執筆。夜京橋明治屋にて牛酪を購ひ淺草公園を歩み乗合自動車にて玉の井に至り陋巷を巡見す。再び銀座に立戻れば十一時なり」
荷風が「濹東綺譚」の舞台となる隅田川の東、私娼の町玉の井に足繁く通うようになるのはこの日以降である。
4月14日
「晴れて日の光忽夏のごとし。午前小品文放水路を草す。午後庭を掃ふ。夕餉して後食料品を銀座に購ひ、玉の井を歩み四ツ木橋より乗合自働車に乗りてかへる。燈下また執筆」
4月21日
「晩餐後淺草より玉の井を歩む。稍陋巷迷路の形勢を知り得たり。然れども未精通するに至らざるなり」
4月23日
「晩餐後重ねて玉の井に往く。道順其他の事につき再調を要する處多きを知りたればなり」
「ひとつの町が気に入ると、その町の様子を隅々まで知りたくなる。そのために何度も町に通い、迷路のような路地にまで丹念に足を踏み入れる。”町の観察者””歩く人”らしいマニアックなまでのこだわりである。」(川本)
玉の井の「陋巷迷路の形勢」を知るために、麻布の偏奇館から銀座、浅草を経て玉の井にまで出かけて行く。
市電、地下鉄、バスを乗り継ぎ、56歳の荷風が何度も玉の井に足を運ぶ。
「濹東綺譚」に「四五日つゞけて同じ道を往復すると、麻布からの遠道も初めに比べると、だんだん苦にならないやうになる。京橋と雷門との乗替も、習慣になると意識よりも身體の方が先に動いてくれるので、さほど煩しいとも思はないやうになる」とあるように、山の手の偏奇館から隅田川を渡った玉の井までの道も何度も通ううちには苦にならなくなったようだ。
4月24日には、玉の井のスケッチもしている。
姻家、玉の井名物のどぶ、「ぬけられます」の看板が描かれている。
5月16日には、「玉の井見物の記」が書かれ、町の様子、私娼たちの実態、娼家の内部がメモ風に記される。玉の井全体の見取り図も書かれている。
「路地内の小家は内に入りて見れば、外にて見るよりは案外清潔なり。場末の小待合と同じくらゐの汚なさなり。西洋寝室を置きたる家尠からず、二階へ水道を引きたる家もあり。又浴室を設けたる處もあり。一時間五圓を出せば女は客と共に入浴すると云ふ。但しこれは最も高価の女にて、並は一時間三圓、一寸の間は壱圓より弐圓までなり」など取材の結果を克明に記している。
荷風は次第に、玉の井という町そのものにのめりこんでいる。
「濹東綺譚」のなかの言葉、「小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである」は、この丹念な玉の井通いで実証されている。
昭和11年9月22日
「哺下また玉の井に往く。東武電車玉の井停車場の西方に樹木欝蒼たる別墅の如き一構あるを見、其の方に歩みを運ぶ。人に問ふに安田銀行の別荘なりと云ふ。京成電車もと玉の井停車場はいつの頃よりか電車の運転を中止し既に線路と共に待合所の建物をも取払ひたれば、線路敷地の土手に芒(ススキ)生茂り、待合所の礎石プラットホームに昇る石の階段のみ雑草の中に聳立ちたるさま城塞の跡の如し。子供のあそぶ姿の見えたれば石段を登りセメント敷のプラットホーム跡に佇立するに、西方にはかの安田別墅の林樹眼界を遮り、空には高く七八日頃の月浮びたり。土手の下の南方に立派なる屋敷二三軒石の塀を連ねたり。是噂に聞きし玉の井娼家主人の住宅にて玉の井御殿と呼ばるゝものなるべし。土手を下りて細き道を横断すれば線路跡に沿ひたる色町に出づ」
この日の散策の道順は、そのまま「濹東綺譚」で、「わたくし」がお雪に会う日、玉の井を歩いた道順と重なり合う。
(ただし「濹東綺譚」では季節は九月ではなく、「六月末」になっている。)
5月16日の「玉の井見物の記」の冒頭
「初て玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切四木の放水路堤防を歩みし帰り道なり」とあるように、荷風がはじめて玉の井を歩いたのは昭和7年1月22日のこと。
中洲の病院に行った帰り、堀切橋に出て、荒川放水路の堤を歩き、四ツ木橋が見えてくるあたりで堤を下りると寺島町の随巷、さらに歩くとそこが玉の井だった。
「大通を中にしてその左右の小路は悉く売笑婦の住める處なり」
浅草から玉の井に入るという通常の道ではなく、放水路のほう、いわば奥のほうから玉の井を偶然のように見つけたところが興味深へ。この時期、よく歩いていた放水路に出かけた帰りにたまたま玉の井に行きあたった。
荷風にとって玉の井は一種の「隠れ里」の役割を果している。
”東京の場末にまだこんなひそやかな陋巷があったのか”という想いである。
しかし、この昭和7年の時点では、まだ玉の井通いは行なわれていない。
それからなぜか約4年後の昭和11年4月に、玉の井が急浮上する。
場末の陋巷が「隠れ里」としての魅力を持って荷風の前に、ゆっくりとその姿を見せてくる。
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