江戸城(皇居)東御苑 2013-06-27
*シカゴ大学経済学部卒業生が世界各国の閣僚と中央銀行総裁の地位を占めることに
こうした状況はアルゼンチンだけに限られたものではなかった。
1999年には、世界各国政府の閣僚のうちシカゴ大学経済学部の卒業生は25人、中央銀行総裁ではイスラエルからコスタリカまで10人以上を数えた。
ひとつの大学のある学部がこれだけの影響力を持つのは驚くべきことだ。
アルゼンチンをはじめ多くの国では、シカゴ・ボーイズが選挙で選ばれた政府を挟み撃ちにしていた。
ひとつのグループが政府内部から圧力をかけ、ワシントンにいるもうひとつのグループが外から圧力をかけた。
例えば、ブエノスアイレスを訪れるIMFの代表団を率いるのは多くの場合、アルゼンチン出身のシカゴ・ボーイであるクラウディオ・ロセルだった。
したがって経済相や中央銀行との会談も敵対的な交渉などではなく、かつてのシカゴ大学同級生で、近年はワシントンDC19番地の同僚だった友人同士の気心の知れた話し合いだった。
こうした国際的な経済友愛クラブの持つ影響力についてアルゼンチンで出版された本は、いみじくも『ブエノスムチャチョス』(いいやつ、仲間たち)と題されている。
これはマフィア世界に生きる男たちを描いたマーティン・スコセッシの名作『グッドフェローズ』から取ったものだ。
アルゼンチンのカバージョ計画
この友愛クラブのメンバーはアルゼンチン経済に何が必要か、さらにはその実施方法について熱い合意に達した。
カバージョ計画と呼ばれることになったこのプロジェクトは、世銀とIMFが完成させた巧妙なパッケージ化の技に基づいて策定された。
ハイパーインフレによる混乱と絶望感に乗じて、民営化をあたかも救済計画に欠かせない一部であるかのように見せるというトリックである。
貸幣制度を安定化させるために、カバージョはすぐさま公共支出を大幅に削減し、1ドル=1ペソに固定した新ペソを導入した。
1年以内にインフレ率は17.7%にまで下降し、数年後には事実上終息した。
通貨の暴走はこれで収まった反面、計画の残り半分は「曖昧化」された。
軍事政権下、アルゼンチンは海外の投資家を喜ばせることに積極的姿勢を取ったものの、アルゼンチン航空からパタゴニア地方に埋蔵する膨大な石油資源に至るまで、経済のかなりの部分は国営のまま残された。
カバージョとその部下のシカゴ・ボーイズにとって革命はまだ道半ばであり、彼らは経済危機を利用して自分たちの仕事を完遂する決意を固めていた。
民営化
90年代初頭、アルゼンチンの国営企業の民営化は極めて急速かつ全面的に行なわれ、10年前にチリで行なわれた民営化をはるかに凌いだ。
1994年には国営企業の9割がシティバンク、ボストン銀行、フランスのスエズやヴィヴェンディ、スペインのレプソルやテレフォニカなどの私企業に売却された。
売却に先立ち、メネムとカバージョは新しい所有者のために気前のいいサービスを提供する。
カバージョ自身の推定によれば、約70万人の労働者が解雇された(それよりずっと多かったという指摘もある)。
石油会社だけでも、メネム政権のもとで2万7千人が解雇された。
ジェフリー・サックスの崇拝者であるカバージョは一連のプロセスを「ショック療法」と呼んだが、メネムはもっと残酷な表現を使った。
大規模な拷問のトラウマをいまだに引きずっている国で、彼はそれを「麻酔なしの大手術」と呼んだ。
*カバージョとメネムが現役を退いて久しい2006年1月、アルゼンチンを驚かせるニュースが届いた。
カバージョ計画はカバージョが策定したものでも、IMFが策定したものでもなかった。
90年代初めのアルゼンナンのショック療法プログラムは、同国の最大の民間債権者であるJPモルガンとシティバンクによって秘密裏に用意されたものだったという。
アルゼンチン政府に対する訴訟の過程で、著名な歴史学者アレハンドロ・オルモス・ガオナが、この二つのアメリカの銀行がカバージョのために書いた1,400ページに及ぶ驚くべき資料の存在を明らかにした。
ここには「九二年以降、政府によって実施された公共事業の民営化、労働法の改正、年金制度の民営化などの(中略)政策が策定されている。その説明には細部にわたり入念な注意が払われている。(中略)一九九二年以降実施された経済計画はドミンゴ・カバージョの策定したものだと誰もが考えているが、それは事実ではない。」
メナムの登場
この大転換のさなか、『タイム』誌の表紙にメネムが登場した。
ヒマワリの花の真ん中に笑顔のメネム、そして「メネムの奇跡」の文字が躍っている。
たしかに奇跡にはちがいなかった。
メネムとカバージョは国民の反乱を招くことなく、過激で大きな痛みを伴う民営化プログラムを実行したのだ。
いかにして実行できたのか?
