北の丸公園 2013-07-08
*長元4年(1031)
この年
・ロベール2世(61、敬虔王)、没。
■ロベール2世の統治時代
ロベール2世:
972年3月27日~1031年7月20日。カペー朝第2代フランス国王(在位:996年~1031年)。
972年3月27日、父ユーグ・カペーと王妃アキテーヌ公ギヨーム3世の公女アデライードの息子としてオルレアンで生まれる。
987年12月30日、父ユーグ・カペーはオルレアンでロベールを共治王として戴冠させ、カペー家による王位世襲を諸侯に確認させた。
ロベールもまた即位後、長男ユーグに対して戴冠させたが、ユーグはロベール2世よりも先に没し、王位を嗣いだのは次男アンリとなった。(アンリ1世)
ロベール2世は結婚問題で一時ローマ教皇グレゴリウス5世によって破門されたが、信心深い王で「敬虔王」と呼ばれた。宮殿の一角に礼拝所を作り、朝課・晩課を行った。また、異教徒には厳しい政策をとった。
ロベール2世は王領を拡大すべく継承者不在となった諸侯領を併合しようとし、対立する継承権者との戦いを招いた。
1003年、ブルゴーニュ公領へ出兵したが、強い抵抗を受け、1016年ようやく教会の支援を得てこの地を手に入れた。
ロベール2世には敵が多く、息子もまた敵であった。
長男で共治王のユーグは自ら単独王となるべく反乱を起こした。
ユーグは1025年に急死するが、続いて次男アンリと三男ロベールも反乱を起こす。
敗れたロベール2世はパリからボージャンシー(ロワレ県)へ退却。
そして1031年7月20日、ムランで息子と戦っている最中に戦死。
ロベール2世は3度結婚した。
最初は989年頃、イタリア王ベレンガリオの王女でフランドル伯アルヌルフ2世の未亡人であったロザーラ(シュザンヌ)と結婚。単独統治を開始して間もなく離婚。
次いで996年頃、ブルグント王コンラートの娘でブロワ伯ウード1世の未亡人であったベルトと結婚。彼女が又従姉であったため(ロベールの父方の祖母とベルトの母方の祖母は共にハインリヒ捕鳥王の王女であった)、教皇グレゴリウス5世は結婚を認めず、ロベール2世が破門される原因となった。これは次代の教皇シルウェステル2世との交渉の末、婚姻の無効が宣告された。
最後の王妃は1001年に結婚したアルル伯ギヨーム1世の娘コンスタンスで、彼女との間に7人の子供をもうけた。
アドヴィザ(1003年頃 - 1063年以降) ヌヴェール伯ルノー1世妃
ユーグ(1007年 - 1025年) フランス共同統治王
アンリ(1008年 - 1060年) フランス王
アデル(1009年 - 1063年) ノルマンディー公リシャール3世妃、のちフランドル伯ボードゥアン5世妃
ロベール(1011年 - 1076年) ブルゴーニュ公
ウード(1013年 - 1056年)
コンスタンス(1014年 - ?)
ロベール敬虔王の建設事業:
オルレアン(サン・テーニャン教会堂、聖墓に奉献された2つの教会堂)。
パリ(聖ニコラに捧げられた礼拝堂付きの巨大な王宮、サン・ジェルマン・デ・プレ教会、サン・ジェルマン・ローセロワ教会)。
エタンプ(宮殿、ノートル・ダム修道院)。
ムラン(ノートル・ダム修道院、教会堂)。
サンリス(サン・ピエール修道院、サン・リュール修道院)。
オータン(サン・カシアン教会堂)。
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・ベルト・ド・ブルゴーニュ(ロベール敬虔王の2度目の妻)、没。
近親結婚を理由に教皇シルヴェステル2世により離婚を強制させられたが、離婚後もロベール敬虔王との関係を継続(実質夫婦)。
ロベール敬虔王は、ベルト没後2~3ヶ月で没。
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・アンリ1世、弟ロベール1世(ロベール敬虔王4男、20、1011~1076)をブルゴーニュ公に留まらせ、封臣としての義務を果たす条件でブルゴーニュ公領の所有権と相続人への遺贈の権利を授与。
以後1361年(330年後)迄ロベール1世の家系がブルゴーニュ公を承継。
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・アンジュー伯息子ジョフロワ2世(ジョフロワ・マルテル、25、位1040~1060)、フランス王アンリ1世即位に際して、2つの利益を引き出す。
①伯の称号を強引に手に入れたヴァンドームの領主権。
②アキテーヌ公ギョーム5世(1030年没)未亡人アグネス(アニェス)との結婚
(妻アグネス娘アグネス(義娘)が1043年、皇帝ハインリヒ3世と結婚)。
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・ユーグ・ド・サラン、ブザンソン大司教就任。サークァニー族の首都に生気を蘇らせた有徳の司教。
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・ディジョン、サン・ベニーニュ修道院長ウイルヘルムス、没(位990~1031)。
ヴォルピアノの聖ウィリアム(ギョーム)。ロートリンゲンの修道院改革の先達。
ノルマンディのフェカン修道院長。
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・ハンガリー軍、ウィーン占領。
コンラート2世、ハンガリに東部国境地域を割譲する不利な和平を締結。
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・ハンガリー、イシュトヴァーン1世末子イムレ(唯一生き残っていた後継者)、落馬事故で没。
イシュトヴァーンは甥ペーテル・オルセオロ(イシュトヴァーン1世の妹(もしくは姉)の子)を後継者に指名。
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・コルドバ、後ウマイヤ朝滅亡(756~1031、275年間)。
後ウマイヤ朝最後のカリフ、ヒシャーム3世(位1027~1031)、打倒される。
コルドバ市会、カリフ職廃止、コルドバは後ウマイヤ朝首都から多くの都市国家の一つとなる。
後継諸国家(群小王国、ターイファ王国):
①ベルベル人支配国(グラナーダ、マラガ、アルヘシーラス)。
②スラヴ人支配国(アルメリーア、バレンシア、トルトーサ、デニア、バレアーレス諸島)。
③スペイン・アラブ人支配国(コルドバ、セビーリャ、バダホース、トレード、サラゴーサ、レリダ)。
大きな後継諸国家(ターイファ王国)は以前の上部・中部・下部辺境区;
上部辺境区(サラゴーサ王国バヌー・フード朝(1039年スライマーン・イブン・フードがサラゴーサを奪取)。
中部辺境区(トレード王国ズンヌーン朝)。
下部辺境区(バダホース王国アフタス朝)。
最も強力な王国はセビーリャ王国(アッバード朝)。
11世紀スペインはイスラム文化の黄金時代。
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・アッバス朝アル・カーディル、没(位991~1031)。アル・カーイム、即位(位1031~1075)。
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