「なぜなら国民は、ハイパーインフレを解消して正常な状態に戻るためなら過激な変化でも受け入れようと考えるから」(カバージョ)
後年、カバージョはこう説明している。
「ハイパーインフレによって国民、とりわけ低所得者層や貯金のない人々はひどい目に遭う。たった数時間あるいは数日のうちに物価の上昇によって給料の価値はなくなり、それがものすごいスピードで起こるのだ。国民は政府になんとかしてくれと懇願する。そこでもし政府が安定化計画を示せれば、同時に他の改革も行なう絶好の機会になる。(中略)もっとも重要な改革は経済を開放し、規制撤廃と民営化プロセスを推進することに関連している。だが当時、これらの改革をすべて実行するにはハイパーインフレによって生じた状況を利用することが唯一方法だった。なぜなら国民は、ハイパーインフレを解消して正常な状態に戻るためなら過激な変化でも受け入れようと考えるからだ」
長期的には、カバージョのプログラムはアルゼンチンにとって悲惨な結果をもたらした。
通貨の安定のためにペソをドルに固定する固定相場制を取ったことから、国内で生産される製品の価格が高くなりすぎ、安い輸入品と競争できなくなってしまった。
その結果、大量の失業者が出て、やがて国民の半分以上が貧困ライン以下の生活を強いられることになった。
だが短期的には、この安定化計両は目覚しい効果を現した。
国全体がハイパーインフレのショックに見舞われている間に、カバージョとメナムは民営化をひそかに推進した。
危機がしっかり役に立った。
経済的手腕というより心理的手腕:危機に直面した国民は、魔法の薬を持つと称する者には誰にでも多大な権限を進んで預ける
この時期にアルゼンチンの指導者が発揮したのは、経済的手腕というより心理的手腕だった。
軍事政権の経験豊かなカバージョは、危機に直面した国民は、魔法の薬を持つと称する者には誰にでも多大な権限を進んで預けるということをよく理解していた。
その危機が経済破綻であれ、のちにブッシュ政権が利用してみせるテロ攻撃であれ、同じことである。
危機の後には危機が、そして、津波、ハリケーン、戦争、そしてテロ攻撃が続く
フリードマンによって始められた改革運動が、民主主義への移行という手ごわいプロセスを経ても生き延びた理由はここにある。
その提唱者たちが有権者に、自分たちの世界観がいかに優れているかを説得したわけではない。
彼らは危機から危機へと巧妙に渡り歩き、経済的緊急事態における人々の絶望感を利用して、誕生して間もない脆弱な民主主義政権の自由を奪うような政策を強引に推し進めてきた。
いったんこの手法ができ上がると、チャンスは次々にやってくるように見えた。
ヴォルカー・ショックのあと、1994年にメキシコでテキーラ危機が起き、1997年にはアジアで連鎖的な通貨危機が発生、1998年にはロシアの経済が破綻し、その直後にブラジルが続いた。
やがてこれらのショックや危機の力が弱まると、さらにインパクトの大きい変動が襲うことになる。
津波、ハリケーン、戦争、そしてテロ攻撃。
こうして惨事便乗型資本主義が次第に形をなしてくる。
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